後漢最後の皇帝・献帝こと劉協(りゅうきょう・180-234)の生涯は数奇をきわめている。
その流転の人生については、三国志の物語でよく知られている。凶暴な将軍董卓(とうたく)に擁立され、その死後は多くの権力に飢えた連中の争奪戦の的となり、ようやく曹操(そうそう)の庇護下に入ったものの、曹操の傀儡にしかなれず、数度に渡る打倒曹操の動きもすべて潰され、ついに曹操の子曹丕(そうひ)に帝位を奪われてしまう。その強制された禅譲の場面は、古来多くの人々の涙を呼び、献帝は悲劇の主人公として同情されてきた。
だがむしろ、注目すべきは、数奇な運命に翻弄されながらも、その時々の危機を巧みに乗り越え、帝位こそ失ったものの54年の生涯を生き抜いて、見事天寿を全うしたという点にあるのではないか。
献帝が思いの外したたかだったのか。それとも周囲の状況がそうならざるを得ない展開だったのか。どちらにしても、彼の生涯をもう一度振り返ってみることで、三国志にも別の光が当てられることになるかもしれない。
「前漢は外戚によって亡び、後漢は宦官によって亡びた」とよく言われる。前漢を亡ぼしたのは元帝の皇后だった王政君の一族の王莽(おうもう)だったから、外戚(皇后や皇太后など女系の一族)によって亡びたことは間違いない。
だが、後漢が宦官によって亡びたと簡単に言いきるのは無理があるかもしれない。
確かに、後漢時代の宦官は跋扈をきわめた。後漢の後期を彩った党錮の獄などは、宮廷に巣くって闇の権力を振るう宦官たちに対して、知識人階級が抵抗した事件である。知識人階級は自らを清流と名乗り、宦官とそれに追随する佞臣を濁流と称し、大々的な批難のキャンペーンを張ったのであった。
それだけ見ると「正義の知識人」と「悪の宦官」の戦いのように見えるが、ことはそんなに単純ではない。「清流」知識人の狙いは、要するに就職運動なのである。当時(その後も同様だが)、官吏になってどこかの地方官でも務めれば、控えめにやっただけでも3代は食べられるくらいの莫大な財産を蓄えることができた。官吏の座ほどうまみのあるものはない。就職にあぶれた連中が、自分たちにも分け前をよこせとばかりに大合唱した。そしてすでにうまいことをやっている連中を濁流としてやり玉に挙げたのである。
そこに宦官の力が働いていたのは事実である。
そもそも後漢朝は、官吏登用に一定の基準がない時代だった。官吏登用試験である科挙は、400年後の隋代からのもので、まだ始まっていない。後漢の創始者だった光武帝は、官吏の登用の基準をもっぱら忠孝という点に置いた。有能だが忠誠心の薄い臣下を使いこなす自信がなかったのだろう。この点、前漢の高祖とはタイプが異なっている。高祖は天下をとるまでは、韓信(かんしん)や彭越(ほうえつ)など、忠誠心には疑問がありながらも有能な人材を自在に使いまくり、そのあとで粛正しているが、光武帝にはそういうあくどさがない。
能力よりも人格本位という光武帝の方針は、祖法として後漢朝に引き継がれた。
人格本位というのはよいことのように思われるかもしれない。日本の政治家や官僚も、もっと人格本位で選ばれないものかと思う人も多いだろう。
だが、他人の人格を総合的に評価するなどというのは、おそろしく困難な仕事である。全官僚を、皇帝が自ら選考して、この男ならと見込んだ者だけを登用するなどということは不可能だ。勢い、人格の評価は世評に頼らざるを得ない。世評の高い者を登用するということになってしまう。
そんな曖昧な評価基準であった上に、後漢の皇帝はなぜか幼少で即位して早死にするというケースが相次いだので、官吏登用が側近の手に委ねられるのはやむを得ないことだったろう。
側近といえば、皇帝と起居を共にする宦官こそは側近中の側近である。
自然と、栄達したい者は宦官に接近することになるではないか。
人格本位で新入社員を選ぶとか、学校でもっと人格本位の評価をすべきだとかよく耳にするが、その結果がどうなるかは後漢の歴史がよく顕わしている。人格本位というのは言葉としては美しくても、それを誰が評価するのかということを考えれば、実質は相当にうさんくさいものなのだということを忘れるべきではない。
世評に上れば栄達の道が開けるのだから、この時代の知識人たちは何かと派手な行動をひけらかした。党錮の獄にしても、宦官勢力に立ち向かったというポーズだけのスタンドプレイばかりが横行したのである。現代日本で、政府や官僚を声高に批判しさえすればいっぱしの論客づらができるというのにも似て、当時の中国でも、宦官を批判しさえすればそれなりに世評が高まったのである。宦官の味方をする知識人などほとんどいなかった。
ただ、現代日本の政府は言われ放題であるが、宦官たちは皇帝の絶対権力をバックにしているから、負けていなかった。小うるさい論客たちを次々と摘発しては獄につないだのである。党錮の獄というのは、言論統制とか思想侵害とかそんな高級な次元の事件ではなく、ただの誹謗合戦と見た方が実情にあっている。
実際には、宦官よりはやはり外戚の方が問題であった。そもそも宦官の台頭を招いたのは、外戚の梁冀(りょうき)が好き勝手やったためであり、年少の皇帝が梁冀を打倒するためには、常に周囲に侍っている宦官たちと共にことを図るしかなかったのだった。ちなみに宦官というのは日本にはなかったためイメージが掴みずらいのだが、大奥の管理人・使用人と考えればよい。日本女性は管理能力が高かったのか大奥は女性のみで運営されていたが、中国では古来大奥運営を宦官に任せていた。つまり皇帝の私生活上の使用人である。
そして、後漢末期の政情の混乱を招いたのもやはり外戚であった。霊帝(れいてい)の皇后は何氏といったが、この皇后の兄である何進(かしん)が、外朝の有力者である袁紹(えんしょう)らの口車に乗って、宦官の排斥を図ったのが、そもそものはじまりであり、また三国志物語の幕開きでもある。
普通三国志の物語は、184年に起こった黄巾ノ乱から始められる。しかし、本当のことの起こりは黄巾ノ乱ではない。この乱は道教の一派の新興宗教である太平道の教主張角(ちょうかく)が起こした叛乱だが、準備不足で挙兵したので、1年も経たないうちに鎮圧されてしまった。三国志の物語がこの乱の描写から始められることが多いのは、のちに活躍する英雄たちの多くがこの乱の鎮圧にかり出されることによって名を挙げているからで、乱そのものは、当時の政道の乱れを端的に顕しているとはいえ、後漢朝の興亡にさほどの影響はなかった。
ただ、この乱の鎮圧にあたって、実際に戦った将軍たちよりも、宮廷にいた宦官の方が高い行賞を得たということが、軍人や官僚たちの不満を呼んだのは事実である。宦官のリーダーであった張譲(ちょうじょう)をはじめ、十数人の宦官が一躍列侯に封じられた。
189年に霊帝が没すると、袁紹らの有力者たちは何進を焚きつけ、これらの宦官列侯どもを一掃しようとした。何進は妹の七光りで大将軍に任ぜられているが、出自は肉屋のオヤジに過ぎず、袁紹のような名門貴族に対しては常に劣等感を持っていたようである。言われるままに兵を挙げようとしたが、もともとひとの良さがあって、陰謀ならお手のものであった宦官たちの敵ではなかった。反対に罠にはまって斬られてしまう。
何進が斬られると、それを合図にしたように袁紹は宮中に兵を入れ、宦官たちを皆殺しにした。なんだか何進が殺されるのを待っていたようでもある。いや、確実に待っていたのだろう。名門貴族である袁紹にとって、何進ごときを使い捨てにするのにはなんのためらいもなかったはずである。
有力宦官のうち数名は、なんとかこの修羅場をのがれ、新しく即位した皇帝(少帝)と、その弟の陳留王を伴って脱出した。しかし途中で、何進が殺される前に呼び寄せていた董卓(とうたく)の軍に遭遇し、皇帝と皇弟を奪われてしまう。
董卓は皇帝を担いで首都洛陽に入城し、権力の座に就いた。中華帝国の性質からして、皇帝を擁している者が絶対的に強いのである。
その権力を見せつけたい想いもあったのだろう、董卓は少帝を廃し、異母弟の陳留王を新しい皇帝に即位させた。
兄に代わって皇帝になった陳留王こそ、後漢朝ラストエンペラー、献帝その人である。時に9歳であった。
董卓は洛陽における競争者を次々と抹殺した。さしあたっての強敵は執金吾(首都の治安を司る官職。いわば警視総監である)の丁原(ていげん)だった。役職柄手兵を大量に抱えていたのである。その手兵も、地方から上京していて兵力の少ない董卓にとっては魅力だった。
董卓は、丁原の副官であった呂布(りょふ)を抱き込み、丁原を斬らせると共にその手兵を配下に組み入れた。これにより、董卓は軍事的にも洛陽を制圧した。袁紹ら有力者は歯がみしたが、あいにくと洛陽にいては兵も集められない。次々と自分の本拠めざして逃げ出して行った。その中に、その後献帝と長い確執を繰り広げることになる曹操(そうそう)も含まれていた。
やがて、各地で兵を集めた有力者たちは、董卓を追い落とすべく連合軍を組織して洛陽に兵を向けた。洛陽では地理的に守りずらいと判断した董卓は、洛陽を捨てて、前漢の首都であった長安への遷都を強行した。長安は彼の本拠地に近いという事情もあった。住民ごと強制的に移住させるため、ひいては叛乱軍の拠点にならないよう、董卓は洛陽を徹底的に焦土化したのだった。
長安は、前漢末の戦乱で荒廃したまま、ゴーストタウンとなっていた。無理矢理ここに連れてこられた献帝は、ひどく心を傷めたという。
連合軍はそれを追ったが、董卓が丁原から引き抜いた呂布が防戦した。呂布はおそろしく強く、彼が函谷関を守ると、誰も抜くことができなかった。函谷関はもともと、
──一夫、関にあたれば、万夫もこれを開くことなし。
と言われた堅牢な砦である。そこに三国志最強と言ってよい猛将の呂布がこもったのだから、手のつけようがない。連合軍の諸将の間も必ずしもうまく行っておらず、足の引っ張り合いばかりしていたから、そのうち嫌気がさして陣を払う者も相次いだ。江東の孫堅(そんけん)などがいい例であろう。
敵があるうちは一致団結しているが、敵がいなくなれば内部抗争を始めるのは権力というものの常態なのかもしれない。袁紹・曹操らの連合軍が解散して兵を引くと、長安ではたちまち内訌が起こった。呂布が董卓を殺してしまったのである。呂布は前のあるじであった丁原を殺し、今また董卓を殺したわけで、主君を次々と裏切るとんでもない奴だという評判が高まってしまった。その人格に義というものがなく、利のみでどうにでも動く、欲深で狡猾な男というのが、現代まで一貫した呂布評である。
呂布が丁原を討った時は董卓に抱き込まれてのことであった。今度董卓を討ったのは、司徒(民政長官)の王允(おういん)にそそのかされてのことだった。これで見ると、呂布という男はむしろ、だまされやすいお人好しであったようでもある。その極端に卓越した戦闘能力のために、彼の主人の敵としては、まず彼を引き抜くことを考えたであろう。利益も約束しただろうが、当然大義も掲げたはずだ。呂布はむしろ、その大義に感じて動いたとも考えられる。
のちに劉備(りゅうび)が袁術(えんじゅつ)に攻められた時、呂布はお節介にも和解の仲介をしている。また、彼の最期、曹操に攻められ捕らえられた時、彼は自分が処刑されるとはまるで思っていなかった。このような事実から考えると、呂布は呂布なりに常に大義によって動いていたつもりであって、自分が悪いことをしていたなどとは少しも考えていなかったのではないか。
呂布にやや深入りしてしまったが、ともかく董卓は殺された。しかしその部将たちの復讐戦により、さすがの呂布も長安を追われ、糸を引いていた王允は殺されてしまった。
次はその部将たちの間での反目である。幼い献帝はこの争いに翻弄された。皇帝を担いで優位に立とうとした者が、献帝を宮廷から拉致するという事件まで起こった。皇帝の尊厳などあったものではない。
自分が長安にいるから争いが起こるのだと考えた献帝は、洛陽に帰ると言い出した。
献帝がはじめて自分の意志というものを表明した瞬間であり、そして意外にもこの意志はちゃんとかなえられた。部将たちは苦りきったものの、お互い牽制しあっている状態だったから、強く反対することができなかったのである。強く反対すれば、自分が献帝を担いで優位に立とうとしていると勘ぐられるおそれがあった。
それで献帝とその一行は、洛陽に向けて出発した。
が、すんなりとはゆかなかった。思い直した長安の一派が追いかけてきたのである。この時献帝を救ったのは、なんと白波谷(はくはこく)に巣くう盗賊の一団(日本の「白波五人男」の由来でもある)と、匈奴(きょうど)の軍勢であった。本来皇帝権力に逆らう存在であるはずの盗賊や異民族に、正規軍の追っ手から皇帝が救われるのだから世も末である。
しかしこの盗賊と異民族の間にもたちまち争いが起こった。長安からの追っ手も近づき、収拾のつかない騒ぎになりかけたところへ、曹操が登場する。
曹操の率いる軍勢は規律も正しく、有象無象を追い散らして献帝を迎えた。
そして、洛陽は董卓の破壊からまだ再建されていないという理由により、曹操は献帝を、自らの本拠地である許(きょ)へと連れ帰ったのである。これ以後、許は許都と呼ばれるようになり、後漢末から魏初にかけての首都として機能した。
董卓も献帝を担いで権力を振るったし、その部将たちも献帝をわが掌中におさめようと争ったが、担いだ皇帝の使い道をよく知らなかったと言ってよい。その点、貴族の子弟であった曹操は皇帝の利用法を心得ていた。皇帝から権力を引き出すだけではなく、より重要なことは権威を引き出すことなのである。皇帝を盾にして大義名分を振りかざせば、誰も表立っての反抗はできなくなる。董卓はそれをやらなかったため、連合軍に攻められるはめになった。
その点曹操は、献帝を担いでいることの有利さをとことん活用した。自分の命令をすべて勅命ということにした。こうすれば曹操に逆らう者は、すなわち皇帝に対する反逆者、朝敵ということになる。
現実に、これを機に曹操の陣営に属してくる勢力も急に多くなった。誰しも反逆者の汚名をこうむりたくはないものだ。それに大義名分を持つ側というのは、実際よりも強く見えるものである。強い方に属すというのは乱世の生き方として当然である。
また曹操自身が、投降者に対してすこぶる寛容な性格でもあったため、それを慕う者も多かった。かくして曹操は日ならずして、強大な勢力へと成長した。
献帝は最初の頃、わが身を救ってくれた曹操に感謝し、彼の傀儡であることに甘んじてもいた。
が、やがて成人し、物事がわかるようになると、自分を利用してばかりいる曹操が煙たくなってきた。
これは献帝の忘恩というものではない。皇帝権力というもの自体が、格別に強力な臣下の存在を嫌うという性格を持っているのである。ある特定の臣下の勢力が強すぎれば、別の勢力に肩入れしてそれに対抗させるというのは、皇帝権力の本能と言うべきもので、献帝個人の性格や思想とはなんの関係もない。ましてや曹操が献帝をないがしろにしたしたなどということはあり得ない。
ともあれ献帝の周辺でも、曹操を掣肘しようという動きが始まった。
最初に中心となったのは、献帝の祖母・董氏の弟の董承(とうしょう)である。彼は曹操の侍医を抱き込むと共に、馬騰(ばとう)や劉備らの武将に声をかけて曹操を排斥しようとした。が、武将たちはおそれて逃げ、クーデターは失敗に終わった。董承は殺され、その一族で献帝の側室になっていた董貴人も処刑された。
この事件を契機に、曹操は献帝の周囲に警戒するようになった。献帝としてはますます不愉快な気分になったことは言うまでもない。
曹操は献帝を擁しつつ、ライバルの袁紹を官渡(かんと)の戦いで撃破し、華北の大部分を制圧した。さらに南方へ軍を向け、荊州の劉表(りゅうひょう)を脅かした。劉表は心労のあまり病死し、あとを継いだ劉琮(りゅうそう)は曹操に降伏した。
荊州をくだした勢いに乗って、曹操は長江の南岸に勢力を張っている孫権(そんけん=反董卓連合軍に参加した孫堅の次男)の一党をも制圧しようとした。
だが孫権は、劉表の食客になっていた劉備と手を結び、曹操に抵抗の構えを見せた。
おりから曹操の陣営ではたちの悪い疫病が流行し、そこにつけこんだ孫権配下の将軍周瑜(しゅうゆ)の奇襲攻撃により、曹操軍は大敗してしまった。世に言う赤壁の戦いである。この敗北はかなり壊滅的だったようで、曹操はこのあと何度も南下を試みたが、二度と長江を渡ることはできなかった。
この様子を見て、再び献帝周辺がクーデターを画策した。今度は献帝の皇后伏氏が中心である。伏氏は父親の伏完(ふくかん)に働きかけて曹操打倒を図った。
ところが、赤壁で敗れたとはいえ、曹操は油断していなかった。クーデター計画はまたも未然に漏れ、伏完は娘の皇后ともども処刑されたのである。
この時、曹操の手の者に連れ去られようとする伏皇后が、献帝に向かって、
「お救いいただくわけには参りませんか」
と哀願したところ、献帝は涙を流しながら、
「朕もまた、いつまでの命とも知れぬ身なのだ」
と答えたという話があるが、要はクーデターが失敗したので、献帝は保身のために首謀者たちを見捨てたのであった。これもまた、献帝が薄情だったのではなく、皇帝にとって、危なくなればスケープゴートを仕立ててわが身を救うというのは本能的なことなのである。前漢の呉楚七国の乱の時、名君と言われた景帝でもこれをやっている。もっぱら景帝のために各王国の取り潰しを図っていた鼂錯(ちょうそ)を、叛乱軍が攻めてくるとあっさりと切り捨ててしまった。中華皇帝にとっては当然のことなのだ。
伏皇后は無惨にも棍棒で殴り殺されたという。高貴な女性に対してこれほど残酷な処刑をしたということは、やはり陰謀の中心が皇后であったことを想像させる。
曹操は、死んだ伏皇后に代わって、自分の娘を皇后として送り込んだ。かくして曹操は実力者の功臣であるばかりか外戚となったわけである。献帝から帝位を奪ったのは曹操の息子の曹丕(そうひ)、つまり皇后の兄であったのだから、後漢朝を亡ぼしたのは宦官ではなくてやはり外戚に他ならない。
ちなみに、前漢を簒奪した王莽の所行をもっとも憤ったのは、彼を引き立てた伯母の王太皇太后であったが、曹丕の簒奪をもっとも非難したのも、妹である曹皇后だったという。
ここで問題とすべきは、何度もクーデターを起こそうとした叛服常ない献帝を、曹操はなぜ退けられなかったのかという点である。
曹操は献帝の権威を振りかざして、大義名分を唱え、周囲を従わせて行った。それは曹操のすぐれた戦略であったが、また自縄自縛に陥る道でもあった。
一旦掲げた旗を降ろしてしまえば、曹操は大義名分を失ってしまうのである。赤壁で敗れて二度と雪辱が果たせなかったのでわかる通り、曹操の持つ力は決して絶対強ではなかった。三国志の物語だけを読んでいると、曹操の強さはいやみなほどであるが、長い中国史の中で曹操の強さと言えば、ベストテンにも入らないだろう。
献帝を担いでいるからこそ、一応一頭地を抜いていられるのである。少なくとも曹操自身そう考えていたに違いない。気に入らないからと言って皇帝を廃したりすれば……曹操は若い頃に董卓という反面教師を見ている。現在従っている連中も一斉に立ち上がって反旗を翻すのではないか。現に、曹操が片腕とも頼んでいた謀臣の荀彧(じゅんいく)は、曹操が魏公の称号を受けることさえ反対した。荀彧はあくまで、曹操の力を借りて皇室を盛り立てようとしていただけなのであった。曹操の不興をこうむった荀彧は自殺したが、曹操はショックだったことだろう。
どんなに目障りでも、曹操は献帝を退位させたり弑殺したりするわけにはゆかなかった。献帝自身、あとになるとそのことに気づいていたふしがある。
曹丕もまた、帝位を簒奪しながら、献帝を殺すことはできなかった。
献帝に与えられた待遇は、史上のラストエンペラーたちの中でも破格に近い。山陽公に封じられ、莫大な隠居料を与えられ、日常の食事や用度品も皇帝並み、しかも皇帝のみに許される「朕」の一人称を使う許可さえ与えられた。
もしかしたら、献帝自身が、帝位を譲る見返りとして、以上の厚遇を要求したのかもしれない。
献帝の立場は、どう考えても強かったはずだ。曹丕はいまだ全中国を支配するに至っていない。東南には孫権が、西南には劉備が、それぞれの勢力圏を確保している。そのどちらかに献帝が身を寄せれば、それだけで大義名分の所在が移ってしまうのだ。曹丕は大義名分の威力をよく知っていた。あるいは知り過ぎていたと言えるかもしれない。本当は彼の建てた魏王朝は、すでに献帝の権威など必要としていなかったのかもしれないのだが。
しかし、献帝から平和裡に帝位を委譲されたという形をとりたかった曹丕としては、献帝を優遇せざるを得なかったのである。
なお、献帝が曹丕に帝位を譲ったという噂は、西南の蜀(しょく)にあった劉備陣営には、
──曹丕が献帝を弑し、帝位を奪った。
とはじめ伝わった。
劉備はそのため、同じ劉姓の者として、漢王朝を継承するという建前のもとに皇帝を名乗った。
ついでながら劉備が漢皇室の血を継いでいて、系図を調べると献帝の叔父に当たったので皇叔と呼ばれたなどという話は眉唾である。しかし、劉備は世過ぎをする上で、劉姓であることを最大限に活用した。荊州の劉表、益州の劉璋(りゅうしょう)も、どこまで本気だったかはわからないが、劉備の兵力を利用するために同族として扱ったのだった。
その後、献帝が生きていることが判明したが、もはや劉備の即位を取り消すことはできない。だが、献帝が生きているのに勝手に皇帝を名乗ったとすれば、それは僭称というものである。
それで、劉備の建てた蜀(国号はあくまで漢であったが)政権においては、献帝のことはアンタッチャブルとなった。あくまで曹丕に殺されたという建前を貫いたのである。このことが、蜀に暗い影を落とすことになってしまったのはやむを得ない。
山陽公となった献帝は、その後よほど気楽になったのか、簒奪した曹丕より8年も長く生きた。彼が死んだ年、蜀をひとりで支えていた丞相諸葛孔明が五丈原で陣没する。孔明は献帝よりひとつ年下であった。
三国志の物語の多くは、諸葛孔明の死で筆が置かれることが多い。つまり献帝は、三国志物語の最初から最後まで、常にその中心近くで見届けていた、したたかな歴史の証人だったのである。
(1999.5.29.)
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