LAST EMPERORS

第11回 昭宣帝(唐)の巻

 短命に終わったのあとを継いで中国のあるじとなった王朝は、618年に高祖李渕(りえん)が即位してから、907年に朱全忠(しゅぜんちゅう)によって亡ぼされるまで、289年の永きにわたって命脈を保った。漢と共に中国人がもっとも誇りを持って回顧する時代であり、わが日本ともひとかたならぬ関係を築いた王朝であった。
 もっとも、690年から705年にかけての15年間、唐という国号は断絶している。漢が王莽(おうもう)の簒奪によって断絶したのも同じく15年間だった。そうなると、その期間をはさんで前唐・後唐と分けてもよさそうだが、そうはなっていない。
 唐を断絶させてという国号を建てたのは、3代皇帝高宗の皇后だった武照(ぶしょう)である。彼女は中国史上唯一の女帝に即位し、みずから則天(そくてん)と号した。それゆえ武則天、あるいは則天武后と呼ばれる。則天武后ではただの皇后でしかなかったように読めてしまうので、最近は武則天と呼ぶことが多い。

 中国は古くから男尊女卑の国ということになっているが、建前と実態はたいてい違っている。女があまりにおっかないので、男どもはなんとか女を抑えつけるために儒教道徳を持ち出したのだと分析する研究者さえいるくらいだ。
 「娘」は確かに弱い。「嫁」もそれほど強くはない。だがひとたび「母」となると、中国女性は圧倒的な力を発揮するのである。夫が先に死んだりすると、もう怖いものはない。老太々(ラオタイタイ)と尊称され、家族の中での絶対権力を掌握する。老太々の言うことには、誰ひとり逆らえないのである。ゴッドマザーと言ってよい。
 皇室もひとつの家族である以上、その原則は生きている。絶大な力を持つ皇帝といえども、その母である皇太后には決して逆らうことができない。皇太后が不幸にして権勢好きな女だった場合、皇帝は往々にして飾り物となる。
 武則天も、夫高宗の死後、皇室に絶対者として君臨した。息子の4代皇帝中宗が自分の皇后の一族をとりたてようとすると、武則天はさっさと中宗を廃立してしまい、その弟の睿宗(えいそう)を立てた。やがて睿宗も廃してしまい、みずから皇帝となった。
 中国は古来夫婦別姓である。唐というのは李氏の王朝であった。彼女は武氏であったから、王朝の姓が代わった(易姓)ことになり、従って別の国号を立てたわけである。

 武則天の死にわずかに先立ち、中宗が復位し、国号も唐に戻った。唐の立場からすれば、武則天はいわば簒奪者、大罪人であるはずだが、復位した中宗は彼女の息子であるため、の倫理の方が優先されて、武則天が貶められるということはなかった。
 なお中宗は、あろうことか自分の妻の(い)皇后と娘の安楽公主とに毒殺されてしまう。韋皇后は、武則天に倣って、自分も新しい王朝を開こうと考えたのである。そして安楽公主が皇太女となることが約束されていたらしい。
 韋皇后は中宗の側室の子を帝位に就け、その禅譲を受けようとしたが、中宗の弟である睿宗、というよりもその息子の李隆基(りりゅうき)によって攻め滅ぼされた。李隆基はその後玄宗となった男である。韋皇后は玄宗にとって伯母に過ぎず、安楽公主も従姉に過ぎなかったから、容赦なく誅殺したのだった。儒教的な考え方からすると伯母も敬わなければならないはずだが、そこは建前というものだろう。また異姓であれば他人という考え方かもしれない。中国の夫婦別姓は、なかなかややこしいのである。

 さて、話が先走りすぎたが、高祖李渕はいささか優柔不断なところがあり、天下をとったのはどちらかというと息子たちの働きによるものだったようだ。だが、のちにその息子たちが相争い、次男の李世民(りせいみん)が兄と弟を謀殺して後継者となった。これが太宗だが、史書は太宗の功績ばかり顕彰して、本来の皇太子であった(つまり最大の敵であった)兄李建成(りけんせい)のことはことさらに過小評価しているから注意が必要である。
 太宗がこのような挙に出たのも、結局高祖が優柔不断だったからで、太宗の能力を認めたのなら皇太子を換えればよかったのだし、その能力が邪魔なら太宗を遠ざけておけばよかったものを、太宗を天策上将などと称させ、他の将軍たちの上に立つ存在などということにしたものだから、野心を抱かせてしまったのであろう。おかげで高祖はふたりの息子を失ったばかりか、退位して太宗に位を譲らなければならなかった。トップの優柔不断は時に大きな不幸を呼ぶものである。

 唐の太宗と言えば、有名な貞観の治を成し遂げ、中国史上最大の名君とされる人物だが、名君であるためには権謀術数が不可欠だったということを忘れてはならない。
 また、彼のもとには房玄齢(ぼうげんれい)、杜如晦(とじょかい)、魏徴(ぎちょう)、李靖(りせい)、尉遅敬徳(うっちけいとく)、褚遂良(ちょすいりょう)など錚々たる名臣賢臣が揃っていたし、皇后の長孫(ちょうそん)氏も稀に見る賢夫人であった。朝廷がいちばんいい形で機能していたのが貞観の治の秘訣であって、太宗ひとりの功績とは言えない。ただ、臣下が自由に発言できる雰囲気を太宗が作っていたことは間違いなく、その意味で名君であったことは否定できない。
 人材集めにも熱心だったようで、密出国してインドへ私費留学して帰ってきた三蔵法師玄奘(げんじょう)を執拗に仕官させたがったことが知られている。

 その太宗も、後継者問題でミソをつけた。長孫皇后は3人の皇子を産んだが、皇太子に立てられていた長子の李承乾(りしょうけん)は狂疾の気があって不適格となった。次子の李泰(りたい)は性格が強すぎたようで忌避され、結局長孫皇后の兄長孫無忌(ちょうそんむき)の意見に従い、第3子の李治(りち)を後継者としたのである。李治はおとなしい男だったので、長孫無忌としては操りやすいと思ったらしい。
 が、李治が即位して高宗になると、彼を操ったのは長孫無忌ではなく、武則天だったのである。果敢さと美貌と狡知を兼ね備えた女であった武則天は、たちまち高宗を影響下にとりこみ、長孫無忌を追放してしまった。
 みずからも庶民階級の出身であった武則天は、家柄だけで高位高官にあった連中を片端から粛正し、科挙に合格した者たちを重用した。科挙は隋の文帝がはじめたのだが、定着したのは武則天時代である。そののちおそろしいばかりに形骸化して、受験地獄と試験秀才だけを産み出すことになる科挙も、この時期は実に鮮やかな活力を政界に導入していた。武則天がいろいろひどいこともしながら(高宗の最初の皇后だった氏への振る舞いなど)、当時案外評判が良かったと言われるのも、世の中の活気と希望をふくらませることができたからだろう。ただの権勢好きの女ではなかった。

 なお、日本が亡国に瀕した百済(くだら)を救援すべく朝鮮半島へ出兵し、白村江(はくすきのえ)で唐と新羅(しらぎ)の連合軍に惨敗したのは、高宗期、すなわち武則天時代のことであり、よりによって唐の国力や勢いがいちばん高揚している時に戦ってしまったのであった。これが晩唐の頃であれば、もしかすると勝っていたかもしれないのだが。
 ただ、この惨敗によって、日本国内ではにわかに危機意識が強まり、しゃにむに唐の制度を導入して、国家としての体裁を調えることになった。奈良朝から平安朝へかけての隆盛期はここから始まると言ってよい。第2次大戦後と同様、日本は負けることによって飛躍への鍵を手に入れたのである。また、負かされた相手(唐およびアメリカ)を、見栄も外聞もかなぐり捨てて徹底的に見習うといった態度も共通している。いわばこういう負けっぷりの良さが日本の秘密なのかもしれない。
 それはともかくとして、唐の話である。

 唐の都長安は、疑いもなくその当時世界最大の都市(人口約200万)であり、またきわめて国際色豊かな街でもあった。イラン人ソグド人などの商人が大量に入り込んでいたし、道を歩けば金髪碧眼の少女に出逢ったりした。また宗教についても寛容で、道教、仏教はもちろん、ゾロアスター教マニ教イスラム教ネストリウス派キリスト教(景教)など多彩な寺院が共存していた。
 多様な価値観を持つ人々を寛容に受け容れるというのは、自信と実力が共に備わっていなければできることではない。唐は確かに「大帝国」であった。
 日本の遣唐使阿倍仲麻呂が、高位に就くことができたというのも、唐という王朝が世界に向かって開かれていたればこそである。唐朝の李氏は鮮卑族であったかもしれないと言われているが、純粋な漢民族でなかったからそういうことができたとも考えられる。
 さらに武則天は宮廷内では恐怖政治を敷きながらも、国全体の活力を引き出して人々の生活を向上させた。武則天死後のごたごたにもかかわらず、唐朝の勢威はかげりを見せることなく、彼女の孫である玄宗の手にその果実が受け渡されたのである。

 玄宗は712年に即位した。この時父・睿宗はまだ存命であった。皇太子だった李隆基と、睿宗の妹である太平公主との間に険悪な権勢争いが生じ始めていて、それを憂いた睿宗が、早めに息子に譲位したのだった。太平公主は懲りもせずにその後も策動を続けたが、帝位に就いた玄宗は隙を見てこの叔母を処刑してしまった。玄宗は伯母と叔母を殺したわけで、なるほど兄弟を殺して権力をもぎとった太宗の曾孫だけのことはある。血は争えないものだ。
 果断で意欲的で、緻密でもあり、しかも自ら作詩や作曲をするほどで芸術への理解も深く、玄宗の皇帝としての資格は充分だったと言えよう。
 だが、彼の治世はいささか長すぎた。漢の武帝の53年には及ばないものの、44年間も続き、さらにそのあと6年間の息子粛宗の治世中も上皇として君臨していたのだ。
 後半は、玄宗の欠陥が出て、唐朝そのものを揺るがす大事件が勃発してしまったのである。

 玄宗の欠陥は、ひとつことにやたら癡るという点にあった。
 それが人間に向けられた場合、とてつもない寵愛を受ける人物が出現することになる。
 実は、これは皇帝としてきわめて危険な性癖なのだ。
 玄宗に破格の寵愛を受けた人物はふたり。かの絶世の美女楊貴妃、そして異民族の武将であった安禄山(あんろくざん)である。そしてこのふたりが、唐朝の屋台骨をぐらつかせた。
 楊貴妃は、漢の呂后とか西晋の賈后、あるいは武則天のように、みずから権勢を求めるという女ではない。老いの坂にさしかかった玄宗が、楊貴妃の歓心を買おうと思って勝手に彼女の一族を要職に就けたり財物を与えたりしただけのことである。しかし、要職に就けられた彼女の親類の中には、野心家もいた。国忠という名を賜った楊貴妃の従兄は、大変な野心家で、当時絶大な権力を持っていた宰相の李林甫(りりんぽ)を巧みに陥れて、その権勢を奪い取ったのであった。

 一方安禄山である。200キロ近い巨体の持ち主だが、えらく愛想の良い男で、玄宗や楊貴妃の前で道化を演じ続けたため、次第に寵愛を受けた。寵愛するだけならよいのだが、玄宗は彼に3つもの節度使を兼任させるという大盤振る舞いをしてしまった。
 節度使というのは、当時の地方長官で、行政権と軍事権を兼ね備えた強力な存在である。任地においては小皇帝と言ってもよいほどの力を持っていた。そんな強力な役職を3つも兼任させては、野心を持てと言っているようなものである。
 さすがに、李林甫に代わって宰相となっていた宰相楊国忠は目端の利く男で、その危険性を察知し、玄宗に口を酸っぱくして進言した。
 「安将軍に酬いるならば、高位を与えてやればよろしいではございませんか。軍事権を持つ節度使の職などをいくつも与えては、万一彼が叛心を抱いたらいかがなさいます」
 だが、玄宗は聞かなかった。あの道化のような安禄山が謀反など起こすはずはないと信じていたのだろうか。皇帝の治世が長くなると、こういう硬直化が始まってしまうのだ。

 はたして、安禄山は燕の地(現代の北京地方)で兵を挙げ、古都洛陽を陥とし、函谷関に迫った。唐朝側は善戦したものの、朝廷との意志疎通がうまくゆかず、守将が讒言で退けられるなどの醜態もあって援軍もままならず、次第に押しまくられた。
 とうとう玄宗は楊貴妃や楊国忠と共に長安を脱出した。
 逃避行の途中、随行の兵士たちが突如居直り、楊国忠と楊貴妃に死を賜るよう玄宗に要求した。衆怒侵すべからず。玄宗は要求に従うより外なかった。玄宗はふたりの人物を寵愛した揚げ句に、ふたりとも失うことになってしまったのである。自業自得と言えば言える。

 安禄山の軍はすこぶる意気盛んだったが、顔真卿(がんしんけい)、郭子儀(かくしぎ)らの活躍で、思ったほど攻略がはかどらない。そのうち陣内でも内部摩擦が発生し始めた。
 眼病を病んで気短になっていた安禄山は、粗暴になって部下の恨みを買った。さらに後継者の安慶緒(あんけいちょ)を疎んじて、愛妾の産んだ別の子を寵愛したもので、危機感を持った安慶緒と、幾人かの部下たちの謀計により、暗殺されてしまう。
 が、安慶緒は部将の史思明(ししめい)に討たれ、今度は史思明が叛乱軍の頭領となったが、愚かなことに安禄山とまったく同じパターンの後継者争いで息子の史朝義(しちょうぎ)に殺されてしまった。3重の簒奪を経た史朝義はもはや人望もなく、雍王李适(りかく)率いる唐軍に大破されたのち、寝返った部将に討たれた。
 かくして8年の永きに及んだ「安史の乱」は763年、ようやく収拾されたが、すでに玄宗も、息子の粛宗もこの世にはなく、粛宗の子代宗の世になっていた。

 安禄山が結局唐朝を覆せなかったのは、江南地方の穀倉地帯を押さえることを怠ったからだと言われている。逆に唐朝側としては、南を保持できたからなんとか命脈を保つことができた。
 だが、唐朝の最盛期はすでに過ぎてしまった。唐はこのあと140年余り続くが、太宗期から玄宗期にかけての長安の繁華さは、ついに二度と戻ることはなかったのである。
 とはいうものの、日本から最澄空海が入唐した804年頃は、まだまだ大帝国の骨格が残っていたようだ。安史の乱のダメージから立ち直って、各地の治安もすっかり回復していた。空海らの船は難波して福州あたりの海岸に流れ着いたが、長安までの旅はごく安全に進めることができたのである。
 ただ、表面の繁栄とはうらはらに、唐朝の内部では宿痾と言うべきものが進行していた。
 安史の乱の直後、吐蕃(とばん)が攻め寄せてきた。長安にまで侵攻し、代宗が一時難を避けて脱出しなければならなかったほどである。またそのあとにはウイグルの侵入もあった。周辺民族たちは、そろそろ唐王朝を舐めてかかり始めたのである。
 なんとか撃退したものの、その撃退のためには、地方の実力者に強大な権限を与えざるを得なかった。特に河北三鎮と呼ばれる北方の地域では、節度使が独立大名化してしまい、唐朝の指示が届かなくなってしまったのである。新しい役人を派遣しても追い返されてしまう始末。しかしそれをどうすることもできなくなっていたのであった。

 中央ではいわゆる「牛李の党争」に始まる政争の季節となっていた。
 官吏登用試験である科挙は、隋の文帝が始め、武則天が大いに活用したが、まだ家柄によって出世する連中も多く、中唐から晩唐にかけてのこの時期、ようやく科挙によって選抜されたエリートと、家柄によって高位についているエスタブリッシュメントとの勢力が拮抗したのである。多くの既得権を持つ貴族連中が、科挙によるエリートたちに反感を持ったのは当然であろう。
 抗争は下級の役人たちも巻き込んで泥沼化した。上層部が勝手に権勢争いをしているだけなら人民に影響はないが、この両者は政治哲学そのものが異なるため、どちらが優勢になるかによって政令もころころ変わり、朝令暮改の様相を呈してきた。こうなると庶民はたまったものではない。
 後漢以来逼塞していた宦官勢力もふたたび強まってきた。政争が大規模になると、どちらが皇帝に認められるかという争いに転化するのは避けられない。自然と、皇帝周辺にいる宦官たちに口を利いて貰った方が得ということになる。かくして宦官は自分たちの持つ力を自覚する。より多くの賄賂を要求するようになる。
 政治に金がからむようになってきた。その資金源は、地方の庶民から吸い上げる税である。

 868年に、交代の時期を無視された辺境防備兵らの不満をまとめた龐勛(ほうくん)が叛乱の狼煙を上げた。2年ほどにわたって暴れ回ったが、突厥(とっけつ)の勢力を傘下におさめた右金吾将軍康承訓(こうしょうくん)によって鎮圧される。
 この時はなんとか鎮圧できたが、875年に始まった黄巣(こうそう)の乱は長引いた。そして事実上、この乱によって唐朝は屋台骨を引き抜かれてしまうのである。
 黄巣の乱は実に10年の長きにわたり、ついに首都長安さえも陥落し、僖宗皇帝は成都に逃げ出した。黄巣は大斉の皇帝と称し、百官を任命して新王朝を作り始めたが、いささか早すぎた。唐朝側は次第に力を盛り返し、それを見た黄巣の部将の朱温(しゅおん)は唐朝に寝返る。僖宗は喜び、朱温に全忠という名を与えた。さらに猛将李克用(りこくよう)が起用され、黄巣の旗色が悪くなった。
 黄巣は一通りの学問は修めた男であったが、国家の運営についてはまったく素人であった。一旦は黄巣に帰服した者たちも、やがて失望し、ひとり去りふたり去り、ついには雪崩を打って逃げ出して行ったのである。瑕丘(かきゅう)の一戦で壊滅的な打撃を受け、黄巣はとうとう自決した。

 僖宗はようやく長安に戻ったが、すでに実力者の朱全忠と李克用に実権を制せられていた。そうなると次は当然ながら、朱・李両雄の勢力争いとなる。李克用は勇猛一点張りの軍人で、政治的策動を苦手としたため、次第に朱全忠に主導権を握られた。
 僖宗は彼らの争いを眺めて憂悶しつつ亡くなり、息子の昭宗があとを継いだ。昭宗は朱全忠に頭が上がらず、彼の言うままに都を洛陽に遷さざるを得なかった。遷都の途中、道端の人々が昭宗の車駕を見て、
「皇帝陛下万歳!」
と叫んだが、昭宗は落涙して、
 ──もう万歳とは言ってくれるな。朕はすでに、そなたたちの主とは言えぬのだ。
 と言ったという。
 昭宗はやがて朱全忠に暗殺され、幼少の皇太子が即位した。これが唐朝最後の皇帝、昭宣帝(哀帝)である。唐朝から、皇帝の追号は宗廟名で呼ばれるようになっているが、昭宣帝には宗廟がないため、何宗という呼ばれ方はしない。
 昭宣帝は、朱全忠が簒奪するためにのみ即位させられた皇帝であり、3年足らずの在位に過ぎなかった。そして、譲位した翌年に朱全忠に殺されてしまった。その人となりはほとんどわからない。

 あれほど隆盛を誇った唐であったのに、最後はほとんど、南北朝時代のラストエンペラーたちと変わりのない末路をたどったのである。諸行無常なり。
 朱全忠の簒奪に反対したのは、実の兄ただひとりだったという。廷臣たちは誰も彼も保身を考えて、朱全忠にすり寄っていたのだ。兄は朱全忠をつかまえ、
 「おい朱三(朱全忠の幼名)、おまえが天子様になるなど、大それたにもほどがあるぞ」
と言ったが、もちろん弟は聞かなかった。
 かくて唐王朝は亡び、朱全忠の開いた後梁が取って代わった。
 しかし、後梁は全国を支配したのではない。洛陽周辺の狭い地域だけである。そう遠くないところには、宿敵だった李克用の子の李存勗(りそんきょく)が、後梁に一矢報いようと爪を研いでいる。世は再び乱れ、五代十国の乱世とはあいなったのである。

 (1999.11.9.)


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