プロローグ 2015年初夏の2ヶ月ほど、振り返ってみればずいぶん行事が続いたなあと思います。私にとって大きなものも小さなものもありましたが、これだけ集中してあれこれあった期間は珍しいのではないかと思います。5月17日が皮切りで、この日に『法楽の刻』の初演がありました。これは私自身は聴きに行っただけで、当日何かをしたというわけでもないのですが、作品初演が作曲家にとっての重要行事であることには変わりありません。この2ヶ月ほどのさまざまな行事の中には、作品初演もいくつも含まれていました。去年が珍しく作曲仕事が重なった年であったために、その初演も近接した時期におこなわれたわけです。 その約1週間後、5月23日にはChorus STのボランティアコンサートがありました。小なりとはいえども、演奏会に違いはなく、このための練習も重ねました。前週の『法楽の刻』と同じ立正佼成会がらみで、場所もほとんど隣り合わせみたいなものだったのは、偶然とはいえ面白い符号でした。 5月31日には世田谷区の合唱フェスティバルがあり、30分ほどのワークショップと、コーロ・ステラの指揮をしました。ワークショップなどやったことはあまり無く、かなりイヤな汗をかきました。 6月13日には、この2月から指導することになった女声合唱団クール・アルエットが、新宿区の合唱イベント「初夏に歌おう」に出演するというので、その指揮をしました。前の指導者が亡くなって、とりあえずこの演奏をどうしようかということで急遽呼ばれたふしがありますが、合唱団としてなんとか「うまくなった」と他から言われたということだったのでほっとしました。前の先生のときに較べて明らかに劣化したというようなことになっては私の沽券にかかわります。そんなことを意識していたために、知らないうちにかなり緊張していたらしく、終わってみると、当日の実際の労力以上にくたびれていました。 そして6月21日には『セーラ〜A Little Princess』の初演です。もとより、一連の行事の中でも最大のイベントでした。当日は私は聴いていただけですが、台本執筆期間、作曲期間、そして稽古期間と、長いことつきあってきた作品です。それだけに気を揉むことも多く、本番直前など胃が痛くなりかけたほどでした。 1週間も経たない6月27日には『星空のレジェンド〜七夕に寄せて』の初演がありました。これは、作曲を終えてから後は、『セーラ』ほど制作に関わったわけではなく、2回ほど練習に出向き、当日もホール練習と本番を客席で聴いたばかりでしたが、何しろ場所が平塚であり、行き来するのはなかなか大変でした。 7月8日に板橋区のオーディションがありましたが、これは他のと同等に並べられる「行事」であるかどうかは微妙です。私がオーディションを受けたわけでもありません。とはいえ、オーディションの審査員というのは、場合によっては他人の人生を変えてしまうことがあるわけで、その責の大きさはやはり相当に大きいと言わなければならないでしょう。大げさと思われるかもしれませんが、実際のところ私が新設されたばかりの「編曲専攻」オーディションに落ちるか、あるいは受けなかったとして、その結果板橋区演奏家協会に入会していなかったとしたら、私のその後の人生はだいぶ違ったものになっていたかもしれないと思うことがよくあるのです。 そして7月12日にはChorus STとして東京都合唱祭に参加しました。旧作の20年ぶりの再演というオマケまでついていました。初演ではないけれども、これだけ久しぶりの再演となると、初演に準ずるような気分でもあります。 以上、1〜2週間ごとに、なんらかの行事が8回も立て続けに催されていたことになります。 もちろん、2ヶ月間に本番8回ということなら、少し売れているミュージシャンであればそう珍しいことでもありません。しかし、その8回がそれぞれまるで違った内容だなどということはあまり無いのではないでしょうか。 8回の内訳は、自作の初演が3回、合唱指揮が2回、合唱団団員としての演奏が2回、そしてオーディションの審査員が1回ということになります。この中で、本番前にさほど準備にタッチしていなかったのは、初演3回のうち2回と、審査員の仕事だけで、あと5つはけっこう時間を取られています。準備同士がかち合わないようにするだけでも厄介でした。なんとかうまく処理したとは思いますが、それでも、『セーラ』の稽古のためにChorus STを欠席または大遅刻したり、世田谷区の合唱フェスティバルの役目が済むや否や『星空のレジェンド』の練習を見るために平塚に駆けつけたりといったきわどいスケジュールがありました。 これらの外に、実はもうひとつ行事が控えています。 小樽商科大学グリークラブOB会の、創立95周年記念演奏会というものです。 小樽商大グリーについては、前にも書いたことがあります。川口第九を歌う会で事務長を務めているO氏が、このグリーのOB会の、「東京勢」の世話役をしており、その縁で指導を頼まれました。 通年活動しているわけではなく、大学とかグリークラブとかの、何周年かの記念で演奏会をやろうじゃないかという話が持ち上がるたびに、OBで東京近辺に来ている人たちに呼びかけて練習をおこない、本番前日くらいに札幌もしくは小樽に出かけて行って、そちら在住のOBたちと合同演奏をする……ということを繰り返しています。私が関わるのは今回が3度目になります。 最初は「グリー創立90周年記念演奏会」で、それから「小樽商大創立100周年記念演奏会」となり、そして今度の「95周年」です。この分だと、今回が終わっても、じきに100周年ということになりそうであり、そのくらいならもういっそ通年活動にしてしまったらどうかと思うのですが、本番を済ませるとしばらくインターバルを取りたい気分になるのでしょう。 グリー90周年のときは、私は聴きに行きませんでした。近い時期に亡祖母の法事があり、そのときに札幌へ行ったので、ひっかけて聴いてきても良かったような気もしますが、確か1週間ほどのラグがあり、秋の忙しい時期で、1週間以上も北海道に滞在している時間的余裕が無かったのでした。 商大100周年のときは、小樽まで出かけました。3泊ほどの行程で行ってきました。小樽商科大学というのは、その前身である商船学校の所在地を、函館と取り合って見事もぎとったという歴史があり、それだけに常に小樽という街と共にある感じで、この100周年を街を挙げて祝っている観がありました。 そのときは聴きに行っただけでしたが、さて今回に至って、1ステージ振って貰えまいかと打診されたのです。北海道勢の負担を減らしたいという意図があったのかどうか、「東京勢だけによるステージ」を設けることになり、その部分のみ私が指揮をするというのでした。 私としてもいわば「札幌デビュー」を飾る(?)ことになるので、ありがたくお受けしました。 その本番が、今度の日曜日、つまり7月19日に開催されます。それが5月からの行事ラッシュの、ひとまずラストということになります。 当然ながら、この演奏会の練習にもだいぶ時間をかけています。最初の頃は隔週というペースでしたが、年明けくらいから月に3回、近づいてくるとほぼ毎週となり、練習時間も2時間→2時間半→2時間50分と増えました。 正直な話、練習時間および練習期間に比して、練習しなければならない曲数が多すぎ、やや不安が残っています。「東京勢ステージ」は4曲あり、その4曲を仕上げるというだけなら充分な期間と時間だったのですけれども、それよりも合同ステージとして演奏される多田武彦の『雨』にかなり手間取りました。このOB会、毎回多田武彦の合唱組曲をひとつずつ採り上げているのですが、いつも時間が足りず、不満の残る出来具合のまま送り出しています。「かつて現役時代に歌った人が多い曲」ということで選曲しているらしく、それは妥当な方針とは思うのですが、ただ小樽商大グリークラブというのは伝統的にプロの常任指揮者を置くことをしない合唱団で、つねに学生指揮者によって曲づくりがなされています。それゆえ、同じ曲を歌うのでも、年代によってかなり歌いかたに違いがあり、各年代のメンバーがそれぞれに自分についた癖のままに歌ってしまうため、まず歌唱の統一を図るのに労力を要したりするのでした。 『雨』そのものがまた、なかなか難儀な曲でもあり、どうしてもそちらに時間をとられて、「東京勢ステージ」に宛てられる練習時間がどうしても限られてしまいました。昨日、東京における最後の練習があって、大半を「東京勢ステージ」に費やしたものの、 ──この時点でまだこういうことを言わなければならないか。 と思ってしまう箇所がいくつもあり、少々焦りを感じています。 本番前日の18日に、札幌でリハーサルがあります。ステージは全部で4つあり、ひとつのステージにかけられるリハーサル時間は1時間かそこらですが、とにかくそこでなんとか仕上げてしまわなければなりません。 札幌に着いていきなりリハーサルというのも、私の気分的にかないませんので、一日早く(17日)札幌入りすることにしました。 そして、例によってなるべくなら飛行機など使いたくない人間ですので、明日(16日)の夕方に発って、夜行列車で行くことにしました。 「北斗星」や「カシオペア」ではありません。「カシオペア」はそもそも運転日ではありませんでした。「北斗星」は今春のダイヤ改正で定期列車としては廃止されましたが、「カシオペア」が運転しない日を中心に不定期列車として残っています。16日発の列車もあったのでそれを最初は狙いました。 ところが、なんということか、発売日である1ヶ月前の、発売時間である10時に駅の窓口へ行ったところが、まったく入手できなかったのです。実は私はわずかに出遅れ、3番目に並んでいました。窓口はふたつです。最初のふたりは10時の5分ほど前に窓口に呼ばれ、指定券以外の情報はMARSに全部入力されて、あとはボタンひとつでOKという状態で10時を待っていました。その片方が、私と同じく「北斗星」を狙っていたようでした。 時計が10時を告げると共に、ふたりの駅員はボタンを押しました。 しかし、「北斗星」は本当に瞬時に売り切れてしまったらしく、その人すら入手できなかったようでした。 私は「北斗星」には何度も乗ったことがあり、それほど入手しづらかったということもありません。しかし、不定期列車となり、しかも夏休み開始の連休前という条件では、希望者が各駅に殺到していたのも無理はなかったのでした。 今回はマダムも同行するというので、二人用個室、一人用個室を2室、開放寝台と次々調べて貰いましたが、すべて売り切れです。 瞬時の売り切れに驚きはしましたが、実はそういうこともあろうかと、もうひとつの申込書を用意していました。夕方の「はやぶさ」から夜行急行「はまなす」に乗り継ぐというルートです。「はまなす」は夜行の激減、急行の消滅寸前という現況にあって意外としぶとく、「北斗星」と「トワイライトエクスプレス」が定期列車から消えた今春のダイヤ改正でも、最後の急行列車として生き残りました。ただし、運休になる日は増えています。 前回行ったときも、同じ乗り継ぎでした。そのときは新幹線は「はやて」で、しかも震災後だったためにやや間引き・低速運転をしていましたが。 「はまなす」では寝台券を確保しました。「北斗星」の売り切れの速さから、「はまなす」も危ないかと思ったのですが、「北斗星」の券を買えなかった衝撃から即座に立ち直って次のプランを検討できた人はそう多くなかったらしく、「はまなす」の寝台券はいとも簡単に入手できたのでした。もっとも「はまなす」は寝台だけでなく、カーペットカー(ごろ寝席)やドリームカー(ハイリクライニング席)などが連結されていて、むしろそちらを狙う人のほうが多かったのかもしれません。私も単独行なら寝台までは取らなかったでしょう。マダムのために奮発した観があります。 実はマダムと結婚して今年で10年を迎えます。札幌での演奏会を済ませてしまうと、そのあと案外時間がとれたため、少し長めに旅程をとって、10周年の記念旅行ということにしようとも考えたのでした。 「北斗星」がとれなかったため、逆に札幌到着が早朝となり(「北斗星」だと昼近くなります)、17日がまるまる空いてしまったので、夕張を訪ねてこようと考えました。夕張というところには、はじめてひとりで旅行をした高校1年のとき以来足を向けていません。しかもそのときは乗り潰し優先だったので、夕張駅に着くや、そのまま折り返しの列車で戻ってきました。だから夕張の街のことは何も知らないのでした。巨大な炭鉱町としての栄光の歴史、エネルギーシフトによる斜陽化、すっかり寂れた街並み、観光に見いだした活路、しかしながら投資に失敗して破綻した財政などなど、知識としてはいろいろ蓄えてきましたが、機会があれば街を歩いてみたいと思っていました。 翌18日がリハーサル、19日が演奏会です。演奏会には札幌在住のおじおばたちがこぞって聴きに来てくれるらしく、その謝恩の意味も込めて、20日の昼に親戚一同で会食することにしました。会食のあとで札幌を発ち、いろいろ立ち寄りながら24日(金)の朝に帰ってくるという行程を立てました。仕事がらみとはいえ、前後8泊に及ぶ、なかなか大がかりな旅行になりました。 (2015.7.15.) |