女真族政権「金」に攻め立てられた宋は、退位して上皇となっていた第8代皇帝徽宗(きそう)と、第9代皇帝欽宗(きんそう)が、一網打尽に捕虜になってしまい、1127年に一旦亡びた。
だが、欽宗の弟(徽宗の第9子)であった趙構(ちょうこう)がこの時、首都開封を離れていた。趙構は兄の勅命を奉じて金との交渉をすべく北上中であったが、途中で宗沢、汪伯彦などの地方官に引き留められた。もはや金との和平交渉を進める時期は逸してしまったというのだ。そうこうするうちに徽宗と欽宗の捕囚が伝えられ、翌1128年5月、応天府(現在の商丘)で自ら即位して皇帝を名乗った。これ以後を南宋と呼び、趙構は南宋第一代皇帝の高宗ということになる。
南宋はしばらく金と戦うが、とてもかなわず、高宗は南へ南へと逃げ延びて、結局杭州まで南下してようやく落ち着いた。風光明媚で知られる杭州が南宋の事実上の首都ということになったが、この街は南宋時代を通じて臨安、行在などと称された。臨安は「臨時の安息場所」であり、行在は天子が旅行先で滞在する宿舎のことである。南宋の朝廷は、杭州はあくまで臨時首都に過ぎないと言い張ったわけだが、この臨時首都は150年近くそのままになってしまった。
金の方も、宋をとことんまで追いつめるだけの力はなかったのである。華南地方に入ると河川や運河が錯綜して騎馬部隊がうまく展開できず、勝手の違う水戦を強いられることになり、さしもの強兵の金軍も苦戦するようになった。
何よりも、金の中核を成す女真族の数が少なすぎた。また先に亡ぼした遼の地域の平定もまだ済んでいないので、戦線が伸びきると遼の残党が蜂起して立ち枯れてしまうおそれがあったのである。
そこで、とりあえず華北地方には楚という傀儡国家を建て、開封で捕虜になった宰相の張邦昌(ちょうほうしょう)を帝位に就けた。張邦昌は必至で辞退したが、徽宗と欽宗を人質に取られた形になっているので、逆らいきれなかったのである。
その後、一時南宋軍が盛り返して北上した時、この傀儡皇帝張邦昌は即座に降伏し、高宗の前にひざまづいて許しを乞うた。高宗は一旦彼を許すが、朝廷内の強硬派が張邦昌を指弾し、結局前言を翻して斬られることになってしまう。むろんのこと、張邦昌の処刑は、金をさらに怒らせる結果となった。
一度は盛り返した南宋だったが、金はまた押し返し、今度は劉予(りゅうよ)という人物を立てて斉という国を作らせた。斉は7年間ほど続いたが、傀儡皇帝の劉予は評判が悪く、また金としても、ようやく遼の旧版図の宣撫が済んで傀儡国家の必要がなくなったため(金の上層部の勢力争いの結果とも言われる)、1137年に斉を廃止したのであった。この楚と斉のふたつの王朝は、傀儡王朝であることがあまりにも露骨なせいか、歴史上王朝とは認められていない。
ところで、「勝手に皇帝を称した」という罪状で張邦昌を斬った高宗は、その瞬間から自己撞着を起こしてしまったことになる。
というのは、高宗自身が、金に囚われたとはいえまだ存命である父徽宗、兄欽宗に断りもなく、勝手に皇帝を称しているからである。
もしも金を撃退して二帝を奪回できたとすると、当然ながら高宗は皇帝の座を父か兄に明け渡さなければならなくなる。のみならず、張邦昌を斬った論理でゆけば、高宗もまた斬られるべき存在となってしまうのである。
宋という時代は、そういう名分論に異常なほどうるさかったから、高宗といえども安心してはいられない。
高宗はある時点で、そのことに気づいたはずである。そうなると、金を討伐するのもよしあしということになって、急に高宗の歯切れが悪くなった。
勇ましく領土回復を唱えて金に立ち向かおうとする若い将軍岳飛(がくひ)をあえて罪に落として処刑してしまったのもそのためであろう。一般には、岳飛は腹黒い宰相秦檜(しんかい)に陥れられたということになっているが、その主張と戦闘力の強さ(下手をすると本当に二帝を奪回してしまいかねない)に高宗が危惧を抱いたからに違いない。少なくとも高宗がそういう気持ちでいたからこそ、秦檜もそれを察して岳飛を追い落としたのだと言えよう。
金の側も、やがて高宗のそういう弱みに気がついたらしい。囚われていた徽宗は1135年、金の太宗と同年に死んだが、まだ生きていた欽宗を、南宋側に返還しようかというサインをちらちらと見せるようになる。これに対し南宋としては、表向きはどうあっても欽宗や皇太后たちなどの返還を求めざるを得ない。しかし本音としては欽宗に帰られては困る。交渉役はすさまじいばかりの腹芸と詭弁のアクロバットをこなさなければならないわけだが、それを辛くもやりとげたのが秦檜に他ならない。秦檜は史上でも一二を争うほどの佞臣扱いをされている男だが、彼は何よりも(宋という王朝よりも)高宗そのひとに忠実だったのだと言うべきであろう。
秦檜の天才的な交渉により、高宗の妃や母親(徽宗の皇后)などは次々と杭州にやってきたが、ついに欽宗だけは、本人の再三の懇願もむなしく、30年間を異郷に暮らして1157年に果てた。欽宗は南宋に引き取られてゆく母や弟嫁に、
──何とぞ私も迎え入れられるよう、弟によろしくお伝えくださいませ。
と頭を下げたし、宋の使者に対しては、もし自分が宋に戻っても帝位に就く気などないと、悲痛なほどに訴え続けたが、高宗はとうとうこの哀れな兄貴を拒み通したのである。げにも皇帝の座とは残酷なものだ。
さて、遼よりもはるかに南まで宋を圧迫し、ほぼ南北朝と言ってもよいほどに肥大化した金であったが、内実は背伸びしきっていたと言ってよい。これ以上宋と戦闘を継続するのは金としても苦しいところだったのである。そこを衝けば、南宋の側ももう少し有利な条件で和約が可能だったかもしれないのだが、何しろ上記の通り南宋には微妙な弱みがあったので、結局遼の時と同様、かなり莫大な歳幣を支払うとか、金を宗主国として認めるとか、あれこれと屈辱的な条件を呑まされて、それでも1141年に至ってようやく両国の間に和議が調った。
金にとっても待ち望んだ和議だったことは、太宗の跡を継いでいた熙宗(きそう)皇帝が、気のゆるみからその後酒浸りとなったことからもわかる。熙宗はすっかりアル中の様相を呈して、やたらと近臣たちなどを斬って人望を落とし、従弟の完顔亮(かんがんりょう)の手の者に討ち取られてしまった。
この完顔亮、もとの名前はテクナイと言ったが、熱烈な中国文明への心酔者で、亮という中国風な名前に改名したほどであった。囚われていた北宋の徽宗上皇のファンで、徽宗の創出した書体である「痩金体」を真似て悦に入っていたと言われる。熙宗を殺して自ら帝位に就いたのはよいが、中国全土を支配するのが自分の使命だと思いこんで、宋との和約を破り南征の軍を発した。どうも、今で言う電波系の人物であったふしがある。
皇族や重臣たちは必死で諫めたが、完顔亮は聞かず、かえって反対者を片端から処刑してしまい、手ずから軍を率いて南下を始めた。しかし、金にはその頃そんな余力はなかったので、戦果ははかばかしくなかったし、辺境では契丹人の叛乱も始まった。周囲の者は口を酸っぱくして都に戻ろうと言ったが、完顔亮は聴く耳を持たなかった。
もはや制御の利かない独裁者になってしまった彼を止めるためには、彼の生命を停止させるしかなかった。配下の将軍である完顔元宜(かんがんげんぎ)が陣中でクーデターを起こし、皇帝完顔亮を討ち果たしたのだった。
これより前、東京(とうけい)留守居役であった従兄の完顔雍(かんがんよう)が、完顔亮反対派に擁立されて帝位に就いていた。小堯舜と渾名された金朝随一の名君、世宗である。世宗は完顔亮を海陵郡王に降格し、さらに庶人にまで落とした。皇帝の資格がなかったということにしたのである。完顔亮は後世、海陵王と呼ばれるが、れっきとした皇帝であったことは間違いない。
世宗は海陵王完顔亮の無謀な南征で悪化した南宋との関係を修復し、1165年に再び和約を取り結んだ。今度は金の側に引け目があり、すでに欽宗は死亡していて切り札にも欠けたため、前の和約よりは若干金にとって不利、南宋にとっては有利なものとなったが、まあ双方にとって妥当な条件だったようで、金と宋との間にはこのあと40年間に及ぶ平和が訪れる。南宋創始者の高宗はこの頃養子の孝宗に帝位を譲っていたがまだ存命で、一応の安定を見ることができたのは何よりであった。
金は宋からの歳幣、すなわち経済援助を受けて国づくりに邁進したが、それはやはり遼の道をそのままたどることにならざるを得なかった。つまり、猛烈な勢いで漢化し、しかも支配層は奢侈に流れ始めたのである。もはや女真族本来の剽悍さは見られない。世宗は意欲的に政治に取り組んだが、女真族の堕落に歯止めをかけることはできなかった。次の章宗の代にもこの傾向は続く。
漢化した異民族はたちまち中華思想のとりことなってしまい、他の民族に対して横柄に構えるようになる。かつて女真族自身が、契丹族王朝である遼に同じ目に遭わされていたというのに、金はそれにほとんど学ぶことがなく、モンゴル高原に散らばる諸民族を圧迫し続けたのであった。
前章でも触れたが、草原の民はひとりの英傑が現れると、ほとんど信じがたいほどの短時間で巨大な勢力を作り上げる。モンゴル高原には、史上最大級の英傑であるテムジンが出現していたのだ。
金はもちろん、そういう者が出現しないようにいろいろと手を打ってはいた。部族同士の対立を煽り、いわゆる分割統治を徹底しておこなっていたのである。
だが、誤算があった。遊牧民の部族同士が衝突した場合、双方の勢力が削がれることにはならない。勝った方が負けた方の残党を吸収し、それまでより大きくなってしまうのだ。テムジンは対立部族と戦いつつめきめきと勢力を伸ばし、章宗末期の1206年、ついにモンゴル高原の全部族の頂点に立ち、チンギス汗を名乗ったのである。汗(ハーン)というのは皇帝に相当する言葉である。
金がその後なんとか30年近く保つことができたのは、チンギス汗の興味がもっぱら西域に向けられていたためだったと言ってよい。チンギス汗は東においては部将に金を脅かし続かせつつ、自らは広大なユーラシア大陸を西へ西へと進んだ。途上にあるあらゆる国を都市を踏みにじりながら。その先鋒隊は中欧にまで出現し、ヨーロッパ全土を震撼させたのである。まさにチンギス汗は、「世界」を一挙に貫通させたのだった。
彼の寿命がもう少し長ければ、ヨーロッパ全部がモンゴル騎兵隊に制圧されたことだろう。1227年にチンギス汗が没し、西ヨーロッパはかろうじて救われた。跡を継いだオゴデイ汗は戦線を縮小し(と言っても中東やロシアなどはそのまま版図に含まれていたが)、東方攻略に専念するようにしたのである。チンギス汗の死と同年、タングート族の西夏を亡ぼし、7年後の1234年、ついに金を消滅させた。
金のラストエンペラーは哀宗である。世宗の曾孫にあたる。彼が即位した1223年、すでに国の北半はモンゴルに奪われていた。本来の首都であった燕京(現在の北京)はとっくにモンゴルの支配下にあり、金の朝廷は、もともと北宋の首都だった開封に逃れて逼塞していたが、ついにそこも2年間の籠城の末陥とされ、哀宗は逃亡中に自殺した。
実際には、この逃亡中、哀宗は完顔承麟(かんがんしょうりん)に譲位しているから、正確にはこの承麟が最終皇帝と言えないこともない。が、落城のどさくさの中でたちまち殺されてしまったので、皇帝としての実質はなかった。
金が滅びの道を歩んでいる間、南宋はどうしていたかというと、モンゴルと結んで幾度も金に戦いを仕掛けていたのだった。
40年間の平和を破ったのはそもそも南宋側であった。その状況は北宋滅亡時に酷似している。あの時は宦官の童貫と宰相の蔡京が悪役だったが、今回は韓侂冑(かんたくちゅう)で、やはり好き勝手に振る舞った揚句評判を落としたので、名誉挽回を図って北伐を始めたのである。
始めたもののちっともらちがあかなかったというのも北宋末と似ていて、韓侂冑は敗れ、斬られた揚句にその首は金をなだめるために引き渡されてしまった。首の引き渡しを発案したのは史弥遠(しびえん)という男だったが、今度はこの史弥遠が権勢を振るうようになった。
金とは一応講和したものの、一旦信義を破ればもはやその修復は困難で、以後連年のように金と宋の間に小競り合いが続くこととなる。ただ、これによって宋からの歳幣が入らなくなったのが、金の滅亡を早めたとも言えるだろう。
時の皇帝は寧宗であったが、史弥遠の専横を抑えられないまま没した。次の理宗も、本来皇位を継げる位置にはいなかったにもかかわらず、史弥遠の工作によって実子のない寧宗の養子に送り込まれたという事情があって史弥遠には頭が上がらなかった。
理宗と追号された皇帝は、この南宋第5代皇帝しかいない。王朝の始祖は高祖もしくは太祖と呼ばれ、2代目は太宗と呼ばれることが多い。その他神宗、世宗などはしょっちゅう使われている。そんな中でこの理宗という追号(宗廟名)は妙に新鮮な感じがする。
彼は、当時流行の朱子学に傾倒し、自らその蘊奥(うんのう)を極めた学者皇帝であった。理宗という名は、朱子学で根元的要素とされる「理・気」の二大元素からとられたのである。
朱子学というのは儒教の最終形態と言ってよい。現在儒教として考えられているものはおおむね朱子学である。これは朱熹(しゅき)という人物が興した、というよりも集大成したもので、儒教の観念的な部分をさらに純粋結晶化させたような学問であった。
およそ学問というものは、「世界がどうなっているのか」ということを考え、追究するべき営みだが、朱子学の場合、それよりもまず「世界はどうあるべきか」ということを優先して規定してしまう。本来全世界を支配すべき中華皇帝が、実際は北を遼や金といった夷狄に占拠されているということへの憤りが朱熹をそうした方向へ導いていったに違いなく、それゆえ朱子学というのは中華思想の明確なイデオロギー化であるとも言える。
今はどうなっているか知らないが、一時期、中国の小学生の使う地図帳には、台湾はもちろんのこと、モンゴル、インドシナ半島、ロシア沿海州あたりまで、すべて中国の領土として色分けされていたという。
彼らがその範囲を「中国の本来あるべき領土」と考えるのは勝手だが、現実に存在する東南アジアの国々などを一切無視して、「あるべき」領土を地図帳に載せるというのは、すなわち朱子学的態度であり、中国という国は共産党政権になって半世紀を経ても、いまだに色濃く「儒教国家」なのであると考えざるを得ない。
朱子学は、韓侘冑によって「偽学」と認定され禁止されたが、その死により、反動的に隆盛を見た。漢民族至上主義をとる朱子学は、もともと漢民族にとっては心地よいものだったのである。そして皇帝までもがそれに心酔するようになった。
頭を押さえつけていた史弥遠の死後、理宗は朱子学の理想に基づいて政治をおこなおうとした。
が、現実の政治の場というのは、理論通りに行くものではない。
理宗の時代に、南宋はモンゴルと結んで金を消滅させるのに成功した。理宗、そして南宋朝廷の意識としては、これは中国古来の「夷をもって夷を制す」戦略であり、決してモンゴルと対等の同盟を結んだとは思っていない。蛮王であるオゴデイ汗に、全世界を支配する中華皇帝が命じて金を討たせたということになる。
オゴデイ汗がそのまま畏れ入って理宗の前にひざまづけば問題はなかったが、あいにくとオゴデイ汗にはそんなことをする理由は何ひとつなかった。
南宋は愚かにも、モンゴル軍に蹂躙された金の領土を、自国領土として回復すべく出兵したのである。火事場泥棒としか言いようのない行動だが、南宋としては、金に奪われていた固有の領土を取り戻すだけだというつもりであった。
当然ながら、モンゴルは激怒し、以後南宋はモンゴルとの長い戦いを強いられることになる。
つまりは、北宋時代に金と結んで遼を討ったものの、金に対して背信を重ねたのと同じことをやってしまったのだ。彼らは歴史に学ぶということができなかったのだろうか。
世界のあるべき姿をまず規定し、現実をそれに向けて合わせてゆくという朱子学的観念が、南宋を愚かな行動に駆り立てたと言えそうだ。むしろ朱子学自体が宋王朝のそういう気分の中で生まれてきた学問であったわけだが、それがひとたび学問として体系づけられ、しかも国のトップがそれに心酔してしまったとなると、現実を見ない無謀な行動を繰り返すことになる。対外関係というのは、相手があってのことだという常識を忘れてしまうのである。
もっとも、現代日本の外交もそれに近いようなところがある。朱子学ではないが、かつての「外国のコメは一粒たりとも入れさせない」という主張とか、憲法第9条論議とかは、どうも現実を見据えているとは言い難い。前章で、宋という王朝(弱兵の経済大国、官僚天国で言いたい放題)は現代日本によく似ていると書いたが、前車の轍を踏まないように為政者にはくれぐれも気をつけていただきたいものだ。
モンゴル軍は強く、衝突した南宋軍はたちまち蹴散らされた。狼狽した理宗は「己を罪する詔」を発して義勇軍を募ったが、北宋の徽宗とほぼ同じことをやったわけだ。
孟珙(もうきょう)という将軍が、理宗の命を受けて北辺の護りに当たった。この将軍は弱い南宋軍の中では出色と言ってよかっただろう。モンゴル軍の鋭鋒をしばしば打ち破り、敵の手に陥ちていた襄陽を奪回したり、数多くの戦績を挙げた。
が、その孟珙も、1246年に没した。ちなみにこの年、モンゴルではグユク汗が即位している。のちに定宗と追号された3代目である。これより先、オゴデイ汗は1241年に没していたが、モンゴルでは後継者を決める手続きが面倒で、有力者の会議であるクリルタイを開かなければならない。クリルタイに出席すべき人間が、ほとんど全世界と言ってよいほどの広域に散らばっていたし、根廻しや工作も多かったので、グユク汗が即位するまでに5年もかかってしまったのである。しかし、宋を討つことはすでに既定の方針となっていたので、南宋にとってモンゴルの鋭鋒が鈍ることはあまりなかったようだ。
孟珙が死んでしまうと、理宗は心の梁を折ったかのような状態になってしまった。政治に飽きたと言い換えてもよい。学問通りにはならない現実に厭気がさしたとも言える。すっかり享楽的となり、戦費の負担にあえいでいた民衆をも顧みず、連夜の宴会や宮殿の増築が相次ぐようになってしまった。
こうした点でも、理宗はまったく徽宗の生き写しのような皇帝であった。
政治に飽きて投げ槍になってしまった皇帝を上に戴きながら、辛くも南宋の崩壊を防いだのが、孟垬の後任となった外戚の賈似道(かじどう)である。
この男は奸臣として評判が悪いが、実のところ非常に有能な、従って現実的な政治家だった。士大夫階級の出身ではなく、朱子学的な大義名分論に毒されていなかったためではないかと思う。
彼は、もはやモンゴルに対して軍事的な勝利をおさめるのは不可能だという、誰が見ても当然だが南宋朝野の誰もが認めなかった現実を、あっさり認めていた。確かに孟垬は何度か敵を破ったが、所詮は戦術的局地的な勝利に過ぎない。最終的にはモンゴルに勝つことはできない。
だとすれば、外交的な手練手管でモンゴルを手なずけ、ともかくも南宋の現在の版図だけでも保全しなければならない。のらりくらりとあしらっていれば、そのうち反撃の機会も来るだろう。
賈似道の相手となったのが誰あろう、モンゴルの南宋討伐軍の総帥であったフビライその人である。フビライはのちに元王朝を創始し、自ら中華皇帝となったわけだが、賈似道との交渉を重ねてゆく上で、漢民族の扱い方のようなものを学んだと言えるかもしれない。
ともあれ、非現実的な主戦論を声高に叫ぶ自国の士大夫たちに対しては、いかにも強硬派的なポーズをとりながら、フビライ相手に妥協と談合を続けていた賈似道の苦労は並大抵のものではなかっただろう。魚心あれば水心というか、フビライの方も、賈似道の立場を察して、八百長の戦闘に協力したりしていたようだ。
1259年に、グユク汗の跡を継いだモング汗(憲宗)も崩じ、弟のフビライとアリクブガが汗位を争った。ふたりはそれぞれにお手盛りのクリルタイを招集して、てんでに汗を名乗ったが、6年ほどにらみ合ったのち、フビライの勝利に終わる。フビライは第5代の汗となり、1271年には国号を元として、いよいよ中華皇帝としての威儀を調え始めたのである。
このモンゴル内部のお家騒動のおかげで、南宋はやや息をつくことができた。賈似道は外交だけではなく内政にもかなりの手腕を発揮し、この間に公田法などを実施して財政の建て直しに奔走している。
これほど有能でまじめな政治家であった賈似道が、後世奸臣などと呼ばれたのはどうしたことだろうか。私腹をこやしたという話もあるが、それは中国の官僚なら誰でもやることで、彼を非難できる資格のある者がそうそういるとは思えない。
ひとつには彼が外戚の出身で、正規の科挙を受けて出世したのではない、いわば裏口就職だったことが、士大夫たちの妬みと軽蔑を買ったのだろう。そしてやはり、モンゴル相手に現実的な妥協をおこなった点が、売国奴と見なされたのだろう。
冷静に見れば、賈似道がいなければ南宋は遙かに早く亡びていたことは間違いない。彼こそは、屋台骨のぼろぼろになった南宋を辛くもひとりで支えていた忠臣であるはずなのだが、歴史は時にそういう皮肉な評価を下す。
南宋が事実上亡びてしまってから、新しい支配者たる元王朝に楯突いて屈しなかった文天祥(ぶんてんしょう)やら陸秀夫(りくしゅうふ)やらばかりが忠臣としてもてはやされているが、彼らの行動などは大勢になんの影響も及ぼさなかったのであって(文天祥の「正気の歌」が幕末の志士たちに愛唱されて彼らを鼓舞したというようなことはあったにせよ)、言ってみればゴマメの歯ぎしりのようなものに過ぎなかった。
むしろ文天祥は南宋にとどめを刺したに等しい。彼が1275年に興した「勤皇の挙兵」と称する軍事行動により、元はついに南宋を消滅させることを決意したのだ。賈似道が迎撃に当たったが、もはや力の差は歴然、賈似道一流の寝技を使ういとまもなく、バヤン将軍率いるモンゴル軍に粉砕されてしまう。
これにより、士大夫たちは賈似道糾弾の大合唱を挙げ、30年間南宋を支え続けた老宰相をいとも簡単に失脚させてしまった。この時点で、南宋の滅亡は決まったと言ってよい。
理宗も、その跡を継いだ度宗(たくそう)もすでに亡く、当時の皇帝はわずか5歳の恭宗だった。こんな大変な時期に幼帝というのはどうしようもない事態で、亡びに向かった国というものは、あらゆる星廻りが最悪になってしまうものらしい。
翌1276年、バヤンは臨安(杭州)を陥落させ、恭宗を捕虜にした。恭宗は元の大都(北京)へ護送され、フビライから瀛(えい)国公に封じられて優遇されたが、その後の消息は明らかでない。全くの俗説だが、元朝最後の皇帝・順帝が、実は恭宗の落胤だったとも言われている。
これで南宋は滅亡したと言うべきだが、遺臣たちはなおもあがくがごとく抵抗する。恭宗の年子の兄を立てて端宗(たんそう)とし、陳宜中(ちんぎちゅう)らと福州へ逃れたが、元軍の追撃により泉州、恵州と落ち延び、ついには荒れ果てた無人島に追いつめられてそこで9年の生涯を閉じた。
陸秀夫はさらに、恭宗の弟を皇帝に立てて、広東の外れの崖山でひっそりと養育したが、ここも元軍の攻めるところとなった。もはやこれまでと覚悟した陸秀夫は、自ら幼帝を背負い、幼帝を怖がらせないように後ろ向きに入水して死んだ。かくて宋王朝は完全に息の根を止められたのである。
端宗とこの幼帝は「宋史」では帝号を与えられていない。一般に帝昺と呼ばれるが、事実上恭宗で終わっていると見るべきだろう。いやむしろ、その父である度宗の時に勝負はついていたと言える。いろいろ考えた結果、章題には恭宗の名を挙げておくことにした。
南宋が意外としぶとく粘ったのは、やはり経済力の強大さによるものだったように思う。
唐の時代、すでに江南地方の生産力は華北を遙かに上廻っていた。あの安禄山が天下をとれなかったのは、江南を押さえられなかったからだとも言われる。そしてその後五代十国時代に、その差はさらに拡がっていた。宋王朝はその果実を存分に受け取ったわけだが、金に北半分を占拠されたことで、言ってみれば赤字の土地を全部処分できたような状態になったのである。これでは繁栄しないわけがない。
わが平清盛も、南宋との貿易で巨万の富を手に入れたわけだが、平氏の擁した幼帝安徳天皇の最期が、帝昺のそれとよく似ていたというのは歴史の悪戯と言うべきか。
栄西や道元が禅宗を招来したのも南宋に留学したおかげだし、のちに後醍醐天皇が挙兵したのは明らかに朱子学(宋学とも呼ばれた)の影響である。わが国はずいぶんと南宋とのつながりを持っていたのだ。
フビライが日本侵攻を企てたのは、第一回目(文永の役・南宋滅亡前)は南宋との貿易を遮断するため、第二回目(弘安の役・南宋滅亡後)は南宋の残留兵力を処分するためだったという説もある。元寇については次章でも触れることになるが、ともあれ中国史上もっとも豊かだった国・宋は、北宋167年、南宋154年で消滅した。合わせて321年という長さは、漢に次ぐもので、まあまあ頑張ったと言えるのではあるまいか。
(2000.5.12.)
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