「悲運の名将」の条件――新田義貞

 「悲運の名将」という言葉を聞いた時に、人は誰を思い浮かべるだろうか。
 三国志の関羽諸葛孔明、南宋時代の岳飛などを連想する人がいるだろう。このシリーズで取り上げた源義経を考える人も多いだろうし、山本五十六などをイメージする人もいるかもしれない。
 私の場合、この言葉がいちばん当てはまるのは、新田義貞(1301〜1338)だと思っている。
 「悲運の名将」と呼ぶ場合、最期が非業の死であるだけでは不充分だと思う。軍人である限り、どこかで戦死する可能性は非常に高いのだし、暗殺などで寝首をかかれる、主君に警戒されて死を賜る、などの危険もそんなに珍しいことではない。
 諸葛孔明に至っては、主君劉備には最後まで全面的に信頼され、将兵にも畏敬され、しかもその最期は戦死でも刑死でもなく、病死である。彼が「悲運」であるのは、敵国・魏を覆滅するという悲願が成就できなかったというだけのことであり、孔明の属した蜀漢と魏との国力差を考えると、「悲願」自体がそもそも夢物語のようなものである。とても「悲運」などと言えたものではない。
 新田義貞の悲運は、そんな生ちょろいものではないのである。

 義貞の37年という短い生涯の中で、歴史に登場するのは僅かに最後の6年間に過ぎない。しかも、その6年の前半の栄光と、後半の悲劇との落差があまりに大きい。
 何がそれほどの落差をもたらしたのか、義貞の軌跡を追ってみよう。
 彼は上野(こうづけ)の新田庄に、新田氏の嫡男として生まれた。
 新田氏は源義家(八幡太郎)の次男・源義国を始祖とする源氏の名門である。義家の長男である義親(よしちか)の家系は、鎮西八郎為朝、頼朝、義経、木曽義仲など錚々たる役者を送り出した後、同族争いの果てに滅びてしまった。鎌倉三代将軍実朝(さねとも)が甥の公暁(くぎょう)に暗殺され、公暁もまた三浦氏の手に掛かって殺害された時点で、源氏の嫡流は義家の次男であった義国の家系に引き継がれた。
 義国の長男義重(よししげ)が新田氏を興し、次男義康(よしやす)が足利氏を興した。従って、次の嫡流は新田氏のはずである。ところが、話はそう簡単ではない。
 実は義重は、父義国が自分よりも弟に目をかけていることを察し、弟の義康に嫡男の座を譲ってしまったのだ。誰も彼もが私利私欲の亡者となっていた当時としては、滅多にない美談である。だが、この美談はその後長い恨みを残した。
 源氏の嫡流は、嫡男の座を譲られた義康の興した足利氏ということになってしまった。兄の義重本人はそれで満足したかもしれないが、子孫にとってはたまったものではない。長男の血筋でありながら、次男の血筋の下風に立たなければならないというのは、なんともやりきれないことであった。
 足利氏は、早い時期に鎌倉政権に密着し、頼朝、のち北条氏と深い関係を結んだ。そのため、幕府でも枢要の地位を占め、全国に領地や郎党を蓄えていた。
 新田氏は、この点でも出遅れた。というより、永らく冷や飯を食ったおかげで、プライドばかり高くなってしまって、源氏の使用人に過ぎなかった北条氏に仕えたり、足利と肩を並べたりなどできるかと思ったのかもしれない。いずれにしろ、義貞が生まれた頃には、足利と新田は、ほとんど絶望的なまでの差がついてしまっていたようである。足利が百万石の大大名とすれば、新田は五万石程度の小領主に過ぎない。
 義貞の能力も悲運も、ここを押さえておかなくてはなかなか理解しずらい。

 蒙古襲来以来、鎌倉幕府の権威は地に墜ちた。
 鎌倉幕府は、基本的には調整機関である。全国に直接命令を下すということはほとんどなく、直轄領以外の土地への口出しはしない。ただそれらの土地で何か紛争があった場合、「道理」に基づいてその紛争に判定を下すのが幕府の役目なのだ。いわば最高裁判所の機能である。人々が幕府に期待するのは、迅速公正な裁判であり、それ以上のことではなかった。
 ところが元寇以降、迅速さにも公正さにも問題がでてきた。訴訟はもたつき、賄賂を取る高官が現れた。幕府の本来の機能が果たせなくなってきたのだ。
 当然、人々は不満を持つ。
 不満があれば、その不満を糾合して、権力を奪おうという人間が出現する。すなわち、後醍醐天皇(1288〜1339)である。
 後醍醐は歴代天皇の中では奇形と言ってよい。少なくとも平安時代以降の天皇は、地上の権力に興味は持たなかった。千数百年前から日本は象徴天皇制なのであって、これは戦後の発明ではない。
 ところが、後醍醐天皇は中国渡来の「宋学」にかぶれてしまった。これは北半分を女真族政権「金」に占拠された南宋で生まれた学問で、簡単に言えば中華思想を正当化体系化したものだ。内容的には異民族政権に対するレジスタンスに近く、天下は偉大な中華皇帝によって「普天の下、率土の浜」まで(何から何まで)支配されなければならないと説く。
 後醍醐はこれを日本に引き写して考えた。そして中華皇帝にあたるのが天皇たる自分ではないかと錯覚してしまったのだ。しかるに実状を見れば、日本は「武士」などという得体の知れぬ「異種族」に支配されている。異種族を打倒し、絶対権力をわが手に取り戻さねばならぬ。本当は「取り戻す」と言っても、最初から天皇は絶対権力など持っていないのだが、後醍醐は一途にそう思った。
 彼は幕府の体制の組織外の連中を使って幕府を倒そうと考えた。それが楠木正成(くすのきまさしげ)、赤松円心(あかまつえんしん)、名和長年(なわながとし)ら、「太平記」の世界を彩る「悪党」たちである。ここで「悪党」と呼ばれているのは「アウトロー」という意味で、別に悪い奴ということではない。
 悪党たちも、幕府が倒れて新しい体制ができれば、自分たちにもいいことがあるかもしれないと思って、後醍醐天皇に協力した。決して忠誠心や大義名分のためではない。
 一度は失敗し、後醍醐は隠岐へ流される。
 しかしその間、有能なオーガナイザーで猛将でもあった息子・護良(もりよし、あるいはもりなが)親王によって、全国の不平武士たちにも、倒幕の檄が飛ばされていた。
 鎌倉幕府の腐敗にうんざりしていた武士たちが、続々立ち上がった。
 新田義貞が登場するのも、その時である。

 通説によると、幕府から6万貫というべらぼうな戦費供出を命じられた義貞が、その使者のあまりの高飛車な態度にプッツンして使者を斬り、叛乱ののろしを上げたことになっている。
 しかし、そんな衝動的な挙兵が成功するとは思えない。義貞はずっと前から挙兵のタイミングを見定めていたに違いない。
 その頃、悪党征伐のためにかなり多くの軍勢が上方におり、鎌倉は手薄になっている。しかも、足利高氏も征伐軍に加わって上方に行っているので、この機に兵を挙げれば、関東の武士たちは源氏の統領として自分に従うに違いない。鎌倉を落としてそこに入れば、軍事的にも経済的にも、そして人望的にも、足利高氏と同格になれる。
 そんな時に丁度高飛車な使者が来たりしたので、好機をのがさずそれをきっかけにして立ち上がったのである。
 実際には、手薄と言っても鎌倉は難攻不落の要塞都市で、かなり苦戦したが、それでも見事に落とし、北条氏を滅ぼした。
 一方、足利高氏は鎌倉幕府の京都出張所というべき六波羅探題を消滅させていた。
 鎌倉と京都の要害の差、重要性の差を考えると、義貞の方がはるかに戦功が上であることは言うまでもない。しかも、自前で動員できる兵力は、おそらく義貞は高氏の10分の1もなかっただろう。鎌倉攻めの軍勢は、大半が途中参加の武士で、義貞の直属の部下ではなかったことを考えると、それらをまとめて鎌倉という怪物に立ち向かい、勝ちを収めた義貞の統率力・作戦能力は抜群と言うほかない。
 義貞としては、しばらく鎌倉にとどまり、まず関東の武士たちを完全に掌握して、もしかすると訪れるかもしれない足利高氏との対立に備えたかっただろう。
 だが、そこへ後醍醐天皇からの勅書が届いた。急ぎ上京し、天皇の側に仕えよというのである。
 やむなく義貞は西へ向かった。そして再び、関東に帰ることはなかった。

 後醍醐が新田義貞を呼んだのは、ひとつには足利高氏を牽制させるためであったろうが、むしろ、人望のある武士を鎌倉に置いておくことの危険を避けようとしたからではなかったかと思う。
 義貞は高い官位を貰い、後醍醐天皇の軍勢の指揮権を与えられた。勾当内侍(こうとうのないし)という美女まで下賜され、この美女に溺れたために彼は戦機を逃して敗れたと伝えられているが、それはどうも怪しい。義貞の行動を日を追って検証すれば、女に溺れて何もしなかったという時期などまったく見当たらないのがわかる。「太平記」の記述のせいで、女のために骨抜きになった大将というイメージがついて廻るのは、義貞にとっては気の毒としか言いようがない。
 周知の通り、後醍醐天皇の試みた「建武の御新政」はすぐに破綻し、ほとんどあらゆる階層の不満を買った。足利高氏(天皇の諱の一字を貰って尊氏と改名していた)も離反し、関東へ戻って独立しようとした。義貞はその討伐を命じられ、軍を率いて東下したが、箱根で撃破された。
 これがケチのつき始めで、その後の義貞の戦績はあまりぱっとしない。少なくともそんな印象がある。
 京都に攻め込んできた足利軍をさんざん打ち破り、九州へ追いやったというのは大金星だが、これは楠木正成の功績にされてしまっている。楠木正成という人は虚像が独り歩きしてしまっているが、実際には遊撃部隊の長に過ぎない。今で言えばグリーンベレーの隊長のようなもので、階級はせいぜい大佐止まりだろう。総大将・新田義貞の率いる正規軍が奮闘したからこそ、足利尊氏は命からがら逃げ出さざるをえなかったのである。
 その後、同じく反旗を翻した赤松円心を討つべく播磨に入ったが、悪党独特のゲリラ戦法に翻弄されて、膠着状態に陥ってしまう。そこへ勢いを盛り返した足利軍が押し寄せてきたからたまらない。湊川の合戦で大敗を喫し、楠木正成を喪ってしまう。
 劣勢のまま、比叡山に越前にと転戦したものの、もはや時代の流れは覆うべくもなく、灯明寺畷で自ら偵察行動中に敵と遭遇し、討たれてしまう。
 討たれたこと自体は、最初に言った通り、軍人の宿命みたいなもので、とりたてて悲運と呼ぶにはあたらない。また、劣勢の勢力に最後まで従い、退勢を挽回しようとして力及ばず敗れたというのも、特に珍しい話ではない。
 義貞の悲運は、もっと根が深いのである。

 前述の通り、新田氏の地盤規模は、せいぜい数万石の小さなものである。
 従って、譜代の家臣という者もいたって少ない。
 鎌倉を滅ぼした時も、源氏の嫡流の資格があるという旗を高々と掲げてようやく軍勢をかき集め、利を説き、名分を叫んでなんとか統御することができたのであった。
 それでも、関東では、源氏の名は重く、また新田氏の来歴についても皆よく知っており、統領と仰ぐべきは足利でなければ新田、という雰囲気があっただろう。
 だが、上方へ出てしまえば、その根を断ち切られたも同然である。
 上方の人間は、源氏という家系に対して、さして尊敬の念を抱いていない。新田の名もほとんど知られてはいなかった。
 田舎からぽっと出の男が、いくら天皇から指揮権を与えられたとしても、全国の武士たちをそうそう自由自在に動かせるわけはないのである。これが足利尊氏なら、自分の領地が全国にあり、自前の軍勢を大量に召集することも可能だが、義貞にはそれは願うべくもない。
 しかも後醍醐天皇は、武士を信用していない。義貞の軍には、必ず公家が同格の将軍、あるいは上役として同行した。彼らはいちいち義貞を掣肘し、さらに勝手な行動をとることが多かった。
 こんな軍勢を率いて戦わなければならなかったところが、義貞の悲運なのである。
 自分にまだ心服してもいない、一片の勅書で下につけられただけの将兵を使いこなさねばならず、おまけにその勅書の主はきわめて評判が悪く、なお悪いことにはその主君からさえ信用されておらず、作戦にもいちいち口を出される。
 これほどの悪条件で戦わなければならなかった武将も珍しい。
 考えてもみて欲しい。一介の小企業の主に過ぎなかったあなたが、大企業の社長にヘッドハンティングされて、社運をかけたプロジェクトの責任者となる。しかし部下としてつけられた者たちはプロジェクトにも社長にも懐疑的で、しかもあなたを胡散くさげに思っている。プロジェクトを進めようとしても役員たちが入れ替わり立ち替わりくちばしを入れる。昔の仲間を集めて乗り切ろうとしても許されない。予算も削られる。ライバル会社は同じプロジェクトを有効に進めつつある。こんなプロジェクトを成功に導く自身が、あなたにはありますか。
 しかし、義貞は弱音を吐かず、最後まで戦いを放棄しなかった。本物のサムライと言わねばならない。

 公家連中の容喙には、楠木正成もうんざりしていたようだ。彼は個人的に後醍醐天皇に好まれていたので、よく朝廷に呼ばれて意見を徴された。この、指揮系統の乱雑さも、義貞には決定的なマイナス条件であったと言ってよい。当時の軍団は近代軍隊とは違い、指揮系統がはっきりしていない。大将である義貞の頭越しに、正成が直接呼ばれてしまうのだ。
 湊川の合戦の前に、正成は、
 ――新田義貞の首を足利尊氏に差し出し、和睦を図る。
 ということを提案したという。そして、それを知った義貞が、報復のため湊川で正成を見殺しにしたのだとも言われる。女に溺れる上に、私怨で有能な盟友を見殺しにする狭量な男、というイメージが、「太平記」で形作られてしまっている。
 おそらく、正成の真意は、ほとほと公家連中に愛想を尽かし、
 ――そんな面倒なことばかり言っているのなら、いっそ総大将の首を差し出して降伏してしまえ。おれはもう知らん。
 という捨て台詞のつもりではなかったかと思われる。
 というのも、正成はその前に、天皇に比叡山に待避して貰って京都で足利軍を待ち受け、再度撃滅するという作戦を言上しているのだ。この作戦は当然、義貞と協議した上のことであったろう。ところが公家連中は、玉座をそう軽々しく動かすなど不敬であるとかなんとか屁理屈を並べてその作戦を却下してしまった。正成の「義貞の首」発言はそのあとのことだ。
 義貞も、正成も、自分が立てた作戦で戦うことを許されなかった。湊川の敗戦を、総大将義貞の無能のせいだとするのは、あまりに不公平と言うべきであろう。

 義貞が歴史に現れた6年間の前半は、彼自身の才覚で活躍し、その能力を存分に発揮して輝くことができた。
 だが後半は、能力を発揮する方法を、ほとんどことごとく奪われてしまい、不本意な行動ばかりを強いられた。
 しかもそれは、結果的に、前半の彼自身の活躍(鎌倉幕府討滅)によってもたらされた状況であった。
 運命に翻弄される中、一言の弁明も文句もなく、最後まで戦い抜いた。
 にもかかわらず、後世の評価はあまり芳しくない。美女に溺れて戦機を逃した武将。盟友を見殺しにした男。戦前は楠木正成の陰に隠れて二流どころの評価しか与えられず、戦後は足利尊氏が見直されるに従ってやはり二流どころの評価しか与えられない。時代が変わっているのに気づかず、古い権威に忠節を尽くそうとした愚かな男だとまで言われる始末である。
 そうした後世の無理解をも含めて、やはり私は「悲運の名将」のタイトルを新田義貞に与えたいと思うのである。

(1998.1.27.)


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