忘れ得ぬことどもII

三陸鉄道の復活

 数日前、三陸鉄道が全通したという嬉しいニュースがありました。
 言うまでもなく、東日本大震災で大きな被害を受けた鉄道です。東北の太平洋岸の鉄道は軒並み寸断されましたが、復旧がなかなか進まない中、3年と1ヶ月を経て、ようやく三陸鉄道がつながったことで、現地の人々も曙光が見えた想いではないでしょうか。
 まだ(2014年4月現在)常磐線広野原ノ町相馬浜吉田)、仙石線高城町陸前小野)、石巻線浦宿女川)、気仙沼線柳津気仙沼)、大船渡線気仙沼)、山田線釜石宮古)の各線区は不通区間が残っています。とりあえずBRT(バス高速輸送システム)で代行輸送しているところもあれば、それすらおこなわれていないところもあります。いずれにしろ3年以上経って、いまだ満身創痍の状態ではありますが、その中で第三セクターである三陸鉄道がいちはやく(JR八戸線はひとあし早く全通していましたが)復旧できたのは、JR東日本という大組織に較べて、小回りの利く所帯だったおかげかもしれません。また大変な人気だったNHKの朝ドラ「あまちゃん」で、明らかに三陸鉄道をモデルにした列車がちょくちょく登場していたことも、人々の関心を惹くきっかけになったことでしょう。
 しかしやはり何よりも、東北地方の人たちの鉄道にかける想いの強さが大きかったのではないかと思います。

 何度も書いたことがありますが、隣り合わせでありながら、北海道の住民と東北の住民とでは、鉄道に対する思い入れがまったく違います。
 北海道民は、基本的にさほど鉄道に思い入れがありません。赤字線廃止の時にも、いちおう形ばかりの反対運動はあったものの、ほとんど抵抗らしい抵抗も無くすんなりと実行されました。札幌附近以外では、移動にはクルマを使うのがあたりまえで、列車で行くなどというと変人扱いされかねないのが北海道です。
 北海道は確かに人口密度が低く、沿線人口が少ないため、ローカル線にはもともと多数の便が走ってはいませんでした。一日4、5往復というような路線がそこかしこにあり、乗るのは中学・高校生だけ、みたいな光景が普通でした。こんな状態では不便で、日常的に使う気にはなれません。子供たちの数も少なくなると、もう廃止するより他なかったでしょう。
 しかし、他の地方でも、場所によっては同じような状況のところはあります。それでもたいてい、廃止が取り沙汰されれば、「乗って残そう○○線」というようなスローガンが掲げられ、廃止見直しの陳情が踵を接することになるのが常です。北海道では、それもほとんどありませんでした。
 もともと北海道の鉄道は、地元民の切なる願いで敷設されたというものが実に少なかったのです。ほぼすべてが、国もしくは企業により、開拓や殖産のために敷かれた路線ばかりでした。つまり、沿線住民の中に根を下ろしていなかったのです。これでは、道路さえ通じればクルマを常用して、鉄道などに見向きもしなくなるのは無理もありません。
 北海道庁も、鉄道には冷淡でした。空港と道路の整備にはお金をかけますが、鉄道ははっきりと二の次です。北海道の廃止路線の中で唯一第三セクター化された池北線ちほく高原鉄道・ふるさと銀河線)にも、充分な予算を割かなかったため、第三セクター鉄道の初の廃止という、あまり名誉でもないタイトルと共に消えてしまいました。ちなみに全国の第三セクター転換の鉄道路線の中で、これまでに営業を全面的にやめてしまったのは、このちほく高原鉄道と、九州の高千穂鉄道、岐阜の神岡鉄道、兵庫の三木鉄道の4つだけです。
 そんなわけで北海道の鉄道地図は実にスカスカなことになってしまいました。特に東半分は無惨な有様です。

 ところが、津軽海峡を隔てた東北地方では、事情がまったく違います。
 何しろ、廃止対象になった赤字ローカル線のほとんどが、東北では残っているのです。
 早い時期に廃止された日中線などの例はありますが、昭和50年代からの国鉄再建策の中で廃止対象とされた「特定地方交通線」のうち、完全に消えてしまったという路線は、わずかに2路線に過ぎないのです。
 ちなみに東北地方の特定地方交通線は、日中線を除くと、以下の11線区でした。

  ・大畑線(下北〜大畑)
  ・黒石線(川部〜黒石)
  ・阿仁合線(鷹ノ巣〜比立内)
  ・角館線(角館〜松葉)
  ・矢島線(羽後本荘〜羽後矢島)
  ・久慈線(久慈〜普代)
  ・宮古線(宮古〜田老)
  ・盛線(盛〜吉浜)
  ・岩泉線(茂市〜岩泉)
  ・丸森線(槻木〜丸森)
  ・会津線(西若松〜会津滝ノ原)

 このうち、現在あとかたもないのは、大畑線と黒石線だけです。大畑線は下北交通、黒石線は弘南鉄道が引き受けましたが、いずれも維持できず、10年ほどで力尽きました。一私企業の手に負える寂れっぷりではなかったようです。まあ、大畑線は現在中型バスで充分なくらいの輸送量しかありませんでしたし、黒石線の終点である黒石には弘南鉄道の本線とも言うべき弘南線が行っていますので2本も要らないというところだったでしょう。
 残りの9線区は健在です。
 まず、岩手県内の特定交通線であった久慈線・宮古線・盛線は、まとめて三陸鉄道となりました。しかも、国鉄時代には未成であった吉浜〜釜石間、田老〜普代間を開通させてのことです。まあ、これらの路線はもともと1本の「三陸縦貫線」にまとまるはずだったものであり、部分開業していたところをそれぞれの名称で呼んでいたところ、何しろ未成線の一部ということで営業成績が悪く、一網打尽に廃止対象とされてしまったのでした。とはいえ工事はほとんど完了しており、それらを無駄にするのは忍びがたいというわけで、全国にさきがけて名乗りを上げたのが三陸鉄道だったのです。
 「未成線を第三セクターとして開業する場合、工事完了までの費用は国が負担する」という取り決めがあったので、それが可能でした。智頭急行樽見鉄道なども、この条件を利用して全通させることができたわけです。
 国鉄が廃止しようとしたローカル線をいまさら引き受けても、どうせ大赤字を出して早晩破綻するだろうと誰もが思いました。ところが、三陸鉄道は初年度から見事に黒字を出したのです。
 全線が岩手県内にあったため利害調整が楽であったこと、また国や県からの相当額の補助金を受けられたことなどが大きかったのは事実でしょうが、それにしてもこの鮮やかさにはみんなが驚きました。かくて、各地でわれもわれもと第三セクター鉄道が名乗りを上げたのでした。
 三陸鉄道は単なる地方ローカル線ではなく、第三セクター鉄道のさきがけでもあったのです。それだけに、今回の復旧には、象徴的な意味も感じられてなりません。
 岩手県内のもうひとつの特定交通線であった岩泉線は、JR路線として残っています。並行する道路の整備が遅れていたため廃止を免れたのでしたが、現在はバス代行輸送となっており、おそらくもう列車が戻ってくることはないかもしれません。(【後記】その後岩泉線は廃止されました)
 秋田県内の阿仁合線・角館線・矢島線は、前2者が秋田内陸縦貫鉄道として、矢島線は由利高原鉄道として生まれ変わりました。秋田内陸縦貫鉄道は、三陸鉄道同様、未成だった松葉〜比立内を全通させての営業をしています。起点である角館に秋田新幹線が停車するという幸運はあったものの、これもなかなか健闘しています。
 丸森線は、阿武隈急行となりました。これも福島まで全通させての営業です。阿武隈急行は、珍しく福島と宮城の2県にまともにまたがって成功している第三セクターです。
 そして会津線は会津鉄道となっています。これは線区そのものの延長はしませんでしたが、延長工事していた部分が野岩鉄道としてやはり第三セクター化されたので、それと直通することで活路を拓いたのでした。東武鉄道からの乗り入れ列車もあり、その対応用に会津田島〜会津高原(旧・会津滝ノ原)を電化しています。

 東北にはあと、青い森鉄道・いわて銀河鉄道IGR・仙台空港鉄道・山形鉄道の4つの第三セクター路線がありますが、これらは国鉄の廃止対象路線とは関係ありません。まあ、山形鉄道(もと国鉄長井線)だけは、特定交通線ではありませんでしたが赤字ローカル線には違いなかったので、「こっち側」に近い立場ですが、青い森とIGRは東北新幹線延長に伴って在来線維持のために設立された第三セクターであり、仙台空港鉄道はまったくの新規開業路線です。
 実のところ、青い森とIGRが走っている箇所は、もと大動脈の東北本線の一部とはいえ、そこだけ区切って営業成績を出してみると特定交通線に負けない(?)くらいの赤字で、経営はかなり苦しいと思われます。当初、単線化、非電化などの案も出されたくらいでした。この線路を利用するJR貨物からクレームがついたので断念されましたが、複線と電化の維持は大変でしょう。

 ともあれ、線路が片端からはがされてゆくのを平然と座視した北海道と、ほとんどの線路を残した東北とは非常に対照的です。
 この差は、やはり鉄道敷設までの経緯の違いによるものでしょう。
 東北地方は、日本が近代化するにあたって、何かとあとまわしにされてきました。気候が厳しいということもありましたが、幕末に佐幕藩が多く、明治にあっては賊軍扱いされたという事情もあったものと思われます。また、庄内の本間家のように、大名以上の勢力と格式を誇るような豪家がいくつも残っていて、それらの利権が大きすぎて国といえども容易に介入できないという事情があったのかもしれません。
 明治以降に日本が獲得した台湾朝鮮の領土よりも、さらにあとまわしにされた観があります。朝鮮の近代化のために日本がつぎ込んだお金(ついでながら、日本が「植民地」である朝鮮から苛酷な収奪をしたなどというのはまったくのでたらめで、日本は「新領」である朝鮮に大変な予算をつぎ込み、差し引きでいえば大赤字であったというのが史実です)を東北にまわしていれば、ずいぶんと助かっただろうと言われています。
 そういう地方ですから、近代化の象徴とも言える「鉄道」に対する渇望も人一倍のものでした。東北のローカル線には、いずれも「悲願○十年」というようなタイトルがついています。陳情に陳情を繰り返してもらちがあかず、地元の有力者がお金を出し合ってようやく線路が敷けたというようなところがいくつもあります。
 ですから、クルマのほうが便利になったからとて、そう簡単に鉄道を見捨てるということはしないのです。自分たちが、あるいは自分たちの父祖が、一生懸命に運動してやっとできた鉄道だという意識が、抜きがたく残っていると思われます。
 岩手県出身の宮澤賢治の童話を読んだだけでも、鉄道への想いはよくわかります。他の地方の出身の作家に較べて、その色合いはとりわけ濃いように感じます。「銀河鉄道の夜」にしろ「シグナルとシグナレス」にしろ、東北出身者にしか書けない物語だったのではないでしょうか。ちなみに「シグナルとシグナレス」は、東北本線の信号機と岩手軽便鉄道(現在の釜石線)の信号機との恋物語です。「氷河鼠の毛皮」も鉄道が効果的に使われています。
 鉄道そのものに対する、そうした想いの深さの伝統がある上に、現在隆盛を誇っている第三セクター鉄道を最初に成功させたという誇りもあるのではないでしょうか。三陸鉄道にしろ秋田内陸縦貫鉄道にしろ、沿線住民には「自分たちの線路」だという意識が強いように思うのです。これが例えば、ちほく高原鉄道の沿線住民にそうした意識があったかと言えば、どうも希薄であったのではないかという気がします。
 三陸鉄道はかつて赤字ローカル線復活のさきがけとなり、いままた震災復興のさきがけともなりました。おそらく、地元の人々も誇らしい気持ちでいっぱいでしょう。
 もちろん、多額の国費も投入されました。国交省あたりでは、

 ──100億円も投入して鉄道を復活させる意味があったのか。BRTで充分だったのではないか。

 というような声もあるそうですが、いかにも東京で椅子を温めている役人が考えそうなことです。彼らには東北人の鉄道への想いがわかっていません。復興には「さきがけ」あるいは「シンボル」が必要だという発想にも思い至らないのです。三陸鉄道はまさに「復興のシンボル」としてふさわしい存在ではないでしょうか。

 大学に入った昭和59年の春休み、私は進学の報告も兼ねて、札幌の祖母の家に行きました。その帰り道、夜行便の青函連絡船を下りて早朝の東北本線の列車に乗り継ぎ、八戸から八戸線に乗って久慈まで行き、そこから三陸鉄道の北リアス線に乗り換えたのでした。三陸鉄道は、まさにその日の朝に開業したばかりだったのです。私はあまり「初もの」にこだわるほうではなく、新路線の開業日にわざわざ出かけて乗りにゆくということはほとんどしたことがないのですが、三陸鉄道の開業日だけは、ちょうど札幌から帰ってくる日に一致したため、せっかくだから乗ってこようと考えたわけです。
 青森から久慈まで3時間くらいかかりますから、私が乗ったのは1番列車ではありません。2番列車だったと思います。それでも、おそろしく混んでいました。しかも、普代から先の新規開業部分にさしかかると、どの駅からもわんさか客が乗ってきて、ほとんど首都圏のラッシュ時みたいな混雑となりました。
 しかもどの駅もお祭り騒ぎで、駅前広場は人がいっぱいでした。屋台なども並んでいます。こんな寂しげな土地に、これほど人が住んでいたのかと目を瞠る想いでした。地域住民のほとんどが集合していたのではないでしょうか。周辺の人々にとって、新しい鉄道がそれほどまでに待ちこがれたものであったのかと、19歳の私は痛感したのでした。

 ──地元の人々にとって鉄道が必要だった時には鉄道は敷かれず、(道路が整備されて)必要が無くなってからようやく鉄道が来た。

 などと揶揄されてもいましたが、あの熱狂を見ると、そんな皮肉な見かたがむしろ皮相に感じられました。
 大変な人出のため、ダイヤは乱れに乱れ、各駅で10分くらいずつ遅れてゆきました。私は龍泉洞を訪ねたかったので小本で下車しましたが、その後の行程を組み直さなければなりませんでした。
 その日のうちに釜石まで行って一泊しました。ビジネスホテルというものにはじめてひとりで泊まったのがこの時で、なんとなく面映ゆく、大人になったような気持ちがしたものでした。
 翌朝、南リアス線に乗って盛まで行き、まだ旅客営業をしていた岩手開発鉄道に乗ったりもしました。さすがに2日目となると、初日のような熱狂はありませんでした。
 第三セクター化するにあたって、三陸鉄道は40〜60分に1本と、列車の運転を大幅に増やしました。使用したディーゼルカーも、国鉄形の重たいものではなく、省エネタイプの軽量車輌でした。こういう工夫がものを言って、最初のうちのフィーバーが終わっても利用は衰えず、初年度黒字会計を叩き出したわけです。そして全国の第三セクターブームを捲き起こしたのは上に書いたとおりです。
 最近では国からの補助が減ったこともあり、やや赤字に転落していたと聞いていましたが、いまふたたびシンボル的存在として輝きはじめ、また盛り返すこともあるかもしれません。
 現在不通になっているJR山田線の宮古〜釜石間を三陸鉄道に譲渡したらどうかという話も出ているようです。路線が分散しているのはやはり運営しづらいもので、山田線の海岸部を譲渡されることで北と南が1本の路線につながれば、もっといろいろやりようもあるかもしれないというのです。そうなれば延長163キロの大型路線になるので、急行の運転なども考えられます。
 三陸鉄道に続き、被害を受けた他の路線も、早く復活して貰いたいものだと思います。他の路線はJR東日本という大組織の構成員であるため、かえって集中的に復興費を投入するということがやりにくいのかもしれませんが、BRTのままでも良いなどという退嬰的な意見に流されず、頑張って貰いたいです。本当は、東北新幹線と並ぶもう一本の物流軸を新規構築するくらいのつもりで復興に臨んだらどうなんだ、と言いたいほどですが、そんな大構想を打ち上げられるほどの企画力の持ち主は、いまの役人にも政治家にも居そうにありません。いいところ原状復帰でも仕方がないので、とにかく今回の開通ではずみがつけば良いと念じる次第です。

(2014.4.12.)

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