東日本大震災から1年が過ぎました。 なんだかあっという間だった気がします。去年の3月11日のことは、昨日のことのように憶えています。 14時46分、私はマダムと一緒に買い物に出かけようとしているところでした。 急に小刻みに揺れ始め、すぐに大きな揺れがはじまりました。 揺れの大きさもさることながら、なかなかおさまらなかいのが不安でした。棚の上に積んである雑誌が音を立てて落ちました。今まで、震度4くらいの地震ではそんなことはありませんでしたので、これは容易ならぬ大地震だと思いました。 幸い、私の家ではそれ以上のことは起きませんでした。ガラスも食器も割れず、本棚が倒れることもありませんでした。 あとから考えると、この地震は日本列島の東側のプレート境界が壊れたために起こったものなので、S波、つまり振動の大きな横揺れは南北方向に向いていたはずです。私の家の家具は南北に沿って置いてあるものが多かったので、揺れは家具に対して横方向に働いたわけです。これが前後に揺れていたら、食器棚から皿や茶碗がガラス戸を突き破って飛び出してきた可能性がありました。まったく幸運であったとしか言いようがありません。今度南側から大地震が来たら、横揺れが東西方向になるので、危ないのではないかと思います。 ともあれテレビをつけて様子を知ろうとしました。どこの局も大変な騒ぎになっています。震源が三陸沖であることはすぐにわかりましたが、私の住んでいるあたりがどのくらいの震度であったかはなかなか出ませんでした。 やがて、埼玉県南部で震度6弱を記録したことがわかりました。ただしそれは測定地点一箇所だけで、周囲は全部5強になっていました。たぶん5強というのが正しいところだったのでしょう。5にしろ6にしろ、私が今まで経験したことのない揺れであったことは間違いありません。私だけでなく、私より30年近く長く生きている私の父も経験したことはなかったようです。
宮城県あたりでは6強とか7とかの揺れがあったようでしたが、意外と倒壊した建物が少なそうだという印象を受けました。人死にもそう多くない雰囲気を感じたのですが、そこへ、巨大津波が襲いかかったのでした。
14時46分という時間帯からして、火を使っているところは少なく、火災はあまり起きなかったようです。揺れにも、火にもけっこう耐えたのですが、水にはひとたまりもありませんでした。この震災で、死者と行方不明者を合わせておよそ2万人の被害が出ましたが、8割がた、あるいはそれ以上は津波によるものではないかと思います。
それでも、揺れてから津波の到来までかなりのタイムラグがあったので、だいぶ避難できたということを、この前気仙沼に行った時に聞きました。これが夜中だったり、あるいはタイムラグが無かったりしたら、被害ははるかに大きなものになったでしょう。逆に時間があったために迷いが出て、生徒に避難させるのが遅れて大きな被害を受けた小学校などもあったようですが、とにかく2万人で「済んだ」ことに感謝すべきなのかもしれません。他の国だったら10万人単位の被害が出ていた可能性があります。
気仙沼でも、津波で石油タンクが壊れて中身が流出したところに引火して、3日3晩燃え続けるという騒ぎがありましたが、それよりも深刻だったのは福島の原子力発電所です。ここも、揺れには耐えたようですが、津波のために大変なことになりました。それ自体は不可抗力とも言えますが、こちらは対応の手を誤ったために被害が大きくなったという、人災の面がかなりあるように思えます。
ともあれ、あとになって様子がわかるにつれ、「震災」というよりも「津災(しんさい)」というべきではあるまいかという気持ちが強くなりました。地震そのものについては、日本の耐震技術は卓越したものであったことが証明されたと思います。しかし千年に一度の大津波には、ほとんどなすすべがありませんでした。
去年の当日は、テレビでの報道もおおむね繰り返しになってから、予定通りマダムと買い物に出かけました。近くの小学校では校庭に子供たちや保護者たちが集まっていました。買い物に行った店は閉まっていました。
商店街の店の多くも閉じており、2軒ほど壁が落ちているところがありました。落ちた時に人に当たらなくて何よりでした。
交通機関も停まっていて、その日は出先から帰れなかったり、何時間も歩いてようやく家にたどり着いたというような話を聞くにつれ、マダムと一緒に居た時で良かったと思わざるを得ませんでした。
実家では、父は散髪に出かけており、母は旅行から帰ってきたばかりで昼寝をしていたところだったようです。床屋は近くではなく、電車に何駅か乗って行くところだったのですが、父は平気で歩いて帰ってきたそうです。
そうかと思うと、ある知人は、歩けば1時間半くらいで帰れたところで仕事をしていたのに、同僚がクルマで送ってくれるというので同乗したら、大渋滞で4時間近くかかってしまったと言います。どうもそういう場合、
「あ〜、やっぱり私、歩くことにするわ」
と下りてしまうのはしのびないようで。
金曜日だったのでChorus STの練習が入っていたのですが、もちろん中止でした。メンバーの中にも、職場に泊まったり、何時間も歩いて帰ったという人が少なくなかったようです。
同じ地域なのに、揺れでけっこういろんなものが壊れたりした家もあったようです。やはり揺れの方向というのは重要なのかもしれません。
少し前の高層マンションなどでは、耐震構造が今と違っていて、「先に揺らしてしまうことで全体が倒壊することを防ぐ」という発想になっていたようなので、建物自体は無事でも高層階などでは揺れはかえって大きかったりしたらしい。10階くらいに住んでいた知人のところでは、家具には全部転倒防止の突っ張り棒をつけていたにもかかわらず、揺れが大きすぎて、その突っ張り棒のところで天井が破れてしまったと聞きました。想定外の大きさだったということでしょう。
翌週の月曜から、輪番停電がはじまりました。これも発表が遅れた上に説明が不充分で、あちこちてんやわんやの騒ぎになっていたことと記憶しています。私の住んでいる川口市など、5つの輪番地域のうち4つまで(のちに3つ)名を連ねているので、
「ずっと電気が来ないことになるのか?」
と心配する人がたくさん居たようです。もちろん、町や字単位で区切られていただけのことで、それぞれの地点では3時間ずつの停電です。
みんなの節電が功を奏して、実際に停電になったのは意外と少なくて済みましたが、回避されるかどうかは直前までわからないので、予定が立てられなくて困りました。私の住んでいるところでは、夜の停電が2回ありました。灯りの消えた街を眺めて、都会の夜は明るすぎる、たまにはこういうのも良いんじゃないか、などと思いました。
被災地での人々の規律正しさには世界中が驚きましたが、輪番停電を受け容れてそれほど騒ぎにもならなかった首都圏の人々も、称賛に価するのではないでしょうか。節電の努力も涙ぐましいものがありました。
そして人々のそういう自制心が発揮されるにつれて、政治家や役人の右往左往ぶりも浮き彫りになってきたような気がします。首相であった菅直人氏が、事態の収拾にリーダーシップを見せるどころか、現場の邪魔ばかりしていたことがだんだんと明らかになりましたし、せっかく全世界から集まった義捐金や支援物資が、滞留するばかりでさっぱり現地に届かないという醜態もさらされました。先日気仙沼で話を聞いた佐藤輝子市議の見事な宰領能力を思うと、国というレベルでの政治家の質の低さに溜息が出る想いです。
私個人としては、物理的な意味での被害は無かったのですが、いくつかの仕事がキャンセルになり、そのぶん収入が減ってしまったという二次か三次の被害はこうむりました。
あの当初は、さまざまなイベントごとが中止になりました。派手なことを自粛したという点もあるでしょうが、余震があいついでいて、人をたくさん集めることへのおそれもあったものと思います。何かあったら責任を持てない、と怖じ気づく向きが、特にお役所主導の催しには多かったようです。
それでも頑張って開催したイベントもありましたが、蓋を開けてみると、実際にはいつもよりお客が多かったくらいであったという話も聞きました。ああいう時だからこそ、むしろ音楽などを聴いて癒されたいという人が少なからず居たのでしょう。テレビがどの局をつけても同じようなことばかりやっていたので退屈していた人も居たでしょうし、他の用事がキャンセルになってしまって暇だった人も居たのだと思います。
娯楽を歓迎する人もおり、それを不謹慎だとなじる人もおり、考えかたは人さまざまでした。被災者の身になって考えようとしても、現実にどう行動すべきかの判断はなかなか難しいものがあります。自分なりにできることをしてゆくしか仕方のないことかもしれません。
日を追うに従って、被害の全容が徐々に明らかになってゆきましたが、人々の関心が、原発事故による放射能汚染のほうにシフトして行ったのは、やむを得ないこととはいえ、そのせいで仮設住宅の建設なども遅れたのだとすれば申し訳のない話です。
放射能汚染のほうは、最初の段階で情報を隠したりしていたため、疑心暗鬼を呼んで不安が高まりました。どのあたりまでが危ないのかすらわからない、というのが実に頼りない限りで、震災の瓦礫の受け入れを一部の市民団体が拒否したりしているのも、イメージとして東北全域が汚染されているような気がしてしまうからでしょう。青森の雪を沖縄に運んで子供たちに愉しんで貰おうという恒例のイベントまでが中止になったという報道には、正直言って唖然としました。原発のあるあたりからだと、青森よりは東京のほうがよほど近いのに。
瓦礫はまだ数パーセントしか処理できていないそうです。いつになったら終わるものなのか、先は見えていません。放射能の不安がなければ、もう少し進展していたかもしれませんが。
あれから1年が経ちましたが、気仙沼を実際に訪れた感触から言っても、まだまだひと区切りですらつけられない状況であるように思えます。復興は10年計画くらいでしなければならなさそうですし、そもそもの発想を転換したほうが良いのではないかと思えるところもあります。
大正12年の関東大震災のおり、復興院総裁となった後藤新平は、この期に東京市内を一挙に近代化しようと図りました。予算が足りなくて後藤の構想はほんの一部しか実現しませんでしたが、それでも銀座通りなどがその遺産として残っています。大風呂敷と言われた後藤でしたが、とにかくその風呂敷を拡げることで人々に希望を与えたことは否めません。今回の復興も、大風呂敷でもいいから、何か夢のある未来を語ってくれる政治家が居ないものでしょうか。
今日は川口第九を歌う会の仕事がありました。そういえば去年、地震の2日後にも練習があって、たまたまローテーションが私の番でした。出席率はむしろいつもより良かったように記憶しています。
今日の練習前には、みんなで黙祷を捧げました。14時46分は歌っている最中と思われたので、その前に黙祷したのですが、その時間になると街頭放送が流れたので、もう一度だけおこないました。自分は何を祈っているのだろうか、とふと思いました。亡くなったかたがたの冥福を祈るというのも、何か白々しい気がしてしまいます。強いて言えば、生き残った人たちが、生きていて良かったと本心から言える世の中になって欲しいと祈るばかりです。
(2012.3.11.) |