武田信玄(1521〜1573)。
戦国最強を謳われた甲斐の騎馬軍団を擁し、一時は天下にもっとも近いところにいたと言われる武将である。
戦争に強いだけなら、どうということはない。彼の父親の信虎の方がもっと強かったかもしれない。
信玄は、超一流の民政家でもあった。
あれだけの他国との戦争を繰り返しながら、自分の領地内での叛乱のようなものは一度も起こされていない。今に至るまで、甲斐・信濃(山梨・長野)では信玄の評判はよく、人々に慕われている。外に向かって果敢に戦い続けると同時に、内に対しては実にきめ細やかな行政をおこなっていたのである。暴れ川であった釜無川に築いた信玄堤は、特に彼の独創ではないとはいえ、信玄の民政家ぶりを象徴するものではある。
脂ぎった感じの入道姿の、お馴染みの肖像画のため、煮ても焼いても食えない、あくどい印象があるのだが、実際はどんな男だったのだろうかと思う。あの肖像画を見るたびに私はなんとなく違和感を覚えていた。というのは、信玄は生涯、肺病に悩まされていたという話も聞いていたからで、肖像画はどう見ても肺病質の人間には見えないからである。最近では、死因は肺病ではなく胃ガンだったというのがほぼ定説になりつつあるらしいが、一方で肖像画別人説もかなり信憑性を持って語られている。武田信玄の正体は、いまだによくわかっていないところがあるのだ。
彼を語りはじめると、「父親追放」と「長男殺し」の悪名がついて廻る。それほどのことをする男だから、さぞ脂ぎった悪漢面をしていただろうという先入観もあるに違いない。
確かに父親追放も長男殺しもゆゆしきことではある。武田氏が、源義光(みなもとのよしみつ)を祖とするいわゆる甲斐源氏で、源氏の宿命というべき骨肉の憎悪がここでも顕れたかとさえ思える。
だが、考えてみると、戦国大名の中で、父親と反目したのは何も信玄だけではない。伊達政宗などはもっとすさまじい。人質に取られた父親を見殺しにし、自分を廃そうとした母親を実家の最上家に追放し、実の弟を手ずから斬っている。長男殺しにしても、徳川家康だってやっている。信玄だけが非難される筋合いのものではないのである。
――信玄の父信虎は、嫡子である信玄に不満を持ち、何かにつけて冷遇し、はては次男の信繁に家督を譲ろうとした。そこで信玄は隣国駿河の今川義元と示し合わせ、信虎を駿河に追放して強引に家督をもぎとった。
というのが通説であるが、この筋道にはいくつもの疑念がある。
信虎が信玄を疎んじていた証拠は特に見当たらないのである。信玄の初陣であった平賀源心攻めの戦で、信玄の手柄を認めようとしなかったという話があるが、
――わしの後継者たる者が、そのような区々たる手柄を上げて喜んでいるとは何事だ。もっと志を高く持て。
くらいのニュアンスだったのではないだろうか。また逆に、信玄の資質が並外れているので、それを怖れて疎んじたという説もあるが、有力家臣ならともかく、後継者の資質が並外れているからと言って疎んじる武将がいるだろうか。他にも「息子の才を怖れて云々」という例はあちこちにあるが、私はあまり信用していない。疎んじられた息子がたまたま才があっただけのことであると思う。
信虎がむしろ、信玄に期待をかけていたことを示す証拠の方が多い。まず、信玄の本名である晴信だが、これは足利12代将軍義晴の一字を拝領したものだ。当時、将軍の名の一字を拝領するというのは容易なことではなく、莫大な献金をしてようやく許されることだった。もっとも13代の義輝になると、幕府の財政が逼迫して、やたらと名前の1字「輝」をあちこちの大名家に与えては金をせびっていたらしいが。そのため、「輝」の文字を持つ武将は、上杉輝虎(謙信の本名)、伊達輝宗(政宗の父)、毛利輝元などたくさん居る。しかし義晴の頃は、まだそれほどインフレ状態にはなっていなかったはずである。信虎は、長男のためにそれだけのことをしたのである。
信玄の正室に、都の名門公家三条家の姫君を迎えたのも破格のことである。こちらも、目の玉が飛び出るような結納金を渡したに違いない。そうでなければ、名門公家の娘が甲斐の山奥などに嫁いでくるわけはない。残念ながらこの姫君には甲斐が合わなかったようで、信玄との仲はあまり芳しくなかったらしいが。
ともあれ、信虎が長男にかけていた期待がいかに大きかったかわかろうというもので、疎んじていたとはどうも思えないのである。
それから、廃嫡の危険を感じた信玄が、先手を打って父を追放したというのも疑わしい。ことは国主の追放である。信玄ひとりでできることではなく、相当数の家臣が味方につく必要がある。それどころか、追放後の家臣の謀反が1件もなかったということは、全家臣がこの追放劇に賛成もしくは黙認していたことになる。いくら信虎が暴君だったとしても、ここまで孤立するということがあり得るだろうか。しかもクーデターの中心である信玄は、いかにすぐれた資質を持っていそうだとは言っても、当時、弱冠21歳の若者である。40代で働き盛りの信虎を見限って、21歳の息子にすべてを賭けるという家臣が居てもいいが、なんぼなんでも全員がそうだったというのは無理があるのではないか。
信虎とてひとかどの武将であり、家臣全員が自分を見限ろうとしていることに気づかないほど愚かではないはずだ。
さらに、追放後の信虎の行動がなんとも理解に苦しむ。今川義元の庇護下でかなり安楽な生活を送っていたようだが、義元が桶狭間で織田信長に討たれるや否や、信玄に使者を送り、義元の後継者の氏真(うじざね)は暗愚だから、すぐに駿河を攻めるべしと進言しているのだ。のみならず自ら、息子の侵攻を迎え入れる下工作さえ始める。
さすがにこの動きは今川家の者に察知され、信虎は駿河からも追放されてしまう。するとこの老人は一向に気落ちした様子もなく、京都へ行ってはまたまた奇怪な策動を始めるのである。そしてしきりと信玄に、早く西上の途につけと書き送るのだ。
このあたりを見ていると、どうも信虎追放劇は、八百長くさいように思われるのである。信虎は一切を承知の上、あるいは一切を信玄と共謀の上、あえて追放された形をとって駿河入りをしたのではなかったか。
古来、大物の間諜を、追放した形にして敵国に送り込むという諜報工作は珍しくない。相手方は、敵に追放された人間であれば大事にするだろう。内情をよく知っているし、追放されたのだから敵を恨んでいるに違いない。それが大物であればあるほど、価値は大きい。だから優遇して情報をとろうとする。
そこを逆手にとって、ダブルスパイとして送り込むのである。「三国志」などにも頻繁に登場する、古い手だ。先日北朝鮮の高官が亡命してきたおり、この策を用いたのではないかと疑った国は多いはずで、そのせいかこの高官はどこの国でもさほど優遇されなかったようである。
追放されるのは大物であればあるほどこの作戦はうまく行くのだから、いっそのこと国主自身が追放されれば、これほど強力な間諜はないだろう。信虎は息子の資質に大いに期待していた。甲斐国内をまとめることはむしろ、信玄の方がうまくやるかもしれない。ならば、甲斐のことは息子に任せ、自ら間諜となって、その時点では最大の敵と考えられた駿河に潜入し、さまざまな外交工作を行うことにしたとしても、それほど不思議ではない。
よく、信虎が駿河にいたために、信玄はなかなか駿河を攻められなかったという人がいるが、これは話が逆で、信虎がいたからこそ、今川義元は甲斐を攻めることができなかったと見るべきではないだろうか。信玄が駿河を攻めるためには、甲斐一国では到底国力が追いつかない。当時の今川氏は日本一の富強を誇る大大名で、これを攻略するには、信濃を制覇して領国の底力をアップするしかない。ところが信濃を攻略しようとすれば、おそらく義元は背後を衝いて甲斐を攻めるだろう。
信虎は、信玄が信濃攻略に専念できるよう、義元を押さえ続けていたのではないか。追放されたとはいえ、信虎は義元の正室の父親でもある。義元もその言葉には耳を傾けざるを得なかったに違いない。
信玄、そして信虎の読みでは、15年くらいで信濃の群小領主たちを制圧して全域を勢力下に置くことができると考えていただろう。事実、ほぼ読み通りに信濃の制覇は進んだ。
ところが、ここに立ち塞がったのが上杉謙信である。信玄に追われた北信濃の豪族村上義清が泣きつくと、謙信は義によって兵を挙げ、川中島で武田軍と衝突を繰り返した。困ったことに謙信は、自分にとってなんの得にもならない戦を平気で行うという性癖があった。現代の熱血少年マンガの主人公によくあるタイプだが、こういう男を敵にするとまったく始末に負えない。理や利が通じないのだ。
川中島の戦は12年間に5回行われたが、武田と上杉の勢力圏の境界線はほとんど動くことがなかった。いわばまったく不毛な戦いであったとしか言いようがない。しかもこの間に、信玄は片腕と頼んだ実弟典厩信繁や、謀臣山本勘助他多くの部将を失っている。
この12年間の空転のうちに、西方の尾張では織田信長がめきめきと台頭していた。義元が死に、川中島の情勢が一応落ち着き、ようやく駿河侵攻の条件が揃った頃には、信長は早々と足利義昭を担いで京都へ到達していたのである。信玄は切歯扼腕したに違いない。
信玄のもうひとつの罪業「長男殺し」はこの時期に起こった。今川義元の娘を正室に迎えていた長男義信が、駿河攻めに強硬に反対したのだった。義元が討たれたからと言って、長年同盟を保ってきた駿河にいきなり攻め込むなど、義に反するというのである。「義将」上杉謙信との不毛な戦いに苦労してきた信玄は、さぞかしうんざりしたことだろう。それと同時に、信虎と信玄2代の遠大な謀略工作を理解しようとしない息子が、情けなかったろう。
義信の反対は、やがて公然たる反抗になりつつあったので、信玄はやむなく義信を幽閉した。義信は幽閉先で死んだわけだが、病死説と自害説がある。信玄としては、しばらく頭を冷やせというつもりだったのかもしれない。「自害を命じた」というのはどうもありそうもない。結果的に長男殺しになってしまったものの、直接殺したとは言えないのではないか。
ようやく駿河を制圧した時、信玄に残されていた時間は、あと5年ほどに過ぎなかった。
彼が天下を取るためには、この先遠江、三河、尾張、美濃、近江を次々と押さえて行かねばならない。思うだに気の遠くなるような道のりである。しかしひとつの救いがあるとすれば、これらの地域は織田信長というただひとりの男の勢力下にあり、信長さえ斃せばことは足りるという点だろう。
ただ、根っからの民政家であった信玄は、駿河の宣撫工作も念入りにやっている。それが済むまでは、さらなる西上は無理であった。また、相模の北条氏政と同盟を結んだり、越中や北関東の豪族を取り込んで謙信を牽制したり、さまざまな外交工作を綿密に張り巡らせて、1571年、ようやく彼は西上の途についた。
だが、信玄の肉体はすでに病魔に蝕まれていた。そしておそらく、そのことを自分でも知っていただろう。三方ヶ原で徳川家康を一撃の下に撃破したのが、彼の最後の戦闘となった。伊那の駒場(こまんば)に至った時、彼は世を去った。
信玄がここで死なず、信長と正面衝突していたらどうなっていたかというシミュレーションはよく考えられる。軍事的な才能においては、信長は信玄の敵ではなかったし、尾張の兵たちは日本最弱とまで言われた連中で、戦闘となれば信玄が勝ったのではないかとも思われる。
ただし、信長その人を討ち取ることができたかどうかはわからない。信長の傑出している点のひとつに、逃げ足の速さがある。ピンチとなれば部下の将兵をそっくり置き去りにして、身ひとつで遁走したことも一度や二度ではない。信長は、自分さえ生きていれば、将兵などまたすぐに集められると信じていたのである。普通の武将ならみっともなくてできそうにないことを平気でやるところが、信長の真骨頂だった。信玄と戦ったとしても、信長は生き延びたのではないかと思う。そして、この時点での信長の勢力圏はすでに非常に広い。2万か3万ばかりの甲斐兵で、信長の領国をすべて押さえるのは無理だ。当然、信長についていた部将を味方に引き入れなければならないが、うろうろとそんなことをやっている間に、信長はまた盛り返してくるだろう。部将の方も、信長がそういう男だと知っているから、容易には寝返らない。
というわけで、信玄は個々の戦闘では信長を撃破するかもしれないが、最終的にはやはり勝てないように私には思える。それに甲斐の兵は兵農分離が充分に進んでおらず、本職は農民であることが多かったから、農繁期になれば家へ帰りたがる。長期戦になった場合は不利である。
また、たとえ信長を葬り去ったとしても、天下を取れたかどうかはまた別問題で、例えば石山本願寺に対し、信玄は信長ほど断乎たる立場はとれなかっただろう。この時代に天下を取るためには、本願寺や一向一揆を押さえ込むことが絶対必要条件だったと考えられる。
歴史上に「武田政権」が誕生した可能性は、残念ながらかなり薄いと言わざるを得ない。
それでは、彼の西上は一体なんだったのか。
死を目前にした戦国武将の物狂いだったのだろうか。上に述べてきた私の想像では、信虎の代からの遠大な天下取り構想の終焉……身を捨てて自ら間諜となった父の想いに応えなくてはというプレッシャーが、最後に至って信玄に死に狂いの行動を起こさせたと言えないか。
さらに言えば、このプレッシャーは信玄のあとを継いだ勝頼にまで受け継がれていたかもしれない。
勝頼はいささか性急に、父の遺志を継ごうと動いた。彼は馬鹿でも凡庸でもなく、かなりの器量と抜群の知性をもった武将であった。農民兵では信長に勝てないということもよく知っていたし、むしろこれからの世の中では信長型の統治が絶対に必要であることも見抜いていた。信長のやった兵農分離や楽市楽座、それに家臣の城下集中などの政策を、遅ればせながら大いに推し進めた。信玄が作らなかった大きな居城(新府城)を築いたのは、「人は城、人は石垣、人は堀」が信じられなくなったためではなく、家臣たちをそれぞれの所領から引き離して城下に住まわせたり、城下町を整備して商工業を振興しようという意図によるものである。
だが、家臣らへの充分な説得を怠った。商業地域である尾張などに較べるとはるかに閉鎖的で意識の古い甲斐人に対しては、懇切な説得が不可欠だったし、信玄も何かやるに際してそれを決して欠かさなかったのだが、勝頼はあまりそれをやらなかった。彼の頭の中では、こうしないと信長には勝てないということが、自明の理として考えられていたに違いなく、おそらく他の人間にとっても自明の理だと信じていたのだろう。
だが、たいていの人間はそれほど賢明でない。
所領から離れて新府城下に住むことは、ほとんどの家臣がいやがった。頭ではその必要がわかっても、心情がついてゆかないのである。
そこを懇切に諭して、心服させなければならないのだが、秀才は往々にしてその手順を省略したがる。ついつい、自分に従えば間違いはないのだと強圧的に出てしまう。強圧的に出られると、人間は反撥したくなるものだ。勝頼が、武田氏の歴史上最大の版図を実現しながら、やがて多くの臣下に見放されてゆくのは、そういうことだったのではないだろうか。
1582年、武田氏を支える大黒柱と言ってよい存在、穴山信君(梅雪・信玄の甥)が信長に降る。
かつての信虎とは違い、信君は従弟の勝頼のために策動したりはしなかった。そして、勝頼は嫡子信勝ともども、城を追われ落ち延びる途中で討たれてしまう。
信君は自分が武田家を継げると思っていたらしい。しかし、本能寺の変で信長が討たれた時、彼は徳川家康と同行して堺にいた。信長の同盟者であった家康と一緒に行動することの危険を感じたのか、彼は別行動で東国へ逃げようとし、その途上、何者かによって殺されてしまった。
戦国末期に風林火山の旗をたなびかせて疾駆した武田3代は、かくして完全に消滅したのであった。
(1998.5.18.)
|