I
2012年の3月5日・6日と、気仙沼に行って参りました。
気仙沼はもちろん、2011年の東日本大震災で、石巻や陸前高田と共に壊滅的被害を受けた町ですが、川口市に、ゆかりがあって気仙沼の復興支援をおこなっているグループがあり、その中の何人かが「川口第九を歌う会」のメンバーでもあります。今回の気仙沼行きは、そこからの話なのでした。 最初、第九を歌う会で指導をしている声楽家の藤井あやに声が掛かって、現地の中学校でミニコンサートをおこなって貰えまいかと打診されたのでした。ボランティア活動の一環ですので、ギャラは出ないけれど、旅費は出すからという話でした。藤井さんは快く承諾したようです。 ただし歌い手ひとりだけではコンサートはできません。少なくともピアノ伴奏者がひとり必要になります。 企画段階では、その学校の音楽の先生に伴奏をして貰うつもりだったようです。音楽の先生なら歌の伴奏くらいできるだろう……と考えるのは素人さんの陥りやすい錯覚で、音楽の先生とは言っても専攻はいろいろです。管楽器の人も居れば声楽の人もおり、単に「音楽教育」が専攻だった人も居ます。必ずしもピアノが得意でない場合もけっこう多いのです。 またたとえピアノがそこそこ弾ける先生だったとしても、プロの演奏者の伴奏というのはまた違った仕事であって、お互いの信頼感みたいなものができていないとやれることではありません。もしその学校の音楽の先生に伴奏を頼むのであれば、何週間か前から、少なくとも3、4回にわたってリハーサルを持ち、意思の疎通を充分にした上で本番に臨む必要があります。ぶっつけ本番とか、前日にちょっと合わせて……程度では、責任のある演奏はできないと考えるのが当然で、藤井さんもそこは不可としました。 伴奏者を連れてゆくとなると、旅費がもうひとりぶんかかるわけで、ボランティア団体としては悩ましいところだったとは思いますが、その点は譲るわけにはゆきません。 で、私に話がまわってきました。藤井さんと私は大学の同期であり、学生時代から伴奏もずっとしてきましたので気心は知れていますし、何より第九を歌う会の関係者なので、世話役の人も気が楽だろうという判断だったのでしょう。
私としても復興支援のため何かしたいという気持ちがありました。カワイ出版の被災者応援プロジェクトでボランティア合唱曲を書いたりしましたが、はたしてどの程度被災者の役に立っているものだろうかと心許ない状態でした。気持ちは大いにあるものの、お金が無いため手弁当で現地に駆けつけて何かするということもできず、心苦しく思っていました。
旅費が出るということであれば、躊躇することはありません。日程も空いていましたし、マダムに相談すると行ってらっしゃいということでもありましたので、すぐにOKした次第です。
それで開催は決まったものの、実現までには少々ごたごたしたようです。大きな要因は、間に立った世話役の人が、善意はあふれるほどあるのですが、少々それが先走ってしまい、学校側およびわれわれ演奏者側に対しての事務的な意思疎通が不充分であったということのようです。早い話が、学校側も演奏者側も「受け身」の態勢になってしまっていたため、話がちっとも進まないという事態になっていたのでした。藤井さんがしびれを切らして直接向こうの校長先生に電話をかけて、ようやく具体的に動き始めました。
こういう話は、今回のことに限らずよくありそうです。善意だけではものごとというのは進まないのであって、その善意を事務化する能力のある人が間に立たないと、ボランティアで作業しに行ったのに実際はただ邪魔しただけだった、なんてことになりかねません。
まあ私が苦労したわけではなかったので、そう大きな口を叩く資格はないかもしれません。私としては、いちど曲目などを打ち合わせ、いちどリハーサルをおこない、そして5日の昼の新幹線で東北へ向かったという、それだけのことでした。
新幹線を一ノ関で下り、そこから気仙沼まではタクシーを使います。予定表を貰った時、「タクシー」とあるのを見て目を疑いました。一ノ関から気仙沼までは直線距離でも40キロくらいあり、途中北上山地を突っ切るため道は曲がりくねって、道路距離は60キロ近くなります。運賃は大変なことになるはずで、ボランティア活動だというのになんと無駄なことをするのだろうと思ったものでした。
同区間はJR大船渡線もありますし、岩手県交通の特急バスも走っています。大船渡線は津波にやられて海沿いの区間はまだ不通のままですが、気仙沼まではちゃんと通じています。予定表にあった到着時刻よりも20分ほど遅くはなりますが、運賃は1110円で、藤井さんと私、世話役がふたりの一行4人分であっても、タクシーに乗るよりは何分の一かの経費で済むはずです。バスはさらに安くて1050円でしたが、こちらはちょうど良い時間の便が無いようでした。
新幹線の中で、世話役の人に言ってやろうかと思い、時刻や運賃のデータを調べたメモを持って行ったのですが、それを言い出す前に、
「一ノ関駅までクルマが迎えに来てくれているはずですので」
と言われました。すでに予約してあるのであれば、もう仕方がありません。それにしても無駄金を使うものだと、まだ私は納得できない気分でした。
しかし、一ノ関駅で待っていたのは、一ノ関のタクシーではなく、気仙沼のタクシーでしたので、思い直しました。どうやら、気仙沼にあえてお金を落とそうとしているらしいと気がついたのです。世話役の人たちはすでに何度も現地に足を運んでいるようでしたが、その都度このタクシー会社を使っているふしがありました。
被災地にお金を落とすことも支援のひとつと心得ているのなら、もはや言うことはありません。また、けっこう財政的に余裕のあるボランティア団体らしいとわかったので、旅費を出して貰ったことにさほどの引け目を感じなくても良さそうな気がしてきました。
5日はずっと雨が降り通しでした。気仙沼地方は、朝は雪が降ったようですが、午前中に雨に変わったそうです。どのくらい寒いのかよくわからなかったので、とりあえず冬のあいだ着ていたセーターを着て出てきましたが、まあ妥当でした。ただ何日か前に零下15度くらいまで下がったことがあったそうで、そんな日にぶつからなかったのは幸運だったと言えるでしょう。
雨を衝いて走ったタクシーは、1時間ちょっとで気仙沼駅前のホテルに着きました。ホテルの部屋もなかなか取れなかったそうです。文字通り駅前で、駅のロータリーを抜けて道路に出るとその真正面にあるというロケーションでした。
チェックインして荷物などを置き、すぐに学校に向かいます。先ほどのタクシーが待っていてくれました。学校までは5キロばかりあって、ここはクルマでないと移動できません。
面瀬(おもせ)中学校というのが今回ミニコンサートを開催する中学校です。5日は校長先生などへの挨拶と、ひととおり会場リハをすることになっていました。
学校の玄関前でタクシーを下りると、すぐ眼下に仮設住宅の群れが見えました。そこは本来校庭だったのですが、仮設住宅用地として提供しているのでした。ざっと数えただけでも十何棟かあったようです。次の日明るい時に数えてみたら、17棟と、あと集会所として使われている1棟が建ち並んでいました。1棟あたり9戸が並んだ長屋状になっています。全部埋まっているかどうかわかりませんが、たぶん150世帯ほどの家族が、住む家を失ってまだここに暮らしているわけです。
当の校長先生も、津波で家を流されたひとりだったそうです。今回いろいろな人に話を聞きましたが、やはり地震の揺れで倒壊した家屋というのはほとんど無く、大半は津波でやられたとのことでした。あと唐桑(からくわ)半島側で石油タンクが津波で壊れ、流れ出した油に引火して3日間くらい燃え続け、その火災で焼け出された人も居たようです。とにかく、建物の耐震性に関しては、日本は充分自信を持って良いように思います。
校長先生は、今回の世話役の人たちに招かれて、前年末の「第九」演奏会の時川口に来られていたそうで、だから藤井さんとはその時会っていました。私は本番の日には失礼していたので初対面です。小野寺さんという名前ですが、この地方には小野寺姓がやたらと多いようです。石巻の隣の登米(とめorとよま)を領していた武将に小野寺氏があり、その一族が一帯に拡がったのでしょう。登米出身の石ノ森章太郎氏の本名も小野寺です。
ひとまずご挨拶してから、会場の体育館に行きました。もともとは、校長室からほど近い小講堂のような部屋でミニコンサートをおこなう予定だったのですが、学校でインフルエンザが流行ってしまい、山は越したものの、3年生の受験などがこれからなので、狭い部屋に生徒たちを押し込めることを遠慮したとのことです。また、プログラムの最後で、生徒たちが卒業式の時に歌う合唱曲を、軽く合唱指導を交えて一緒に歌うという予定にしていたのですが、そんなわけで生徒がみんなマスクをかけて来ることになったため、それもカットすることにしました。
その代わり、と言って良いのかどうかわかりませんが、小野寺校長が趣味でフルートを吹く人であることが雑談の中で判明し、急遽特別出演していただくことになりました。実はプログラムの中の「いつも何度でも」(「千と千尋の神隠し」主題曲)を、この前あるところのコンサートで使った譜面で演奏することにしていたのですが、これはフルート付きの形で私がアレンジしたものです。フルートパートも多少交えながらピアノだけで伴奏するつもりだったのですが、校長先生がフルートを吹くのなら好都合です。譜面はあるし、フルートパートは決して難しくないし、それにプログラム順的にも、そろそろ歌とピアノだけという演奏に飽きてくるかなと思われるあたりで、生徒たちには絶好のサプライズとなるに違いありません。小野寺校長は最初口では「とんでもない」みたいなことを言っていましたが、満更でもなかったようで、じきに校長室のロッカーから楽器を取り出してきました。
体育館はさすがにしんしんと冷え込んでいました。舞台上に2台のストーブが置かれていましたが、それでも寒く、手がかじかむようでしたが、とにかく全曲を流してみました。校長先生の参加する「いつも何度でも」だけは、当然ながら何回か繰り返して合わせました。
本番の時には「ジェットヒーター」で暖めるとのことでした。ジェットヒーターなるものを知らなかったので何かと思いました。
体育館は、200人程度の生徒しか居ない中学校のそれにしてはずいぶんと広く、暖めるのも容易でないのではないでしょうか。しかし震災当時はこの広さが役に立ったようで、避難所として最大800人くらいを収容していたそうです。200人の生徒には広くても、800人の避難民を収容するにはいささか心許なく、さぞや足の踏み場も無かったろうと想像されました。
リハーサルを終えてから、小野寺校長と共に近くの寿司屋へ行きました。校長先生の元の家のすぐ近くにあったそうで、当然その店も津波で流されてしまい、高台に移ってようやく営業再開できたそうです。ボランティア団体の世話役は、気仙沼を訪れるたびにこの店で食事をしているらしく、いちど同行してきた岡村川口市長も来たことがあるとか。
港町ですから、漁船などの被害も大きかったにせよ、刺身も寿司も大変新鮮で美味でした。ここだけの珍味として、モウカザメの心臓の刺身が出ました。最初は焼き肉屋でよく見るロース肉みたいに見えて、何かと思いました。モウカザメ(毛鹿鮫)は正式和名をネズミザメという大型のサメで、気仙沼あたりで水揚げが多く、私の家の近くのスーパーマーケットなどにも時々切り身が出回っています。サメの水揚げが多いため、フカヒレもここの特産となっており、横浜の中華街あたりからもよく買い付けに来るとか。ホテルでもレトルトのフカヒレスープを売っていました。
サメがよく獲れることは知っていましたが、心臓を刺身で食べるとは知りませんでした。地元では「モウカの星」と呼ぶそうです。太い血管が何本もつながっているので星状に見えるのかも知れません。ネズミザメの仲間は魚類には珍しく恒温動物で、体温を海水の温度より高く保つための特殊な筋肉と循環系を持っています。だから心臓のパワーも強力なものがあるのかもしれません。
はじめて聞くとぎょっとしますが、食べてみると馬刺しに近い食感で、なまぐさみも癖も無く大変おいしくいただきました。酢味噌をつけて食べるのが標準的であるようですが、試しに普通に醤油をつけて食べてみたところ、それも大いにアリだと思いました。
あと、フカヒレの握りも供されましたし、茶碗蒸しにもフカヒレが入っていました。
寿司屋には市議の佐藤輝子さんも駆けつけました。世話役の人たちとは旧知であったようですし、小野寺校長と一緒に第九の本番を聴きに来ていたそうです。ちなみに佐藤という姓もこのあたりはむやみと多く、面瀬中学校の教頭も佐藤先生だし、先代・先々代の校長も佐藤と言ったようです。戦国時代、いわき周辺を支配していた相馬氏の与力武将に佐藤氏がおり、為信の代に伊達氏に鞍替えしたようなので、その子孫がこのあたりに知行を貰って繁栄したのかもしれません。
佐藤市議は議員生活の長い人だけあって話し好きで、あんまり食べもせずにずっとしゃべくりまくっていましたが、震災当時の地元の人々の様子がよくわかり、聞いていて学ぶことがいろいろとありました。
この震災に際して、被災地で一件の掠奪も起きず(壊れた無人の店などからの窃盗は少なからずあったようですが)、被災者が非常に規律のとれた行動をおこなっていることが世界を驚かせましたが、最初の頃はやはりいろいろ揉めてはいたようです。まあ、配給の食事を受け取る順番をごまかしたとかその程度ではありますが、そういう時にこの佐藤市議などがかなり強い調子で人々を叱責したらしく、そのおかげでだんだんとみんなの気持ちがひとつになってきたのでしょう。
食べるものが無くて困ったのは最初の2日間くらいで、あとはほうぼうから支援物資が届き始めて、少なくとも食糧に困ることはなかったそうです。むしろ自宅に居るより良い物を食べていたとかいう話も聞きました。冷凍庫が使えなくなった水産加工工場から、大トロの大きなサクが届き、刺身で食べたかったところではあるけれども食中毒をおもんぱかって味噌汁にしてみんなで食べたなどという、うらやましいような話さえあったようで。
地震が金曜日だったので、週末に予定されていた結婚式が全部キャンセルとなり、結婚式場から引き出物にする予定だったケーキやバウムクーヘンなどが大量に届いたこともあったらしい。
それにしても被災者の人数は半端なものではなかったわけで、それらの支援物資を行き渡らせるためには、佐藤市議らの分配能力と決断力が大いにものを言ったことは間違いありません。
政治家の本分は、決断と分配にあると私は考えています。政治家のトップである「宰相」の宰の字は、祭祀用の肉を切り分けるというのが本来の意味です。ウかんむりの下の「辛」は肉切り包丁の形状にほかなりません。決断力と分配能力の無い者には、政治家の資格はありません。国の政治家のていたらくを見ていると絶望したくなりますが、市町村レベルの政治家がしっかりしていたから良かったのだと、あらためて思いました。ちなみに、市役所の職員などは、上記のようなルール破りをする者が居ても、あまり強く言えないところがあったようです。政治家と役人の差でしょう。
寿司屋は休業日だったのをわざわざ開けてくれたとのことでした。市議の話に耳を傾けているうちにだいぶ時間が経ち、またタクシーを呼んで宿に帰ると、もう21時くらいになっていました。ちなみにそのタクシーの運ちゃんも、津波で家を流されたひとりだったそうで、今は2間のアパートに3世代6人が住んでおり、そろそろ中古の家でも見つけて移りたいと言っていました。
先ほど一ノ関駅から宿を経て学校まで運んでくれたタクシーとは別だったせいか、通る道も違って、気仙沼の市街地を通り抜けて帰りました。駅前あたりはなんともさびれた雰囲気がありましたが、市街地はだいぶ離れていて、そこはけっこうネオンも点って賑やかそうな通りになっていました。
一旦宿に帰ってから、私はひとりで傘をさしてその辺を散歩してみましたが、駅前通りは本当に寝静まってしまった感じで(少し横丁に入ると飲み屋やスナックが若干開いているようではありましたが)、600〜700メートル歩いて少し大きな交差点に出るとようやくコンビニが一軒開いていたため、飲み物などを買って引き返しました。
(2012.3.7.) |