苦悩の「凡将」――毛利輝元

 NHK大河ドラマ「毛利元就」も、厳島合戦を終えて、いよいよ終盤にかかったようである。
 毛利元就という人物は確かに途方もない傑物である。一代で零細な国人領主から中国地方の覇者へと成り上がった、その落差の大きさは、あるいは織田信長を凌駕するかもしれない。1年間のドラマ程度では到底つかみきれない、巨大な人物だったろうと思う。
 が、私が以前から興味を持っていたのは、元就自身より、そのあとを継いだ輝元である。
 元就の長男・隆元は、親父が元気で長生きしているうちに、先に死んでしまった。輝元はその隆元の息子であり、元就からすると嫡長孫ということになる。
 祖父さんが汗水垂らして獲得した中国10ヶ国を、関ヶ原の役での進退を誤って、周防・長門2ヶ国にまで減らしてしまった凡庸な2代目、というのが、一般的な輝元の評価であろう。好意的に評価する人でも、
 ――戦国時代に名を為した武将で、2代をまっとうした者は非常に少ない。あの混迷の中で2ヶ国なりとも保てたのは、立派である。
 という褒め方である場合が多い。決して武将としての評価ではないのである。
  
 はたして、毛利輝元は凡将であったのか……?
 彼の風貌は、いろんな本を読んでも、あまりはっきりと浮かんでこない。
 秀吉政権末期の「五大老」の次席であり、徳川家康に匹敵する経済力と武力を持ちながら、この印象の薄さはどうであろう。
 関ヶ原では、西軍の総大将を務めた。
 「西軍総帥の石田三成」などと書いている本をまだ時々見かけるが、三成は決して総帥などという立場ではなかった。総参謀長ですらなかった。彼はいわば仕掛け人に過ぎず、本当は自分の居城である佐和山城から動くつもりもなかった。三成の人物像を実際よりはるかに拡大してしまったのは、当の敵である徳川家康自身だ。家康は関ヶ原を、「豊臣対徳川」という構図にしたくはなかった。奉行のひとりである石田三成が、徒党を組んで暴走しただけの騒ぎだということにして、事件全体の矮小化を図ったのである。そのため、西軍の中心は石田三成だったということになり、さらには
 ――東照公に堂々挑んだ、不埒ながらあっぱれな男。
 ということで、三成自身の人物像がおそろしく大きなものになった。
 だが、西軍の総帥は、決して三成ではない。大坂城に4万の大軍を擁して静まっていた、毛利中納言輝元なのである。
 よく、毛利が戦わなかったからこそ東軍が勝ったのに、関ヶ原のあとで毛利の領地を8割も削るとは、家康も酷なことをするものだと批判される。しかし、戦おうが戦うまいが、毛利輝元は敗軍の総大将なのだ。本来なら領地どころか、首を取られてもおかしくはない。それが2ヶ国の領有を許されたのは、上述の通り、家康としては事件を矮小化したかったからであるに違いない。
 もし関ヶ原に、輝元が4万の軍勢を率いて駆けつけていたらどうなっただろう。
 関ヶ原の役は、午後になって小早川秀秋が東軍に寝返るまでは、ほぼ互角の戦闘が続いていた。ここで無傷の4万の兵が西軍に加わったなら、確実に家康は負けていただろう。いや、輝元自身が関ヶ原に来なくてもよい。彼が大坂を出発したという報せがあっただけでも、小早川秀秋は東軍に寝返ることを断念しただろう。そして、輝元が直々出馬となれば、戦闘回避に躍起になっていた吉川広家も、出てゆかざるを得なかっただろう。広家が出れば、吉川勢に出口をふさがれて戦闘に参加できなかった長曽我部盛親も精強を誇る土佐兵を率いて、一挙に戦場に躍り出たことだろう。
 そう考えてみると、やはり輝元は、動くべき時を見誤った凡将と言うしかないかもしれない。
 しかし、それでも、毛利輝元という武将には、なんとなく惹かれるものを感じる。

 彼が10歳で家督を継いだ時、すでに66歳で、自分の老いと孫の幼さをおもんぱかった元就は、優秀なふたりの息子を輝元の後見につけた。次男の吉川元春と、三男の小早川隆景である。そして輝元には、何事もこのふたりの叔父の意見を聞くように、大事なことは必ず重臣会議で決定するようにと厳命した。
 「毛利の両川」と言われた元春と隆景は、実によく輝元を補佐した。重要な戦争は知勇兼備の猛将であった元春が采配を振り、外交や政治上の駆け引きは、戦国随一の智将であった隆景が行った。少年当主輝元は、すべてをこの優れた叔父たちに任せておけばよかった。
 だが、少年は、やがて大人になる。
 成長した輝元は、叔父たちを頼もしく思いながら、なんとなく煙たく感じることもあったのではないだろうか。自分の力で何かをしてみたい、自分で采配を振るって軍を指揮してみたい、戦国武将に生まれてそれを望まないものは居なかったろう。だが、あの偉大な祖父の遺命を破って、叔父たちを排斥するだけの勇気は、彼にはなかった。
 吉川元春は1586年に、小早川隆景は1595年に世を去る。輝元、42歳。すでに秀吉体制は完成していた。朝鮮の役は収拾がついていないが、国内の戦争はもうないだろうと思われていた時期である。
 輝元は、一度も自らの采配で戦ったことがない。飾り物としての総大将になったことは何度もあるが、実際の戦闘指揮は元春や隆景がとっていた。隆景の死後、五大老に加えられた上杉景勝は輝元とほぼ同世代だが、軍神・上杉謙信の後継をめぐって、御館の乱という熾烈な同族争いを戦い抜いた「いくさ人」である。そういう男と席を並べながら、輝元は忸怩たるものがあったのではないかと思う。
 戦闘指揮では、とても叔父たちにかなわないとは思っていただろう。
 だが、叔父たちが世を去った今、自分の将器がどれほどのものなのか、試してみたいという想いが、彼の胸に沸々とたぎっていたに違いない。いや、そうでなければ戦国武将とは言えないはずである。
 その機会が来た。隆景死後5年、秀吉が死んで2年。石田三成が、家康討伐の総大将を引き受けて貰えまいかと打診してきたのである。

 毛利家中は、賛否両論が渦を巻いた。
 家康と雌雄を決するとなると、天下争奪戦になる。毛利家には、
 ――決して天下など望んではならぬ。
 という、元就の遺訓があった。家中の者にとって元就の遺訓は絶対だった。天下争奪戦になど巻き込まれない方がいい、という意見が多かった。
 しかし一方、安国寺恵瓊などを中心とした積極派は、
 ――自ら求めたことではない。天下の方から転がってきたのだ。それを掴んではいけないとは、元就公もおっしゃっていない。
 とばかりに主戦論を唱えた。
 ――家康のような戦上手を相手にして、勝てるのか。負ければすべては終わってしまう。石田三成ごときの口車に乗って、馬鹿を見ることになるのではないか。
 ――日本の半分以上の大名が与している。これに毛利が加われば、必ず勝てる。
 重臣会議は混迷した。非戦派の代表が、吉川元春の息子の吉川広家である。彼の意見は、本家筋であるだけに、外様の安国寺よりも重みがあった。
 こういう時に、自ら強力なリーダーシップを持って決断するということが、輝元にはできなかった。そういう習慣がなかったのだ。これまで、大きな決断はすべて、元春や隆景が相談して決めていたのである。
 結局、主戦派と非戦派の意見の収拾はつかず、とりあえず上洛するだけはして、様子を見ようという、中途半端な結論になった。
 とはいえ、輝元自身が及び腰ではなかったらしいことは、広島を発った毛利の大船団が、わずか40時間で瀬戸内海を漕ぎきって、大坂に到着していることで窺える。輝元も兵たちも、充分に心がはやっていたのである。
 輝元にとっては、天下を取れるかなどということは二の次だったのではないだろうか。自分が総大将として、自分の采配で軍を進退させることができるということが、嬉しくてならなかったように思われる。

 だが、一足先に上洛していた広家たちは、口々に西軍の基盤の脆弱さを訴え、自重を叫んだ。
 肝心の豊臣家が、この戦には中立の立場をとり、軍資金を出そうとしないのである。
 大名たちの戦意も、さほどのものではない。実は、毛利が懐疑的であればこそ、他の大名も不安を覚えていたのだったが。
 広家は熱弁を振るった。親父の元春に似ず、口数の多い男であった。
 ――この有様では、とても内府(家康)には勝てますまい。毛利は動くべきではありません。動いてしまえば、内府が勝った時に、毛利家は必ず潰されましょう。
 ――私はすでに、内府の約束を取り付けてあります。お館様が動かない限りは、戦の勝敗がどうなろうとも、毛利の領地には手をつけないと、確約していただきましたぞ。
 ――万一、西軍が勝ったとしても、お館様はこの大坂におられたということだけで、充分に責を果たしておられます。戦に出なかったからと言って、責められることはありますまい。
 浮き立つ気分に水を差された輝元は、不快に思っただろうが、広家が毛利の存続を第一に考えてくれている誠意は認めざるを得なかった。もちろん、広家としても全くの無私だったとは思われない。家康との交渉窓口になることによって、戦後、毛利家中での発言力を大きくしたいという野心があったことだろう。

 そして、結局、4万の毛利本隊が動かないままに、関ヶ原は終わった。
 広家の取り付けた約束は反故にされた。家康は情け容赦なく、毛利の領地を削った。
 広家自身の領地は安堵されたが、責任を感じた広家は、自分の領地を返上して、毛利の存続を家康に懇願したため、2ヶ国だけが残された……という美談は俗説で、家康はおそらく元から、毛利を完全に潰すつもりはなかっただろう。2ヶ国くらいに押し込めるのが妥当だと、最初から考えていたと思う。
 その後、毛利本家は、支流である吉川家にことごとにつらく当たったらしい。
 戦の経緯は、直後にわかっていただろう。自分が動けば、戦場に行かずとも動きさえすれば、天下を取れたはずだということも、輝元にはわかりすぎるほどわかっていただろう。
 それを、忠義面をして押しとどめた広家。
 天下のことより、自分の将器を試すことができるたった一度の機会をも奪ってしまった広家。
 その広家が、武将として、男として、輝元にはどうしても許せなかったに違いない。
 もとより、広家の説得に屈してしまい、自分の意志を通すことができなかった輝元自身がだらしなかった、ということは言える。そしてそのことは、輝元自身がいちばんよくわかっていただろう。
 肝心な時に動けなかった自分への悔恨。輝元に自分の意志を通すことを封じてしまった祖父元就への怨み。今となっては決断を任せてくれなかった叔父たちも厭わしい。
 そういったさまざまな煩悶は、広家を憎むことでしか癒されなかったのではないだろうか。
 吉川家への長い冷遇は、結局自己表現の場を与えられなかった男・毛利輝元の苦悩を、如実に顕わしているという気がしてならない。
 私が輝元に惹かれるのは、その苦悩がすぐれて現代的であると思うかららしい。 
    

(1997.10.26.)

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