ニースで起こったトラックテロは衝撃的でした。もちろん、去年あたりからヨーロッパ各地でテロ事件が相次いでおり、先日はバングラデシュで邦人7人を含む射殺事件があり、ある意味では「またか……」とため息をつきたくなる事態ではあるのですが、今回の事件の特徴は、大都市とか、駅・空港などの施設の中などでなく、観光地で発生したという点です。 ニースもそれなりの街ではありますが、街としての規模はさほど大きいわけでもありません。その知名度は、風光明媚な観光地としてのものです。古くから、フランス国内のみならずヨーロッパじゅうのお金持ちの人たちがヴァカンスを愉しみにやってくる場所でした。 今回の事件も、革命記念日を祝う花火の見物客が集まっているところへ、ダンプカーでつっこむという無茶がおこなわれたのでした。死者84人、重傷者も50人以上とされる被害者のほとんどは、地元の人間ではなく、各地からの観光客でした。 昨日の朝、マダムがスマートフォンのニュースでこの事件を知って大騒ぎしはじめたのでした。マダムはご承知のとおりの重度のフランスかぶれで、トリコロールの配色になっていれば不要なものでもなんでも買おうとするし、スポーツで日仏戦があれば迷わずフランス側を応援するという人です。革命記念日にも毎年 「カトルズ・ジュイエ(7月14日)だ〜♪」 と騒いでいるのでした。彼女はフランス留学中、6月に学期が終わるとすぐ帰国していたそうですから、現地で革命記念日を体験したことは無さそうなのですが、それだから余計憧れがあるのかもしれません。
そのため、革命記念日の夜に起きたこの惨劇にはショックを隠せないようでした。
花火の見物客の列にダンプが突っ込んだという話を聞いて、私は最初、泥酔していたか麻薬でもきめていたヤツがやらかしたのだろうかと思いました。残念ながらわが国でも、集団登校中の小学生に居眠り運転のクルマが突っ込むという悲惨な事故は少なからず起こっています。
しかしそうだとすると、すでにその時点で50人以上の死者が出ていたらしいので、少々被害が大きすぎる気がしました。泥酔、ヤク中、居眠りなどによる事故であれば、人が密集したところに突っ込んだとしても、すぐに建物や敷石、並木などに衝突してクルマが動かなくなるはずです。不運な被害者は10人か、多くても20人というところでなんとかおさまるでしょう。それが50人もの死者が出ているということは、やはり殺意を持って人を轢き殺しまくっているとしか思えません。
これはたまりません。はなから轢き殺す気で迫ってくるトラックから逃れるのは、普通の人には難しいでしょう。人が密集していて、動きもとりづらかったはずです。アクション映画の主人公でもあるまいし、華麗に物陰に滑り込んで難を逃れる、なんて人はあんまり居なかったと思います。
結局、運転していた男は警察により射殺されました。警察としても、運転手を射殺するよりほかに、暴走するトラックを停める方法が無かったのでしょう。トラックのタイヤは、普通の銃で撃ったくらいでは走行不能なほどのパンクはしませんし、もしうまくパンクさせられたとしても、即座に動かなくなるわけではなく、停止するまでにさらに被害が増えたに違いありません。
犯人はニースに在住のチュニジア人だったとのことですが、射殺してしまったので背後関係はよくわかりません。「またISか!」ということなのか、それとも個人的にむしゃくしゃしてやらかしたのか。よしんば個人的犯行であっても、ISの動きに刺戟されて……ということは充分にあり得ますね。
革命記念日の大胆な犯行ということで、政治的メッセージも含まれていたのではないかと見ることもできそうですが、私の勘では、そこまでは考えていないような気がします。犯人がニースに住んで何をしていたのかは知りませんが、たぶんそんなに輝かしい仕事というわけではないでしょう。生活は苦しかったのではないかと思います。そういうところへ、ヨーロッパじゅうのお金持ちがヴァカンスにやってくるのを見て、こん畜生と思うのも無理はないのではないでしょうか。日本で言えば「リア充爆発しろ」というところです。日本のぼっち族は言うだけですが、フランスの底辺は実行に移してしまった……と、そんな単純な話ではないかもしれませんが。
なんにしても無差別大量殺人をもくろんだとすれば、花火大会の晩などは狙いどきと考えたでしょう。それが革命記念日であることにさほどの意味は無かったような気がするのです。
そして、クルマ1台あれば無差別大量殺人など容易だという、誰もがわかっていながら知らないふりをしていた事実が明らかになってしまったというのが、今回の事件の深刻なところです。
クルマは兇器である……よく聞く言葉であり、運転教習所ではくどいほどに叩き込まれます。だから観念としてはみんな知っていることです。不運にも対人事故などを起こしてしまった人は身にしみてこの言葉を繰り返すことになるでしょう。クルマは兇器である……
しかし、われわれはどこか比喩的なものとしてこの言葉を受け取っているようでもあります。クルマを運転するとき、自分は兇器を扱っているのだと、本気で切実に感じている人が、そうたくさん居るようには思えません。
ところが、明確な殺意を持ち、まさに兇器としてクルマを使う者が居れば、ちっぽけな刃物や銃など問題にならないくらいに効率的な兇器になりうるということが、今回の事件で証明されてしまいました。
1本の刃物で、取り抑えられることなく80人以上を殺すことは困難です。日本刀など、充分に手入れされてこそ切れ味もすごいのですが、実際に人を斬った場合は、せいぜい3人も斬ればもう血糊と刃こぼれで使い物にならなくなるということはよく知られています。斬るのでなく突くのであればもう少し殺せるかもしれませんが、人を突き殺すと、筋肉が収縮して容易に抜けなくなることが多いようです。とても80人連続などは無理でしょう。
銃を乱射するのであればもっと大勢を殺せますけれども、それでも30人か40人くらいが限界ではないでしょうか。USAでちょくちょく起こっている乱射事件の様子を見ても、被害者数は最大で30人とか40人とかそんな程度であるようです。弾数以上に撃つことはできませんし、全弾命中させるのも難しいでしょう。
それらに較べると、クルマの殺傷能力は、まさにずば抜けています。ただし犯人も無事では済まない可能性が高いですが、命を捨てた自爆テロであればそんなことは問題になりません。今後、クルマを用いたテロが多くなるのではないかと危惧します。
爆弾などでは製造も面倒ですし、材料の調達から足がつくこともありがちです。しかしクルマはいまや、世界中どこにでもあります。持っていなくとも簡単に盗めるのです。しかももはや、場所も選びません。なんでもいいから人が集まっているところに突っ込ませれば、50人100人くらいの無差別殺人は容易にできることになります。
おそろしく高性能な兇器が、そこらじゅうを走り回っているということを、テロをもくろむ側が知ってしまいました。おそろしいことです。
爾来、無差別の自爆テロというのは防ぎがたいとされています。特定の人物を狙った暗殺なら防ぎようがありますし、犯人が生還を期している場合もそこに隙が生まれてつけ込むことができます。けれども、誰を殺すのでも良い、自分も一緒に死んで構わないという相手では、確実に防止する方法というものは無いようです。
そして宗教的情熱にかられた場合は、人はいとも簡単に死を選びます。とりわけイスラム教では、ジハード遂行中に命を落とした者は、一切例外なく、なんの審査も無く天国に迎えられることになっているので、自爆テロに結びつきやすいところがあります。イスラム教の天国の描写は非常に具体的であり、現世で禁止されていたいろんなタブーがみんな解禁されています。川となって流れる酒は飲み放題、天女たちは何度セックスしても処女のままだそうで、それならこの世でくすぶっているより天国へ行きたいと思う者も多いことでしょう。
ジハードは聖戦と訳されていますが、実際には「努力」という意味であるようです。良きムスリムとして努力することがジハードなのであって、別に戦争とは限りません。ただ、どんな行為がジハードとして認められるかという点になると、その解釈の幅はけっこう広いようです。極端な話、
──おれはいまジハードを遂行している。
と宣言すればそれで通ってしまうみたいなところがありそうです。まっとうなムスリムであればテロ行為をジハードとは認めないでしょうが、過激な連中がテロ=ジハードと解釈するのを禁止する神学的根拠は乏しいような気がします。
ISの好き勝手な横行、そしてそれに刺戟された各地の過激派ムスリムたちの暴発は、本当はイスラム教の権威者が断乎として批難することで、かなり下火になりうると私は思うのですが、その権威者とは誰かとなると首を傾げざるを得ません。キリスト教におけるローマ教皇のような、とりあえず誰もがその言葉に耳を傾けざるを得ない存在というものが、イスラム教にはあるのかどうか。
もちろんイスラム教にも教父(カリフ)という最高指導者は居たわけですが、実は現在は、イスラム世界全体に認められたカリフは存在しません。最後のカリフはアブドゥルメジト2世で、オスマン・トルコ帝国最後の皇帝(スルタン)であるメフメット6世の従弟にして皇太子だった人物です。トルコ革命で1922年にメフメット6世は廃位されましたが、それまでスルタンが兼任していたカリフの座のみアブドゥルメジト2世に受け継がれたのでした。しかし、新生トルコ共和国が政教分離を宣言したため、彼もまた1924年にカリフの座を失い、国外追放となりました。
以後、イスラム世界全体から承認されたカリフは居なくなりました。その後もカリフを自称している人物は何人か居ますし、なんとISのボスであるアブー・バクル・アル=バグダーディもカリフを名乗っています。しかし既存のイスラム諸国で彼のカリフ位を承認しているところはひとつもありません。
結局、ローマ教皇クラスの権威と発言力を持つ人物は、イスラムには居ないということになります。テロリストたちに向かって
──おまえたちのジハード解釈は根本的に間違っている!
と説得力をもって言える者はどこにも居ないわけで、これが現在のグダグダな状況の主要因でしょう。
根元に生活や仕事に関する個人的な不満があり、その鬱憤を晴らすために無差別殺人をおこない、
──異教徒を殺してるんだから、これはジハードなんだ!
と勝手に解釈して自己満足のうちに死んでゆく……最近のムスリムによるテロには、そんな構図が見えるような気がしてなりません。必ずしもISが直接指令を下しているようには見えない事件も多く、それらはISに心酔してというよりも、上のような経過があってのことではないのでしょうか。
そして、そんなのはジハードでもなんでもない、と断言してくれる権威者も居ないとなれば、そういう行動を抑止できるものが何も無いわけです。
まともなムスリムたちも、そろそろまじめに考えないと、イスラム教自体がテロ容認宗教として排斥されることになりかねません。テロを抑止するための神学的根拠をなんとか確立して貰えないものかと切に希望します。もう、待った無しの状況にまで近づいていると思うのです。
(2016.7.16.) |