忘れ得ぬことどもII

気仙沼ボランティアコンサート

I

 2012年3月5日・6日と、気仙沼に行って参りました。
 気仙沼はもちろん、2011年の東日本大震災で、石巻陸前高田と共に壊滅的被害を受けた町ですが、川口市に、ゆかりがあって気仙沼の復興支援をおこなっているグループがあり、その中の何人かが「川口第九を歌う会」のメンバーでもあります。今回の気仙沼行きは、そこからの話なのでした。
 最初、第九を歌う会で指導をしている声楽家の藤井あやに声が掛かって、現地の中学校でミニコンサートをおこなって貰えまいかと打診されたのでした。ボランティア活動の一環ですので、ギャラは出ないけれど、旅費は出すからという話でした。藤井さんは快く承諾したようです。
 ただし歌い手ひとりだけではコンサートはできません。少なくともピアノ伴奏者がひとり必要になります。
 企画段階では、その学校の音楽の先生に伴奏をして貰うつもりだったようです。音楽の先生なら歌の伴奏くらいできるだろう……と考えるのは素人さんの陥りやすい錯覚で、音楽の先生とは言っても専攻はいろいろです。管楽器の人も居れば声楽の人もおり、単に「音楽教育」が専攻だった人も居ます。必ずしもピアノが得意でない場合もけっこう多いのです。
 またたとえピアノがそこそこ弾ける先生だったとしても、プロの演奏者の伴奏というのはまた違った仕事であって、お互いの信頼感みたいなものができていないとやれることではありません。もしその学校の音楽の先生に伴奏を頼むのであれば、何週間か前から、少なくとも3、4回にわたってリハーサルを持ち、意思の疎通を充分にした上で本番に臨む必要があります。ぶっつけ本番とか、前日にちょっと合わせて……程度では、責任のある演奏はできないと考えるのが当然で、藤井さんもそこは不可としました。
 伴奏者を連れてゆくとなると、旅費がもうひとりぶんかかるわけで、ボランティア団体としては悩ましいところだったとは思いますが、その点は譲るわけにはゆきません。
 で、私に話がまわってきました。藤井さんと私は大学の同期であり、学生時代から伴奏もずっとしてきましたので気心は知れていますし、何より第九を歌う会の関係者なので、世話役の人も気が楽だろうという判断だったのでしょう。
 私としても復興支援のため何かしたいという気持ちがありました。カワイ出版の被災者応援プロジェクトでボランティア合唱曲を書いたりしましたが、はたしてどの程度被災者の役に立っているものだろうかと心許ない状態でした。気持ちは大いにあるものの、お金が無いため手弁当で現地に駆けつけて何かするということもできず、心苦しく思っていました。
 旅費が出るということであれば、躊躇することはありません。日程も空いていましたし、マダムに相談すると行ってらっしゃいということでもありましたので、すぐにOKした次第です。

 それで開催は決まったものの、実現までには少々ごたごたしたようです。大きな要因は、間に立った世話役の人が、善意はあふれるほどあるのですが、少々それが先走ってしまい、学校側およびわれわれ演奏者側に対しての事務的な意思疎通が不充分であったということのようです。早い話が、学校側も演奏者側も「受け身」の態勢になってしまっていたため、話がちっとも進まないという事態になっていたのでした。藤井さんがしびれを切らして直接向こうの校長先生に電話をかけて、ようやく具体的に動き始めました。
 こういう話は、今回のことに限らずよくありそうです。善意だけではものごとというのは進まないのであって、その善意を事務化する能力のある人が間に立たないと、ボランティアで作業しに行ったのに実際はただ邪魔しただけだった、なんてことになりかねません。
 まあ私が苦労したわけではなかったので、そう大きな口を叩く資格はないかもしれません。私としては、いちど曲目などを打ち合わせ、いちどリハーサルをおこない、そして5日の昼の新幹線で東北へ向かったという、それだけのことでした。

 新幹線を一ノ関で下り、そこから気仙沼まではタクシーを使います。予定表を貰った時、「タクシー」とあるのを見て目を疑いました。一ノ関から気仙沼までは直線距離でも40キロくらいあり、途中北上山地を突っ切るため道は曲がりくねって、道路距離は60キロ近くなります。運賃は大変なことになるはずで、ボランティア活動だというのになんと無駄なことをするのだろうと思ったものでした。
 同区間はJR大船渡線もありますし、岩手県交通の特急バスも走っています。大船渡線は津波にやられて海沿いの区間はまだ不通のままですが、気仙沼まではちゃんと通じています。予定表にあった到着時刻よりも20分ほど遅くはなりますが、運賃は1110円で、藤井さんと私、世話役がふたりの一行4人分であっても、タクシーに乗るよりは何分の一かの経費で済むはずです。バスはさらに安くて1050円でしたが、こちらはちょうど良い時間の便が無いようでした。
 新幹線の中で、世話役の人に言ってやろうかと思い、時刻や運賃のデータを調べたメモを持って行ったのですが、それを言い出す前に、
 「一ノ関駅までクルマが迎えに来てくれているはずですので」
 と言われました。すでに予約してあるのであれば、もう仕方がありません。それにしても無駄金を使うものだと、まだ私は納得できない気分でした。
 しかし、一ノ関駅で待っていたのは、一ノ関のタクシーではなく、気仙沼のタクシーでしたので、思い直しました。どうやら、気仙沼にあえてお金を落とそうとしているらしいと気がついたのです。世話役の人たちはすでに何度も現地に足を運んでいるようでしたが、その都度このタクシー会社を使っているふしがありました。
 被災地にお金を落とすことも支援のひとつと心得ているのなら、もはや言うことはありません。また、けっこう財政的に余裕のあるボランティア団体らしいとわかったので、旅費を出して貰ったことにさほどの引け目を感じなくても良さそうな気がしてきました。
 5日はずっと雨が降り通しでした。気仙沼地方は、朝は雪が降ったようですが、午前中に雨に変わったそうです。どのくらい寒いのかよくわからなかったので、とりあえず冬のあいだ着ていたセーターを着て出てきましたが、まあ妥当でした。ただ何日か前に零下15度くらいまで下がったことがあったそうで、そんな日にぶつからなかったのは幸運だったと言えるでしょう。
 雨を衝いて走ったタクシーは、1時間ちょっとで気仙沼駅前のホテルに着きました。ホテルの部屋もなかなか取れなかったそうです。文字通り駅前で、駅のロータリーを抜けて道路に出るとその真正面にあるというロケーションでした。
 チェックインして荷物などを置き、すぐに学校に向かいます。先ほどのタクシーが待っていてくれました。学校までは5キロばかりあって、ここはクルマでないと移動できません。

 面瀬(おもせ)中学校というのが今回ミニコンサートを開催する中学校です。5日は校長先生などへの挨拶と、ひととおり会場リハをすることになっていました。
 学校の玄関前でタクシーを下りると、すぐ眼下に仮設住宅の群れが見えました。そこは本来校庭だったのですが、仮設住宅用地として提供しているのでした。ざっと数えただけでも十何棟かあったようです。次の日明るい時に数えてみたら、17棟と、あと集会所として使われている1棟が建ち並んでいました。1棟あたり9戸が並んだ長屋状になっています。全部埋まっているかどうかわかりませんが、たぶん150世帯ほどの家族が、住む家を失ってまだここに暮らしているわけです。
 当の校長先生も、津波で家を流されたひとりだったそうです。今回いろいろな人に話を聞きましたが、やはり地震の揺れで倒壊した家屋というのはほとんど無く、大半は津波でやられたとのことでした。あと唐桑(からくわ)半島側で石油タンクが津波で壊れ、流れ出した油に引火して3日間くらい燃え続け、その火災で焼け出された人も居たようです。とにかく、建物の耐震性に関しては、日本は充分自信を持って良いように思います。
 校長先生は、今回の世話役の人たちに招かれて、前年末の「第九」演奏会の時川口に来られていたそうで、だから藤井さんとはその時会っていました。私は本番の日には失礼していたので初対面です。小野寺さんという名前ですが、この地方には小野寺姓がやたらと多いようです。石巻の隣の登米(とめorとよま)を領していた武将に小野寺氏があり、その一族が一帯に拡がったのでしょう。登米出身の石ノ森章太郎氏の本名も小野寺です。
 ひとまずご挨拶してから、会場の体育館に行きました。もともとは、校長室からほど近い小講堂のような部屋でミニコンサートをおこなう予定だったのですが、学校でインフルエンザが流行ってしまい、山は越したものの、3年生の受験などがこれからなので、狭い部屋に生徒たちを押し込めることを遠慮したとのことです。また、プログラムの最後で、生徒たちが卒業式の時に歌う合唱曲を、軽く合唱指導を交えて一緒に歌うという予定にしていたのですが、そんなわけで生徒がみんなマスクをかけて来ることになったため、それもカットすることにしました。
 その代わり、と言って良いのかどうかわかりませんが、小野寺校長が趣味でフルートを吹く人であることが雑談の中で判明し、急遽特別出演していただくことになりました。実はプログラムの中の「いつも何度でも」「千と千尋の神隠し」主題曲)を、この前あるところのコンサートで使った譜面で演奏することにしていたのですが、これはフルート付きの形で私がアレンジしたものです。フルートパートも多少交えながらピアノだけで伴奏するつもりだったのですが、校長先生がフルートを吹くのなら好都合です。譜面はあるし、フルートパートは決して難しくないし、それにプログラム順的にも、そろそろ歌とピアノだけという演奏に飽きてくるかなと思われるあたりで、生徒たちには絶好のサプライズとなるに違いありません。小野寺校長は最初口では「とんでもない」みたいなことを言っていましたが、満更でもなかったようで、じきに校長室のロッカーから楽器を取り出してきました。
 体育館はさすがにしんしんと冷え込んでいました。舞台上に2台のストーブが置かれていましたが、それでも寒く、手がかじかむようでしたが、とにかく全曲を流してみました。校長先生の参加する「いつも何度でも」だけは、当然ながら何回か繰り返して合わせました。
 本番の時には「ジェットヒーター」で暖めるとのことでした。ジェットヒーターなるものを知らなかったので何かと思いました。
 体育館は、200人程度の生徒しか居ない中学校のそれにしてはずいぶんと広く、暖めるのも容易でないのではないでしょうか。しかし震災当時はこの広さが役に立ったようで、避難所として最大800人くらいを収容していたそうです。200人の生徒には広くても、800人の避難民を収容するにはいささか心許なく、さぞや足の踏み場も無かったろうと想像されました。

 リハーサルを終えてから、小野寺校長と共に近くの寿司屋へ行きました。校長先生の元の家のすぐ近くにあったそうで、当然その店も津波で流されてしまい、高台に移ってようやく営業再開できたそうです。ボランティア団体の世話役は、気仙沼を訪れるたびにこの店で食事をしているらしく、いちど同行してきた岡村川口市長も来たことがあるとか。
 港町ですから、漁船などの被害も大きかったにせよ、刺身も寿司も大変新鮮で美味でした。ここだけの珍味として、モウカザメの心臓の刺身が出ました。最初は焼き肉屋でよく見るロース肉みたいに見えて、何かと思いました。モウカザメ(毛鹿鮫)は正式和名をネズミザメという大型のサメで、気仙沼あたりで水揚げが多く、私の家の近くのスーパーマーケットなどにも時々切り身が出回っています。サメの水揚げが多いため、フカヒレもここの特産となっており、横浜の中華街あたりからもよく買い付けに来るとか。ホテルでもレトルトのフカヒレスープを売っていました。
 サメがよく獲れることは知っていましたが、心臓を刺身で食べるとは知りませんでした。地元では「モウカの星」と呼ぶそうです。太い血管が何本もつながっているので星状に見えるのかも知れません。ネズミザメの仲間は魚類には珍しく恒温動物で、体温を海水の温度より高く保つための特殊な筋肉と循環系を持っています。だから心臓のパワーも強力なものがあるのかもしれません。
 はじめて聞くとぎょっとしますが、食べてみると馬刺しに近い食感で、なまぐさみも癖も無く大変おいしくいただきました。酢味噌をつけて食べるのが標準的であるようですが、試しに普通に醤油をつけて食べてみたところ、それも大いにアリだと思いました。
 あと、フカヒレの握りも供されましたし、茶碗蒸しにもフカヒレが入っていました。
 寿司屋には市議の佐藤輝子さんも駆けつけました。世話役の人たちとは旧知であったようですし、小野寺校長と一緒に第九の本番を聴きに来ていたそうです。ちなみに佐藤という姓もこのあたりはむやみと多く、面瀬中学校の教頭も佐藤先生だし、先代・先々代の校長も佐藤と言ったようです。戦国時代、いわき周辺を支配していた相馬氏の与力武将に佐藤氏がおり、為信の代に伊達氏に鞍替えしたようなので、その子孫がこのあたりに知行を貰って繁栄したのかもしれません。
 佐藤市議は議員生活の長い人だけあって話し好きで、あんまり食べもせずにずっとしゃべくりまくっていましたが、震災当時の地元の人々の様子がよくわかり、聞いていて学ぶことがいろいろとありました。
 この震災に際して、被災地で一件の掠奪も起きず(壊れた無人の店などからの窃盗は少なからずあったようですが)、被災者が非常に規律のとれた行動をおこなっていることが世界を驚かせましたが、最初の頃はやはりいろいろ揉めてはいたようです。まあ、配給の食事を受け取る順番をごまかしたとかその程度ではありますが、そういう時にこの佐藤市議などがかなり強い調子で人々を叱責したらしく、そのおかげでだんだんとみんなの気持ちがひとつになってきたのでしょう。
 食べるものが無くて困ったのは最初の2日間くらいで、あとはほうぼうから支援物資が届き始めて、少なくとも食糧に困ることはなかったそうです。むしろ自宅に居るより良い物を食べていたとかいう話も聞きました。冷凍庫が使えなくなった水産加工工場から、大トロの大きなサクが届き、刺身で食べたかったところではあるけれども食中毒をおもんぱかって味噌汁にしてみんなで食べたなどという、うらやましいような話さえあったようで。
 地震が金曜日だったので、週末に予定されていた結婚式が全部キャンセルとなり、結婚式場から引き出物にする予定だったケーキやバウムクーヘンなどが大量に届いたこともあったらしい。
 それにしても被災者の人数は半端なものではなかったわけで、それらの支援物資を行き渡らせるためには、佐藤市議らの分配能力と決断力が大いにものを言ったことは間違いありません。
 政治家の本分は、決断と分配にあると私は考えています。政治家のトップである「宰相」の宰の字は、祭祀用の肉を切り分けるというのが本来の意味です。ウかんむりの下の「辛」は肉切り包丁の形状にほかなりません。決断力と分配能力の無い者には、政治家の資格はありません。国の政治家のていたらくを見ていると絶望したくなりますが、市町村レベルの政治家がしっかりしていたから良かったのだと、あらためて思いました。ちなみに、市役所の職員などは、上記のようなルール破りをする者が居ても、あまり強く言えないところがあったようです。政治家と役人の差でしょう。

 寿司屋は休業日だったのをわざわざ開けてくれたとのことでした。市議の話に耳を傾けているうちにだいぶ時間が経ち、またタクシーを呼んで宿に帰ると、もう21時くらいになっていました。ちなみにそのタクシーの運ちゃんも、津波で家を流されたひとりだったそうで、今は2間のアパートに3世代6人が住んでおり、そろそろ中古の家でも見つけて移りたいと言っていました。
 先ほど一ノ関駅から宿を経て学校まで運んでくれたタクシーとは別だったせいか、通る道も違って、気仙沼の市街地を通り抜けて帰りました。駅前あたりはなんともさびれた雰囲気がありましたが、市街地はだいぶ離れていて、そこはけっこうネオンも点って賑やかそうな通りになっていました。
 一旦宿に帰ってから、私はひとりで傘をさしてその辺を散歩してみましたが、駅前通りは本当に寝静まってしまった感じで(少し横丁に入ると飲み屋やスナックが若干開いているようではありましたが)、600〜700メートル歩いて少し大きな交差点に出るとようやくコンビニが一軒開いていたため、飲み物などを買って引き返しました。

(2012.3.7.)

II

 

 3月6日の朝は、まだ地面は濡れていたものの、空はだいぶ明るい感じになっていました。前日は一日中雨に祟られましたが、そろそろ上がりそうです。
 屋外の催しではないし、雨が降ると客足が鈍るというものでもないので、降っても構わないと言えば構わないのですが、前日のリハーサルの時、体育館の屋根に当たる雨音がけっこう響きました。大降りになっていると少々音が邪魔かもしれません。晴れかかっていて良かったと思います。
 ミニコンサートは学校の3時間目にあたる時間帯におこなう予定でしたが、学校の都合で4時間目になりました。1〜2時間目に体育館で卒業式の予行演習をしていて、セッティングなどが間に合わないからです。当初は別の場所でやることになっていたので3時間目で良かったのですが、上に書いた通り、インフルエンザの流行のため、広いところでやらなければならなくなったのでこうなりました。
 ちなみに小講堂のほうも前日に見せて貰ったのですが、ステンドグラスなどが飾られてなかなかしゃれた部屋でした。ただ置いてあるピアノがアップライトで、しかもシュタインベルクスタインウェイではない)というあまり聞かないメーカーのものでした。かなり古い楽器らしく、調律はしてあるのですが、ピアノフォルテ(18世紀頃の初期型のピアノ)みたいな独特の音色です。モーツァルトなどを弾く時はぴったりなのですが、今回の伴奏には向いていないようでした。だから演奏側としては、体育館になって好都合だったと言えましょう。
 ともあれ時間が予定より少し遅くなったので、チェックアウトもゆっくりできることになりました。

 一応10時10分にロビーで集合ということに前日決めておきました。私はロビーに陳列してあったレトルトのフカヒレスープを買いたかったので、20分ばかり早めに下りてゆきましたが、迎えのタクシーはもう到着していました。世話役の人も、ひとりはすでにロビーに居て、もうひとりも間もなく下りてきました。あと藤井あやが来れば出発できるわけです。しかし、彼女は集合が10時10分ということになれば決して10時10分までは下りてこないだろうと私は予想しました。付き合いが長いのでそのくらいは見当がつきます。
 案の定、ぴったり10時10分に藤井さんがロビーに現れました。世話役の人たちもじりじりしていた感じでしたが、遅刻したわけではないので文句も言えません。
 彼女は完全に夜型人間であって、ホテルの朝食が6時半から8時半までと聞いた時に、
 「うわ、無理かも」
 と即座に言っていたものです。私は7時半くらいに食堂に食べに行きましたが、藤井さんはやっぱり食べはぐったようで、フロントの傍らで売っているアイスクリームを朝食代わりに買っていました。
 タクシーで走り始めると、前日には気がつかなかった海岸が見える箇所がありました。前日はだいぶガスが濃くて、視界が悪かったのです。海岸には、やはりまだ瓦礫がだいぶ残っていました。世話役の人は何度か訪れているわけですが、去年の5月くらいに来た時からあんまり片づいていないそうです。他の土地で瓦礫を引き受けないとどうしようもないのであって、反対している「市民団体」とやらは一体なんなのだろうかと思います。福島のことはともかく、この辺の瓦礫に放射能などあるべくもないのですが。
 学校に着いて、校長室からも海がよく見えました。これも前日はガスが濃くて気がつきませんでした。
 「以前はもっと樹があって、こんなに見えなかったんですけどねえ」
 と小野寺校長が言いました。
 「ここから見える、あの辺にうちがあったんですよ」
 前夜の寿司屋もその斜向かいくらいにあったようで、指されたあたりの地区は津波で本当に壊滅状態だったそうです。あとで写真集を見せて貰いましたが、傾いた家がひとつ写っており、この家だけ流されなかったのかと思ったら、よそから流れ着いてきた家だったとか。
 つくづく、津波はおそろしいものだと実感します。こんなのを見ると、

 ──400年に一度の災害を防ぐための堤防など、無駄です。

 と言い切った蓮舫氏の言葉が、まったく恨めしく想起されます。

 体育館に行ってみると、直径50センチくらいの筒の中で、炎が勢いよく踊っていました。これがジェットヒーターというもののようです。ストーブとファンを組み合わせた装置で、はじめて目にしました。ごうごうと音を立てて燃えさかっており、確かに広い体育館がこのおかげでだいぶ暖まっているのを感じました。もっとも、気温そのものも、前日よりはだいぶ上がっているようでした。
 校長先生のフルートを交えて、「いつも何度でも」の合わせだけおこないました。校長先生は昨夜フルートを家に持ち帰り、練習したようで、だいぶ合わせがこなれてきていました。
 藤井さんは
 「今はこれ以上は歌えないから」
 と言って、着替えに行ってしまいましたので、私はピアノの危ないところをひとりで練習していました。そのうち生徒が来る頃になったので、舞台袖にひっこみ、そこで着替えをしました。着替えと言っても、タキシードのズボンとシャツは宿を出る時にすでに身につけてきていたので、腹バンドを締め、ブラックタイを締め、上衣に袖を通せば出来上がりです。
 そうこうしている間に、生徒たちが体育館に入ってきました。全校で200人くらいだそうです。私の通っていた中学校も小規模でしたが、それでも360人くらいは居ましたから、200人とはずいぶん少ない気がします。
 開演が近づくと、大きな音を立てていたジェットヒーターは止められました。館内はちょうどよい温度になっていましたし、子供たちが入るとけっこう温度が上がったりします。
 司会の先生が話し始めました。生徒たちがざわついていたので、他の先生が
 「おらぁ! ちゃんと話を聞け!」
 とドスの利いた声で怒鳴っていましたが、ざわついていたと言ってもそんなにうるさいほどではなかったと思います。
 11時45分頃、面瀬中学校ミニコンサートは始まりました。

 最初は、「面瀬賛歌」という歌から始めました。タイトルでわかる通り、この学校のオリジナルソングです。卒業生か誰かが作ったのかと思いましたが、去年近所の人が作ってくれた歌だそうです。避難所としてこの体育館を使った人だったのかもしれません。合唱用の譜面を、あらかじめファックスで送って貰ってあったのでした。中学生向けのクラス合唱などによくあるタイプの曲でしたが、よく書けていると思います。オリジナルソングとして歌い継いでいって貰いたいものです。
 続いてヘンデルのアリア「Lascia ch'io pianga(私を泣かせて)モーツァルトのアリア「Voi che sapete(恋とはどんなものだろう)メンデルスゾーン「歌の翼」と、まあポピュラークラシックとでも言うべき歌を続け、それから日本歌曲をふたつ。
 「荒城の月」「早春賦」ですが、どちらも中学生向けの教科書に載っていたそうです。また「荒城の月」の荒城は、作詩者の土井晩翠としては仙台青葉城のつもりだったそうで、城址公園には詩碑もあります。ちなみに作曲者の瀧廉太郎は自分の故郷の豊後竹田城をイメージしたようです。
 次にお馴染み「アメイジング・グレイス」で、これはワンコーラスを藤井さんの無伴奏独唱で歌い、2番で軽くピアノ伴奏をつけ、3番はインストゥルメンタルとしてピアノだけで盛り上げ、4番で半音上げてまた歌と一緒になって終わるという構成で演奏しました。この曲に関しては私は楽譜を用意せず、即興で弾きました。
 その次が「いつも何度でも」で、校長先生が登場します。生徒たちが爆笑するかと思いきや、意外と静かだったので少し拍子抜けしましたが、コンサート中に笑ったりしてはいけないと言われていたのかもしれません。一体に、とても行儀の良い生徒たちであったと思います。
 そのあと、私の「バガテル」という曲を演奏しました。これは、私が個展をやった時に聴きに来ていた人が、

 ──「ノスタルジア」みたいな雰囲気で、ヴォカリーズの曲を書いて下さい。

 と委嘱してきたので、それに応えて書いた曲です。ヴォカリーズですので歌詞が無く、器楽曲みたいなものですが、そのせいかどうか、
 「あの曲だけちょっと異質な感じがしましたね」
 とあとで世話役の人に言われました。
 それから、オーストリア・ミュージカルである「モーツァルト!」という芝居から「Ich bin ich bin Musik(ぼくこそ音楽──ミュージック──)という曲を採り上げました。オーストリア・ミュージカルなど私もよく知らなかったのですが、この「モーツァルト!」の他「エリザベート」というのも知られているそうです。
 最後に「あすという日が」という歌を歌って終わりにしました。これはクラス合唱曲集の中の歌で、卒業式の時にみんなで合唱するそうです。もう一曲「旅立ちの日に」というのも歌うらしいのですが、こちらは藤井さんがひとりで歌うには低すぎたのでカットしました。前にも書きましたが、最後は生徒たちと一緒に、軽く合唱指導を交えて歌うという予定だったのが、インフルエンザ流行でダメになったのでした。
 とはいえ、時間的にはダメになってちょうど良かった感じです。「あすという日が」を歌い終えたら、12時40分くらいになっていました。それから生徒からのお礼の言葉やら花束贈呈があったりして、ほぼ1時間余りでまとめられました。

 生徒たちの反応はダイレクトにはわかりませんでしたが、とにかく最後まで愉しんで貰えたと思います。
 着替えたあと、校長室で給食をいただきました。カレーライスと、ワカメとツナのサラダ、りんごゼリー、牛乳というメニューで、われわれの頃よりもずいぶん美味しくなったような気がします。
 小野寺校長とはすっかり仲良くなって、別れがたい想いでしたが、あまり長居するわけにもゆきません。挨拶をして、すっかりお天気となった外へ出ました。
 しかしまだ用事は終わっていません。
 中学校の校庭に建ち並んだ仮設住宅の群れの中に入ってゆきました。
 近くで見ると、仮設住宅は想像していたのよりはしっかりした建物で、昔よくあったバラックの小屋みたいなものを考えていた私には意外でしたが、零下15度なんて寒さがあったと聞いては、やはりこのくらいしっかりしていないと、へたをすると死人が出るだろうと想ったりしました。
 9戸が並んだものが1棟になっていましたが、17棟ほど並んだ中に、ひとつだけちょっと小型の棟がありました。それが集会所でした。私たちはその集会所に入りました。
 世話役の人がちょっと挨拶するだけかと思ったら、何やら歌詞カードのようなものを仮設住宅の住民の皆さんに配り始め、

 ──どうしても気持ちが暗くなりますから、みんなが集まったらまず歌を歌いましょう。

 なんてことを言います。その場の勢いの赴くところ、なんだか藤井さんが歌わないと収まらない雰囲気になってきました。
 集会所には、2オクターブ半くらいを備えた小さなキーボードがあったので、それで私がいい加減に伴奏を弾き、「花」「故郷」そしてまた「早春賦」などを歌いました。
 平日の午後の話なので、集まっていたのもお年寄りが多かったのですが、ずいぶん喜んでくれました。最初は無茶振りするなあと思いましたが、やって良かったと思います。
 仮設住宅は2Kの間取りで、夫婦だけならまあまあですが、子供やお年寄りが一緒だと決して広くはありません。あくまでも仮の住まいですから、早く皆さんがここを出て新しい生活を始められればと念じます。

 またタクシーに乗って、一ノ関に戻ります。
 ただ、ちょっと中尊寺に立ち寄ることにしてありました。最近世界遺産になったことでもあるし、藤井さんがまだ行ったことが無いというのでスケジュールの中に入れてあったようです。もっとも、肝心の演奏会の事務作業がさっぱり進まないうちに、お帰りには中尊寺に寄りましょうなどと世話役の人が言い出したので、藤井さんは当初少々切れかかっていたりしたのですが……(笑)
 私は中学の修学旅行で中尊寺を訪ねているはずなのですが、記憶が曖昧です。もしかしたら修理中だったりして、毛越寺にしか行っていなかったかも知れません。まあはじめてのつもりで訪れようと思いました。
 しかし、全体の日程が押していたので、時間があまりありません。金色堂近くの駐車場に入ろうとすると、
 「5時までですから」
 と係員に念を押されました。もう16時半近くなっています。
 大急ぎで讃衡蔵(宝物館)と金色堂だけ見て戻りました。雪が残っていて、気をつけないと足許が滑りそうでした。
 一ノ関駅で、2日間運転してくれた大内ドライバーに別れを告げ、新幹線に乗りました。現地解散だったりしたら、もう一日くらいほっつき歩いてきたいところですが、行き帰りの指定席券も渡されていたので致しかたありません。
 ギャラこそありませんでしたが、往復の新幹線、2日間のタクシー、宿代、寿司代と、ずいぶんお金をかけて貰ったような気がします。そしてお金に換えられないような貴重な話を聞いたりもできました。やはり行って良かったと思います。

(2012.3.8.)

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