上野は、特別な旅情を誘う駅である。
過去、幾多の人々が、青雲の志を秘めてこの駅のプラットフォームに下り立ったことだろう。
もちろん、東京の玄関口は上野だけではない。東京駅、新宿駅もあるが、「青雲の志」という言葉には、西よりも北が似合う。厳しい土地である東北地方から、一旗揚げるべくやってくる人々。東京はどちらかというと、彼ら北の人々が作り上げた都市だと言ってもよい。
上野駅には、彼らの永年の体臭がしみついている。それは、新幹線の途中駅と成り果てた現在でも変わらない。
私は生まれが北海道で、その後新潟に移り、小学校に上がる前頃に東京に出てきた人間である。だからまあ、東京者と言えるだろう。だが、母の実家が札幌にあり、従って親戚も多いので、よく北海道に行っていた。
そんなこともあってか、私の旅の指向はどちらかというと北に偏っている。2、3日の休みでどこかへゆこうとすると、まず東北方面を考えてしまう。
だから、上野駅にはよくお世話になる。加えて大学も上野にあったので、実になじみが深い。学校から帰る時、上野から列車に乗ってどこかへ行ってしまいたいという衝動を抑えかねたことも少なくない。
上野駅は、昔から2層になっている。今は新幹線が通って3層になったが、新幹線のことはここでは触れない。上のプラットフォームは山手線、京浜東北線、常磐線などの電車が発着しているが、こちらは他の近郊駅とさほど違った風情もない。旅情を感じるのは下のプラットフォームだ。頭端式の櫛形プラットフォームが並び、いかにも北の玄関口という感じがある。阪神地方の方は、天王寺駅の阪和線プラットフォーム、あるいは阪急梅田駅などの構造を思い浮かべて下さい。線路が行き止まりになり、その先は改札口になっている。
新幹線の開通前は、この下のプラットフォームで、頻繁に北へ向かう、あるいは北から着いた特急や急行が発着していた。大きな荷物を抱えた人々が、やや戸惑いがちに、きょろきょろしながら行き交っていた。階下のプラットフォームだから、なんとなく薄暗い。その薄暗さが、より深い風情をかもし出しているかのようだった。
西日本の人たちは、ごく大まかに言って、東京という都市に対して、高をくくっているところがある。いわば、日本史を作ってきたのはおれたちだ、といったような鼻息があって、東京など何するものぞ、と感じている人が多いように思える。それに対して、東北地方の人たちは、戊辰戦争の名残だろうか、どこか気後れしつつやってくるような気配がある。もちろん、これは私の漠然とした印象で、個人個人をとってみれば違うのだろうけれど。
しかし、少々気後れしながら、はにかみながら列車から降りてくる、そういった人々の感覚が、上野駅の一種独特の雰囲気を形作っているように思えてならない。
私は現在埼玉県の川口に住んでいて、ここからは上野も大宮もほぼ20分で行くことができる。だから、北の方に急ぎの用事がある時は、大宮まで行ってそこから新幹線を使うことが多い。時間を節約できるし、新幹線への乗り換えは大宮駅の方が断然楽だからだ。だが、自分の楽しみのための旅となると、新幹線はなるべく使いたくない。そして、上野から列車に乗りたくなる。上野からでないと、旅に出る気がしないのである。
そして、なるべくなら夜汽車がいい。石川さゆりが歌った「上野発の夜行列車」である。
現在は札幌行きのデラックス寝台特急「北斗星」が走って、夜行列車もすっかりリッチな感覚になったが、私が好んで使ったのは、寝台特急ではない。もっぱら、急行の座席車である。夜行の急行列車はダイヤ改正のたびに減らされて、今は上野発の定期列車としては福井行きの「能登」だけになってしまったが、最近まで残っていた東北線廻り青森行き「八甲田」、奥羽線廻り青森行き「津軽」は、貧乏旅行者の救いの神であった。というのは、貧乏旅行者がよく使うJRの企画切符「ワイド周遊券」や「ミニ周遊券」では、行き帰りに新幹線や特急を使うことができないからである。使うためには、特急券を別に買わなくてはならない。その点、急行の自由席車にはそのまま乗れる。全国のJRから、急行列車というものがほとんどなくなりつつある現状は、私のようなワイド周遊券ユーザーにとっては痛恨の極みである。
中でも、奥羽線廻り「津軽」が私の贔屓であった。この列車は、距離が長く山越えをする奥羽本線を経由するため、青森に着くのは昼頃になる。青森まで乗り通すのはよほどの変わり者と言えそうな急行だった。
しかし、旅情ということになると抜群だったのである。
ある時「津軽」に乗ると、結構混んでいて、隣に出稼ぎ労働者らしいおじさんが坐った。発車後しばらくして、言葉を交わしてみると、はたして弘前からの出稼ぎである。弘前は青森の手前40分くらいのところだから、このおじさんもほとんど全部乗り通すようなものだ。こういった人たちが「津軽」には沢山乗っていた。
おじさんは、機嫌よく話し続け、やがて酒を出して私にも勧めた。生憎私は酒を全く飲めないので、丁重に断ると、ひとりで飲み始めた。おじさんはますます上機嫌でしゃべっていたが、酒が進むに連れ、お国言葉がどんどん出てきた。それまでは、多少の訛りはあったが、充分わかる話し方をしていたのだけれど、酔いが回って抑制が外れると、純粋な津軽弁となって、私には全く理解できなくなってしまった。確かに津軽弁は難解な方言だと言われるが、話し手に、こちらに通じさせるという意思がないと、こうもわからないものかと、ほとほと感心した。
何を言っているのかわからないから、相槌の打ちようもなく、私はなんとなく
「はあ、はあ、……」
とうなづいているばかりだったが、おじさんはこちらに通じていないことなど全く意に介さず、ひとりで機嫌よくしゃべり続けていた。そのうちおじさんがいびきをかいて眠ってしまったので、私はホッとした。
夜行列車には、こういう楽しみが満ちていた。しかし、今では夜行の座席車は数えるほどになってしまった。時代の流れとはいえ、私は寂しい想いをしている。
(1997.10.22).
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