日本における時代区分名称というのは、中国史から借用したものが少なからずある。
戦国時代というのは、もちろん中国から借りた言葉である。中国の戦国時代は、紀元前403年、華北にあった大国晋(しん)が家老たちに分け取りされ、韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう)の3国に分裂した時から始まるとされることが多い。そして紀元前221年、秦の始皇帝が中国全土を統一した時をもって終わりを告げる。
一方の日本の戦国時代と言えば、始まりは諸説あるが、普通応仁の乱(1468〜1478)によって既成の体制が崩壊した頃と考える人が多い。もう少しはっきりしたところでは、一介の浪人に過ぎなかった北条早雲(ほうじょうそううん)が、伊豆にあった幕府の出先機関である堀越(ほりごえ)公方を覆し、伊豆一国の主となった(1491)時と考えてもよい。その終焉は大坂にあって織田信長に抵抗し続けた石山本願寺がついに信長に屈して和睦し、大坂を明け渡した1580年と考えてよいだろう。
このふたつの戦国時代は、時期こそ1700年の開きがあるが、それなりに類似点も多い。まずその前の時代に較べて生産力が飛躍的に伸びた。その結果として、それまで力を持たなかった下層の者たちが力を得て、既成の権威(周王朝とか、室町幕府とか)が力を失った。各地に独立自営の領主が割拠し、それぞれの領内の拡充に腐心するようになった。ある意味で枠に縛られない個人が確立し、その武芸や知略を一種の商品として領主たちに売って歩く人々が現れた。拡大した生産力は人々の心の余裕を生み出し、学問芸術が大いに発展した……
ちなみにヨーロッパでもこれと同じような時代があって、中国の戦国時代とほぼ同じ頃にローマで、日本の戦国時代とほぼ同じ頃にやはりイタリアを中心として、相似た社会状況が訪れていた。日本で戦国と呼ぶのと似た時代を、ヨーロッパではルネサンスとプラスイメージの言葉で呼んでいるが、これは民族性の差なのかどうか。
南北朝、というのも、中国から借用した時代区分である。中国の南北朝時代は、晋(上記の3国に分裂した晋とは別で、三国志で有名な司馬仲達の孫の司馬炎が開いた王朝)が北方民族の劉漢に亡ぼされ、その皇族のひとりが南へ移って東晋を開いたのちに、華北では五胡十六国の盛衰が繰り広げられ、最終的に439年、北魏によってそれらが統一された頃からを言う。その終焉は隋の文帝による天下統一(589)である。
この時期もまた、中国史にとっては蓄積と発展の時代だったと言える。長江流域の華南の生産力はこの時期大いに伸び、東晋のあとを継いだ宋・斉・梁・陳といった国々には六朝文化と言われる優雅な芸術文化が花開いた。一方多くの民族が流入して押し合いへし合いしていた華北地方では、さまざまな体制や社会のあり方がテストされ、そのすぐれたものが生き残って行き、のちの隋唐の黄金時代を準備していた。一体に中国は、分裂していた時代の方が人々に活力があるようである。
これに対し、日本の南北朝時代は、残念ながら戦国時代のような中国の同名の時代との共通点はあまり見られない。ずっとスケールの小さい、一種のお家騒動でしかなく、歴史に寄与するほどのものはほとんど生み出さなかった。むしろ後世が、この天皇家のお家騒動に必要以上の意味内容を付加し、実像を遙かに超えた大変革期であるかのように錯覚していたと言うべきかもしれない。ちなみにこの錯覚の主犯は、あとでも触れるが水戸黄門こと徳川光圀だと私は思っている。
年代記的には、後醍醐天皇に離反して兵を挙げた足利尊氏が、京都において新田義貞や楠木正成の作戦によって打ち破られ、九州へ落ち延びた時、兵力においてまさっていた自分が負けたのは錦の御旗──大義名分──がなかったからだと反省し、後醍醐天皇に対抗すべく光明天皇を擁立して東上の途についた1336年が南北朝時代の開始とされている。
当時天皇家は大覚寺統と持明院統に分裂しており、鎌倉幕府の朝廷により、両統から交互に10年ずつ天皇を出す取り決めになっていた。後醍醐天皇は大覚寺統から出たが、この取り決めを無視して、持明院統の光厳天皇を押しのけて再度自分が皇位に就いていた。別の天皇擁立という、大逆と呼ばれても仕方のない行動は、後醍醐天皇がすでに取り決めを破っているのだから、という点で正当化されるのだと尊氏は考えていたことだろう。
光明天皇を担いで反攻してきた足利の軍勢は強かった。というよりも、後醍醐天皇の建武の御新政にうんざりしていた人々がこぞって付き従い、雪だるま式にふくれ上がったのである。当初は後醍醐方であった赤松円心などの有力な武将も尊氏に寝返り、湊川で楠木正成を撃破し、さらに京都へ押し寄せた。
後醍醐天皇は一旦は光明天皇に譲位する意思を見せ、三種の神器を渡すが、やがて吉野へ落ち延び、そこで渡した神器は偽物だったという声明を発表する。従って光明天皇は偽帝に他ならず、正当な天皇はいまだに自分であると言い張るのである。
かくて、京都と吉野にふたりの天皇がいることになり、双方の位置関係から、南北朝という言われ方がされ始めたわけだ。
中国の南北朝は、あの広大な中国大陸をまっぷたつに割って、北半分の北朝、南半分の南朝という具合に分かれていたのだが、日本の南北朝はそうではない。南朝が日本の南半分を領有していたわけではなく、ただ朝廷が分裂していただけのことである。
京都と吉野は、直線距離にすれば60キロほどしか離れていない。近鉄の特急電車に乗れば、1時間40分ほどで着いてしまう。当時の軍勢でも、3日もあれば攻めてゆくことができたはずだ。
吉野に行ってみたことがあるが、山岳地帯であって、農業生産などはほとんど見込めないし、軍事的にも多数の兵を蓄えておけるような場所とは思われなかった。足利幕府がその気になれば、攻め潰すことは簡単だったろう。
それなのに、吉野の南朝は攻め潰されもせずにしぶとく生き延び、なんと半世紀以上も存続して、1392年になってようやく後小松天皇のもとに合併することとなったのであった。
いったい、何が彼らを生き延びさせたのか。幕府が南朝をなかなか潰そうとしなかったのはなぜなのか。潰せない理由が何かあったのか。
この時代には、謎が多いのである。
この時代を、妙にイデオロギッシュに捉えることには、私は疑問を感じている。
日本人がイデオロギーによって動くようになるのは、遙かに新しく、幕末を待たなければならないと私は思う。それまでの日本人の行動原理は、もっと単純であった。損得、美醜、意気に感じる、そういったことのために戦うことはあっても、主義や理念のために戦うなどということがあったとはどうも思われない。
明治維新は確かにイデオロギッシュな事件だった。上は将軍家から下は庶民に至るまで、階層として得をしたものは全くなかったと言われるほど奇妙な革命であり、人々はみな、日本を列強の支配から護るためにはこうするしかないという理念のために、わが身を抛って働いたのである。
そのイデオロギー上の基盤となったのは、朱子学の正閏(せいじゅん)論と、それを尖鋭化した陽明学であった。そして、その気分を醸成したのがいわゆる水戸学派であった。
水戸藩の侍たちは、光圀の始めた「大日本史」編纂を通して、次第に尊皇攘夷的な気分を高めて行ったのである。この浩瀚な史書は、朱子学的立場から日本史を編制したもので、実はこの書物の南北朝観が、その後の日本人の史観に実に大きく作用している。
光圀は、楠木正成を忠君の鑑として褒め称えた。光圀自身が、南朝が正統の皇統であると考えていたかどうかはわからないが、南朝方であった正成を褒め称えたことで、なんとなく南朝こそ正義であり、北朝は簒奪者であるという気分が浸透したことは否定できない。
明治維新以後、終戦に至るまで、楠木正成は忠君愛国の理想の人物であり、国民こぞって見習わなければならない偉人とされた。
だが、本当にそうなのか。
楠木正成は本当に、朱子学の正閏論とか、忠君愛国とかいったイデオロギーで行動していたのか。幕末以後の皇国史観の色眼鏡で見ているだけではないのか、どうも私には疑問に思えて仕方がない。
終戦後皇国史観は否定されたわけだが、楠木正成という人物についてはそんなに見直されたわけではない。実際は流通業者であったとか、そういった存立事情はいろいろ明らかにされてきたが、彼がイデオロギーで行動していたという点については、いまだにほとんど疑われていないのである。
はたして、彼はそんなに難しいことを考えて行動していたのかどうか。
楠木正成と赤松円心の出自はよく似ている。
いずれも当時の法制用語でいうところの「悪党」である。これは鎌倉幕府の御家人という立場にない──つまりアウトローの──武装勢力のことを指し、現在の語意とは異なる。
つまり、鎌倉幕府が健在な限りはあまり浮かぶ瀬のない存在なのだ。
領地が公認されていないため、自力で外敵を防がなければならないし、土地から得られる以外の富の集め方を考えなければならない。商工業の担い手となって行ったのは自然な趨勢であった。
それで、後醍醐天皇が倒幕の兵を募ると、こぞって参加した。鎌倉幕府が倒れて新しい体制ができれば、自分たちにもいいことがあるだろうと思ったのである。
もちろん、倒幕のためには、足利や新田といった有力な御家人の寝返りがなければ無理であったが、正成や円心が幕府方の討伐軍を翻弄し、時には打ち破ったればこそ、幕府の権威は地に墜ち、尊氏や義貞も寝返る気になったのだった。
一見、彼らの行動は、朱子学(当時は宋学と呼ばれた)の尊皇攘夷論に則ったものであるように見える。
天下は、唯一正統なる帝王のみによって治められなければならない。この世のすべては、普天の下、率土の浜に至るまで、その帝王によって支配される。
この正統な帝王の支配を武力によって侵すものが夷(えびす)である。夷というのは異民族のことで、朱子の生きた時代は中国の北部が女真族王朝である金に支配されていたから、当然ながら朱子はそれを念頭に置いていたであろう。
時代はまだ、人々がイデオロギーによって動く段階にはなっていなかったが、イデオロギーで動く個人はいた。後醍醐天皇自身がその筆頭である。後醍醐は宋学にすっかり夢中になり、中国の皇帝と自分を同じ立場だと考えた。そして彼が夷と見なしたのが鎌倉の武家政権である。その頃、京都にいてイメージする関東地方というのは、同じ国の別の地方という感覚ではなく、強大な隣国という印象が強かったであろう。
その東国の夷どもが、天皇の支配すべき天下を侵しているばかりか、天皇家の相続にまで口を出し、大覚寺統と持明院統から10年おきに天皇を出すなどという笑止な決まりを押しつけている。後醍醐天皇は唯一正統な帝王として、これを糺し、武家政権を討伐しなければならない。
楠木正成も、名和長年も、赤松円心も、この思想に共鳴して倒幕の兵を興したように見えるし、実際そう思われてきた。
だが、アウトローとはいえ彼ら自身も武家であることに変わりはない。武家を排斥する思想に共鳴するなどということがあるだろうか。
どう考えても、彼らが自分自身の存立を危うくする考え方に共鳴して起ち上がったとは思えない。
法の源泉たる幕府が自分たちの領地を公認してくれないから、源泉を別に求めようとしただけではないだろうか。
そして、当初の後醍醐天皇方は、味方を募るために、恩賞を気前よく約束した。
自分らの領地を公認してくれ、もしかすると一国くらい貰えるかもしれない。「悪党」たちは、そういう欲と夢に突き動かされて起ち上がったと見る方が素直であろう。
周知の通り、建武の御新政はそういう彼らの欲望に応えるものではなかった。ほとんど働きもしなかった公家たちに巨大な領地が与えられ、実際に倒幕のために働いた武士たちには、せいぜい下級の官位が与えられた程度に過ぎなかった。当然ながら、多くの者が離反し、反旗を翻した足利尊氏に従った。
ここで問題となる。
楠木正成や名和長年は最後まで後醍醐天皇方として忠節を尽くした。しかし似たような立場であるはずの赤松円心は足利方に寝返った。彼らの明暗を分けたのはなんだったのか。
通常言われているのは、赤松円心は護良(もりよし、あるいはもりなが)親王との結びつきが強かったので、護良親王の失脚に伴って立場を失い、それを恨みに思っていたということである。
護良親王は後醍醐天皇が隠岐に配流されていた間、精力的に各地の不満分子を焚きつけ組織化し、倒幕の機運を高めた殊勲者だが、あまりに功が大き過ぎて後醍醐周辺の側近たち、ことに彼が跡継ぎになるのではないかと怖れた後醍醐の愛妾阿野簾子(あののれんし)に憎まれ、謀反の罪を着せられて鎌倉の尊氏のもとに送られたのである。北条高時(「最後の執権」と言われることが多いが誤り。最後の執権は赤橋守時であり、高時は「得宗家(北条本家)最後の執権」である)の遺児の北条時行が諏訪氏に担がれて起こしたいわゆる中先代の乱で、鎌倉が攻められた折りに、護良親王を生かしておいて敵方に利用されては面倒と見た尊氏の弟の直義(ただよし)によって殺された。
だが、護良親王と強く結びついていたにもかかわらず、その後も南朝方として働いた者も少なくない。円心の離反の原因はこれだけでは弱い。というより、正成や長年らと袂を分かつほどの要因とは思われない。
つまらぬ話に思われるかもしれないが、この差が生じたのは、後醍醐天皇に直接面識があったかどうかという点にあるのではないかと私は考えている。
楠木正成が後醍醐天皇と会っていたのは間違いない。楠の夢を見た天皇が正成を召し出したなどという伝説はどうでもよいが、ともかく第一次蜂起(正中の変)に失敗した後醍醐天皇が都落ちをする時に正成が随行していたのは確実である。それどころかそののち後醍醐天皇は正成を個人的にも寵愛し、本来総司令官であるはずの新田義貞の頭越しに正成を呼んで策を述べさせたりしている。
名和長年は後醍醐天皇の隠岐脱出の手引きをした男であるから、当然面識がある。おそらく直接礼を述べられたに違いない。
が、赤松円心が後醍醐天皇に拝謁したという証拠はない。
この差が、案外大きかったのではないかという気がするのだ。
後醍醐天皇は、個人としては大変に器が大きく、接する者を惹きつけずにはいられない人格の持ち主だったように思われる。
つまり、カリスマなのである。
貴種に対する崇敬の念が強かった時代であり、天皇に直接声をかけられたというだけで泣いて喜ぶ者も多かっただろうが、それだけではなく、当時のほとんどの人間にとって縁のないイデオロギーで武装し、いわば私憤を宋学というイデオロギーで濾過して客観的な真理として社会正義を語る後醍醐天皇の言葉は、接する者に神のごとき輝きを感じさせたに違いない。
正成らは、このカリスマに接して、俗に言えばイカれてしまったのだ。
正成の行動は、決して「天皇制を守る」などというイデオロギーに発するものではなく、もっと単純というか原初的というか、「後醍醐天皇という個人への忠誠」に過ぎないと私は思う。
恩を受けた、あるいは意気に感じた、男として惚れ込んだ……そうした相手に対する忠誠心ということであれば、これは難しい話ではない。特に「恩」と「忠誠」は当時表裏一体の観念だった。幕府は御家人の領地を安堵してやる。その「恩」に対し、御家人は幕府に「忠誠」であることをもって応える。忠誠というのはこのように計量可能でいわば売り買いできるものであった。忠誠が武士の絶対的な倫理徳目になったのは、江戸時代の「葉隠」以後の話である。
正成は後醍醐天皇から恩を受け、後醍醐天皇の意気に感じ、すっかり惚れ込んでしまった。だから最後まで忠臣として振る舞った。「忠君」なる抽象的な観念のために生きたのではない。
これに対し、円心は後醍醐天皇に直接会ったことがなく、従ってその謦咳に接することもなく、意気に感じることもなかった。だから、自分の欲望に建武の御新政が応えてくれないと見るやあっさり離反した。
なんだか身も蓋もないような割り切り方かもしれないが、人と人との結びつきというのはそんなものではあるまいか。
新田義貞もまた、正成と同様意気に感じて南朝方として働いた面があったろう。義貞については別項で述べたので詳述は避けるが、ともかくも上州の田舎の小大名だった義貞が、官軍の総大将に抜擢されたにあたっては、大いに恩を感じたに違いない。もっとも彼の場合、本来足利氏に対して競争意識が強く、足利の天下とりにストップをかけたい気持ちの方が大きかったのかもしれないが。
さて、南朝方の有力な武将は次々と討たれる。楠木正成、北畠顕家、新田義貞、いずれも足利方を大いに悩ませたが、結局は圧倒的な兵力差の前に敗れ去って行った。
そして1339年、そもそもの元凶である後醍醐天皇が吉野で崩御。
これによって、南朝は壊滅する……はずであった。
ところが前述の通り、南朝はそれから後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇と3代も存続し、半世紀以上も生きながらえるのである。
経済的にも軍事的にも両翼をもがれたような弱小な南朝が、どうして生き延びられたのか。
時代そのものが、ふたつの朝廷を必要としていたのかもしれない。
というのは、この当時、まだ相続法というものがはっきり確立していなかった。
当主が急死して、生前に後継者の指名がなされなかった場合、兄と弟、あるいは叔父と甥などの間に熾烈な争いが起こる。双方軍勢を催しての戦争となることも稀ではなかった。当主が後継者を指名していてすら、異を唱える者がどこからか現れたりした。
鎌倉幕府の主な役割は、この相続争いを調停することにあった。公正に迅速に土地の領有権を裁くこと、それこそが武士たちが幕府に期待していたことだった。幕府高官が賄賂を受け取ったりして公正でなくなってきたから、武士たちは幕府を倒したのだ。
当然ながら、新たな支配者となった足利尊氏にも、人々はその調停機能を期待した。
尊氏という人は例を見ないほど気前のよい男で、僅かな働きに対しても過剰なほどの恩賞を与えたのだったが、物事を割り切るということが苦手であった。本来が良家のお坊ちゃんであって、実におっとりとしていたのである。
恩賞は気前よくくれるが、公正迅速な裁判ということになるとどうも頼りない。
そういうトップだったから、訴訟に敗れた方はなかなか納得しない。そこで、吉野にもうひとつの権威が存在することを思い出す。彼らは南朝に走って、そちらからお墨付きを貰う。南朝は自前の領地などほとんど持っていないし、お墨付きを与えると言っても自分の懐が痛むわけではないから、これまた気前よく与える。
そんなこんなで、同族が南朝と北朝に分かれて相争うということが多かった。楠木氏、新田氏のように一族あげて南朝方だったというのはむしろ少数である。
南朝は、この同族争いに乗っかって存続できたと言ってよい。
やがて、あろうことか足利家の同族争いすら南朝を利用するようになる。
尊氏と直義が不和となり、一触即発の事態となった時、なんと尊氏は南朝と和睦して直義を攻めようとしたのである。さらに次の機会には、逆に直義が吉野へ逃げ込んだ。
要するに与党内の反主流派が野党と結ぶ、あるいは主流派が反主流派を押さえるために野党と結ぶ、そんなことが繰り返されたのである。南朝は社×党とか×明党みたいな存在となっていたのだ。
直義は結局尊氏の手で暗殺されるが、尊氏もやがて死ぬ。
ところが今度は、2代将軍である足利義詮(あしかがよしあきら)と、その異母弟で直義の養子になっていた直冬(ただふゆ)とが長い争いに突入する。直冬は九州にあって、後醍醐天皇の皇子の懐良(かねなが)親王を擁して反旗を翻したのだ。これにより南朝はまたしても息を吹き返すことができた。
この九州勢力は、3代将軍義満の代になってから、知将今川了俊(いまがわりょうしゅん)の丹念な戦略によってようやく制圧され、それに先立って山陰の巨大領主山名氏の内紛(やはり一方が南朝と結んでいた)も収まっていたから、南朝はついに成立基盤を失い、後亀山天皇は1392年、吉野を下りて京都へ帰還した。
要するに幕府の優柔不断が南朝を生き延びさせたと言える。足利幕府は、開祖である尊氏の性格をひきずって、最後まで優柔不断な政権だった。
本来、敵方が担ぎそうな御輿(みこし)はあらかじめ叩き壊しておくというのが戦略の基本だ。直義が護良親王を殺したのはまさにそのためではなかったか。
しかし尊氏は、将来自分も同じ御輿を担ぐことになるかもしれないというわけで、御輿を壊すのをためらったのである。その消極性が、半世紀以上も、役割の済んだ御輿を存続させた。さっさと吉野を潰しておけば、自分の息子たちが血で血を洗う争いをするはめになることもなかったかもしれないのだが。
日本の南北朝時代は、それだけのことであって、中国の同名の時代のように、分裂していたからこその発展などということは、まあ見られない。
もちろん「太平記」という一大文学作品を産み落としたという功はあったけれど。
この時代をイデオロギッシュに捉え、楠木正成を忠君の鑑などと顕揚するからややこしいことになったのである。いや、正成を顕揚するだけでよかったものを、彼と戦った尊氏を悪逆の臣としてしまい、従って尊氏の担いだ北朝は正統でないというような論理を展開させたのが間違いのもとだ。
南北朝時代がイデオロギッシュだったのではなく、それを評価した時代がイデオロギッシュだったのだ。本意ではなかったかもしれないが、そのきっかけを作った徳川光圀の責任は重い。
この呪縛は、昭和初期まで続いた。議会である議員が
──政府は、北朝を正統と考えているのか。
という質問をしたことが内閣崩壊につながったなどという、嘘のような話もある。
また明治天皇も昭和天皇も当然ながら北朝の系統なので、御用学者たちは南朝正統論との整合性に苦しんだ。南朝を正統とするなら、昭和天皇は簒奪者の子孫ということになってしまう。今の天皇に忠誠を尽くさなければならないのなら、北朝を正統と見なすべきであり、従って楠木正成は逆臣となってしまう。今となってはばかばかしい話だが、つい百年足らず前までそんなことが真剣に論じられていたのである。
南朝は政治勢力としては1392年に滅亡したが、その影響は長く尾を引いたと言わなければならない。
昭和まで呪縛が解けなかったというのは象徴的な話として、実際問題としても、南朝の残滓はずいぶん晩い時期まで吉野を中心にして跋扈していたようだ。あのとんちの一休さんこと一休宗純は後小松天皇の皇子だったと言われるが、彼が僧籍に入らなければならなかったのは、母である後小松の愛妾伊予の局が南朝遺臣の娘だったためだとされる。寺社奉行の蜷川親当(にながわちかまさ)は一休さんと親しかったが、本来は一休と南朝残党が結びつかないように監視するお目付役だったとおぼしい。
南朝の残滓の蠢動が完全に終息するのは、応仁の乱を待たなければならなかったのではあるまいか。
ちなみに、戦後になってから、後亀山天皇の子孫、すなわち南朝の直系だという人物が名乗り出たことがあった。「熊沢天皇」として一時期話題になったので、ご記憶の向きもあるかもしれない。戦前だったら大騒ぎになったかもしれないが、さすがにキワモノ扱いに終わってしまったようである。 (2001.3.7.) |