今年(2014年)も3月11日がやってきました。新聞のテレビ欄を見ると、その半ば以上が追悼番組で埋められています。 この日だけ思い出したように騒ぎ立てて、それで良いのか、と憤慨する向きもあり、その意見も確かにもっともだと思います。しかしまあ、やらないよりはましというものでしょう。忘れてしまうのがいちばんよろしくありません。 いくつかの追悼番組をチラ見して、わりに良い構成だと思ったのは、3年前の当時インタビューをしたり、行方不明者を捜していたりしていた、その同じ人たちを、1年後、2年後という具合に追跡取材していたというところでした。こういう地道な継続性というものを、最近の報道番組はおそろかにしているように感じられることが少なくないだけに、ここは素直に感心しておきたいと思います。
3年前の今日の東日本大震災のことは、私個人としても忘れがたい体験でした。東北地方の揺れには及びもつかなかったとはいえ、それまでの生涯で経験した地震は震度4が最高だったので、5強ないし6弱であったあの揺れは強烈な印象でした。私が生まれた年に起こった新潟大地震を皮切りに、私の生きてきたこの半世紀、日本のあちこちで大地震は起こっていたわけですが、うまいこと揺れの大きな土地を避けてきていたわけです。私より30年近く長く生きている父でさえ、それまでは4が最大だったと言っていましたから、地震頻発国の日本とはいえ、生涯さほどの大地震に遭遇せずに終わる人もたくさん居るはずです。
東日本大震災は、揺れもさることながら、二次、三次の災害の被害が甚大であったことが特筆されるべき点でしょう。言うまでもなく1000年に一度クラスの大津波と、それによって惹き起こされた原発事故です。地震そのものによる死傷者は驚くほど少なかったのであって、大半は津波による犠牲でした。
何度も書きましたが、地震の揺れにより倒壊した家屋というのは非常に僅少でした。阪神淡路大震災の教訓を、日本人は見事に活かして、世界でも類を見ないほどの耐震建築技術を完成させていたのです。この技術が、例えばニュージーランドに輸出されていれば、日本からの留学生が何人も亡くなった先年の震災の時にも、被害がだいぶ防げていたのではないでしょうか。
この耐震技術は、もっと大々的に宣伝して良いものだと思います。「あの大地震でも倒れなかった建築」となれば、地震多発国にとってみればのどから手が出るほどに欲しい技術であるはずです。発展途上国では難しいかもしれませんが、アメリカ西海岸、イタリア、それに上記のニュージーランドなど、先進国とされるところでも地震の多い地域は少なくありません。そういうところになぜこの技術をもっと積極的に売りつけようとしないのか、不思議でならないのです。
津波のほうは、これはもう不運であったとしか言いようがありませんが、三陸地方というのはしばしば津波に襲われている地域であり、歴史の教訓をきちんと語り伝えて、先人の教えを重んじていたかどうかが、各地区の明暗を分けたように思います。近代人の驕りをもって先人の忠告を軽視していたところほど、容赦なくやられたと言えるのではないでしょうか。
揺れの被害について、阪神大震災の教訓が無駄にならなかったように、津波についても、きっと日本人は今回の教訓を無駄にせず、次回は被害を極小に抑える方法を案出するだろうと私は信じます。
今回、「400年に一度の大津波」に耐えうるスーパー堤防の設置を、民主党政権が無駄な工事として却下したところに「1000年に一度」が襲来したわけで、まさに天罰テキメンの観があります。まあ、工事が着工されていたとしても、今回の震災には間に合わなかったでしょうし、たとえ完成していたとしても、400年に一度レベルの堤防で1000年に一度の津波を防ぎきることは無理だったでしょうが、それにしても心構えという点で、少しはましな結果が出ていたのではないでしょうか。
もっとも、はたして防波堤を高くするだけが唯一の手段であるかと考えると、そうでもなさそうな気がします。はっきりとしたヴィジョンは見えていないのですが、そういうハード面だけではなく、ソフト面での対策というのも必要でしょう。山梨県の釜無川には信玄堤というのがありますが、あれは水をただ遮断するだけのものではありません。増水した場合には無理に水を遮るのではなく、あえて水に堤防を越えさせ、うまく河畔の遊水池に誘導して、市街地や田畑に被害が出ないように工夫されています。500年近く前のああいう智慧を、津波に対しても活かせないものかと考えてしまいます。要するに、津波を遮ることばかり考えるのではなくて、津波が襲来しても「災害」につなげないような工夫がないものかということです。
私がわざわざ言わなくとも、そういうことを考えている人はきっと居るだろうと思います。この種の日本人の叡智を、私は疑いません。
しかし原発の問題となると、途端にきな臭くなります。工学上・技術上の問題よりも、政治的な面が大きすぎるのです。そして政治的な問題に関しては、私は日本人の叡智をあまり信じていません。
福島原発がこれだけ大きな事故になってしまったのは、原発そのものが悪いのではなくて、普段の運営が惰性化していて緊張感が無かったことと、事後の処理がお粗末だったことに尽きると思います。前者は運営にあたっていた東京電力の責任ですし、後者は当時の菅直人政権の責任が免れません。
菅氏がいろいろひっかきまわした揚げ句、責任を東電や後任者に押しつけて遁走したことはまぎれもありませんし、下野するや原発即時全廃を声高に叫びはじめたあたり、政治家というよりも人としてどうなんだと呆れるばかりです。こんな男が首相を務めていたことが信じられないほどですし、あるいはこんな男を首相にした日本人にバチがあたったのが東日本大震災であったかと思いたくなるほどです。
そういえば阪神淡路大震災も、当時の社会党の村山富市氏が首相を務めていた時を、わざわざ選んだかのようなタイミングで発生しました。村山氏も菅氏も、日本という国を萎縮させ、外国に日本をひれ伏させるかのような行動の多い政治家でした。
中国では古来、災害は為政者への天からの警告だったり罰だったりすると考えられてきましたが、日本でも同じような感覚はあります。村山氏や菅氏が震災を起こした、とまでは言えないかもしれませんが、少なくとも為政者たるもの、「こんな災害が起こったのは私の不徳の致すところである」と考える謙虚さだけは失って貰いたくありません。
ともあれ、福島原発についても、現状はだいぶ落ち着いてきているように見えます。まだまだ収束には時間がかかるでしょうが、少なくとも「これ以上ひどくはならない」というところまでは来ていると思います。東芝が投入した放射性物質除去装置「ALPS」は、鳴り物入りで登場しただけに、ちょっとした初期不調がずいぶんおおげさに取り上げられて、全然役に立たないとか無意味だとかさんざん悪口を言われていたものですが、当初期待されたほどではないにせよ最近では安定運転になってきているようです。初期不調というのは新しいシステムには必ず発生するものですので、その結果が大事故になるようなことさえ無ければ、あまり目くじらを立てることではありません。
なお「ALPS」でも、トリチウム、つまり三重水素だけは除去できません。これは放射線がけっこう危険だとも言われていますが、大体どこの国でも垂れ流しにしている物質です。三重水素というのは核融合の燃料のひとつであり、もうひとつの燃料である重水素が海水中からダイレクトに取り出せるのに対し、三重水素はリチウムを分解することでしか得られないとされていますから、その手間をかけずに大量の三重水素が出てきているのを、ただ海に流してしまうのはもったいない……などと、素人考えでは思われてしまいます。どこかに貯めておいて核融合実験に使うわけにはゆかないのでしょうか(むろん妄想ですが)。
国内の原発があまり動かなかった去年一年で、原油代として莫大な金額が国外に流出してしまいましたし、CO2の排出量も相当増えました。末端の電気代がはね上がり、あちこちで収入が増える以上の物価上昇が惹き起こされています。代替エネルギーもあてになるものではなく、やはり当面は原発を動かすしかないと私は考えています。そういう消極的理由とは別の積極的理由として、上に述べた核融合に私はやはり期待をかけていて、それが実現した時のために、放射性物質の扱いかたのノウハウを断絶させるべきではないという点もあります。
いずれにせよ、福島原発の事故は、確かに震災によってもたらされたものではありますけれども、一応地震や津波による自然災害とは別枠で考えたほうが良いと思っています。人災の面が大きいということもありますが、東日本大震災と言うと原発事故がクローズアップされるのは何か違うような気がするのです。
復興のことにしても、原発コミで考えてしまうと、これから何十年かかるかわからないみたいなことになりそうで、あまり建設的だとは思えません。原発については、これからも長い期間、地道な作業を続けてゆかなければ収拾できないでしょうが、地震と津波の被害からの街の復興ということであれば、もっとダイナミックな発想をもって精力的に進めてゆくべき事柄であろうと考えます。
とりあえず、被害にあった街のいくつかには、新しい都市計画のプランがぼちぼち出始めています。活溌な議論をおこなって、災害に強い街を造って貰いたいものです。
三陸鉄道が間もなく全通するという嬉しいニュースにも接しました。この際、北リアス線(久慈〜宮古)と南リアス線(釜石〜盛)を分断しているJR山田線の海線部分(宮古〜釜石)も三陸鉄道に移管したら良いのではないかと思っているのですが、まあそれは先のこととして、鉄道の復活というのは、クルマ社会が浸透した現代においても、やはり象徴的な意味で「眼に見える復興」であるようです。いずれ、また乗りに行って来たいものだと念じています。
(2014.3.11.) |