ロンドンの国会議事堂附近で起こった無差別テロ事件は、だいぶ逮捕者も出て、背後関係が明らかになるのも時間の問題といったところでしょう。例によってISが犯行声明を出しているものの、直接的な関係があったのかどうかはまだ不明だそうです。 ここ数年相次いでいるヨーロッパでのテロ事件で、各国とも神経質になっていますし、英国は特にこの種の事件を事前に防ぐことに対するプライドもある国です。諜報機関MI5などもずいぶん頑張っていたようですが、クルマを暴走させて周囲の人々を轢き殺すという、いわばローテクなやり口に虚を衝かれたような形です。 しかし、クルマを使ったテロということなら、去年もフランスのニースで発生しています。今回の犯人たちも、あるいはニースの事件を知って、クルマという兇器が意外と有効であることを悟り、手口に組み入れたとも考えられます。 ニースの事件は革命記念日の花火大会を観るために観光客でごった返していた遊歩道にトラックをつっこんだという騒ぎでした。犯人のチュニジア人は、逃げまどう人々を次から次へと轢き殺し、ついにトラックが動かなくなると窓から銃を乱射し、結局自分も射殺されました。犠牲者は80人以上に及んだようです。
刃物を振り回しても、マシンガンをぶっ放しても、いちどきに80人以上の人間を殺すことはなかなか難しいでしょう。USAなどでは銃の乱射事件がときどき起こっていますが、学校のような人の密集したところでも殺傷できるのは30人くらいがせいぜいであるようです。それだって大変な人数ですが、ともかく銃というのは、弾丸が切れればそれでおしまいであることは言うまでもありません。
これに較べると、クルマという兇器ははるかに効率が良いようです。
銃は足がつきやすいし、爆弾ともなると原料の調達から事前にばれることも少なくありません。その点、クルマは入手しやすく、買えなくともそこらじゅうに停められていますから本気で盗もうと思えばわけはありません。
襲撃者が車輌の中に居ますので、襲撃相手から逆襲されるおそれも少ないでしょう。刃物をふるったり銃を乱射したりするのでは、まあ滅多に無いことかもしれませんが逆襲されることがあり得ます。
もちろん、本格的に警察なり軍特殊部隊なりが乗り出してくれば、車輌の中に居ることで逆に逃げ延びるのは難しくなります。しかし、生還を期さない自爆型テロで、なるべく多くの者を殺そうと考えているのであれば、兇器としてのクルマのコストパフォーマンスは相当に高いと言えるのではないでしょうか。
ニースの事件について日誌に書いたとき、これからクルマを用いたテロが増えるのではないかと私は危惧していましたが、残念なことにその危惧は的中してしまったようです。
今回は、死者数は4名と、それほど多くなかったようですが、これは現場の国会議事堂周辺が、去年の遊歩道ほどには混み合っていなかったためでしょう。重軽傷者は40名に及んでいるのですから、やはり大事件です。しかも首都の、最重要国家機関の鼻先で起きているので、ニースのような観光地とは違った意味でショッキングな話でもあります。
ニースの事件は、その後どうなったのかよく把握していないのですが、どうやら射殺された犯人の単独犯行であった可能性が高そうです。何が気にくわなかったのか知りませんが、とにかく個人的に思い立ってやったことではないかと思います。ISなどによる煽動に乗ったことは確かかもしれませんが、直接の関与は無さそうで、誰かと一緒に計画を練った形跡も無いようです。
一方、今回のロンドンの事件は、逮捕者がすでに10人に及んでいるように、かなりの人数が計画に参加していたようです。ただ、このテロによって何を訴えたかったのかが、まだはっきりしていません。
ISによる犯行声明は、あまり気にする必要はないというのが最近の共通認識になっています。イスラム教徒がらみのテロ事件が起こると、ISはとりあえず犯行声明を出すらしく、自分たちの影響力が巨大なものであることをアピールする狙いがあるのでしょう。片端から、
「われわれの指示により聖戦をおこなった」
と称するのがお約束になっているらしい。
そのIS本体は、このところUSAの支援を受けたイラク軍やクルド民兵などによって、だいぶ追い込まれているという話です。すでにイラク軍はユーフラテス川東岸を制圧し、西岸でも攻勢に出ており、クルド民兵はISの「首都」とされるラッカに向けて快進撃中であるとか。
たとえUSAの支援を受けているとしても、やはりISのことはイスラム教徒たちみずからが決着をつけるべきだと思っているので、イラクやクルドが頑張っていることには声援を送りたいところです。
ともあれ、そんな状態であるからこそ、ISとしては健在であること、いまだ各国の協力者たちに対して強大な影響力を保っていることを喧伝せざるを得ないのです。
前にも書いたことですが、ムスリムたちがよく言うジハードとは、本来は「努力」という意味であり、戦闘行為に限ったことではありません。しかし、異教徒たちと戦うことを、古来ジハードとして讃えてきたことは間違いありません。そしてジハードの最中に命を落とした者は、もれなく天国に迎えられます。
その天国の描写は、兄弟宗教であるユダヤ教やキリスト教のそれに較べ、はるかに生々しく、人々の欲望に応えるものになっています。天国では、この世では禁止されていた酒が川になって流れており、もちろん飲み放題。いくら飲んでも泥酔することはありません。その上美しい天女たちが世話をしてくれます。彼女たちと交わるのももちろんOK。何度交わっても処女のままで居てくれます。
現世でうだつの上がらない男も、いっちょ頑張るかと奮起しそうです。
イスラム教徒が、テロを起こす時に一体に自爆的な行為をいとわないのは、ジハード中に死んだら必ずこういう天国に迎えられると、教義によって保証されているためでしょう。キリスト教では、自殺ないし自殺的行為というのは罪のひとつに数えられ、つい何百年か前までは、自殺者のためには墓を作ることも許されず、その死骸は辻に埋められて通る者に踏まれました。しかし、イスラム教ではむしろ人を自殺的行為に誘うような教義が生きているのです。
ムハンマドは、軍勢を率いてアラビア半島の都市国家群を制圧しました。また後年、イスラム勢力はササン朝ペルシャ帝国に何度も戦いを挑み、勝利します。こういう戦いに人々を駆り立てるためには、死を怖れずに済むように、このような楽園像を描いて教えこむ必要があったのだと思います。もはやそういう時代ではなくなったとしても、コーランの教えは一字一句たがえてはならないとされているために、この教義はいまなお効力を失っていません。
この教義が生きている限り、今後も同じようなテロ事件は起こり続けることでしょう。なんとかする方法はないのでしょうか。
そもそもテロはジハードであるのか、まずそこをイスラムの神学者たちにしっかり議論して貰いたいところです。
異教徒を殺すことが正義であると、いまだに無条件にそう考えているようであれば話になりませんが、主流派的な考えはどうなのでしょうか。
古来、イスラムというのはもう少し寛容な宗教であったはずです。「コーランか、剣か」というような二者択一を迫ったというのは作り話で、イスラム諸王朝ではたいてい、異教徒も安全に暮らすことができました。ただしジズヤ(人頭税)を納める義務はありましたが、キリスト教国でしばしば異教徒が迫害されたのに較べれば、はるかに人道的な扱いがなされていたと言えます。
だから、平時に無条件に異教徒を殺すことが正義だったとは思えません。
異教徒を殺すのが正義であったとしても、それは戦争の時に限られた話ではなかったでしょうか。
それでは昨今の無差別テロは、どういう扱いになるのか。
異教徒といえど、無抵抗な民間人を無差別に殺傷することがジハードに相当するとは、私にはどうしても思えないのです。それとも彼らはすでに戦争をしているつもりなのでしょうか。
ムスリムのある行為がジハードに当たるのか当たらないのか、それを判定・認証する機関というものが、現在のイスラム教には存在しません。行為者がジハードだと言えばジハードになってしまうという、かなりカオスな状況です。
ISはその不備を衝くかのように、イスラムテロを片端からジハード認定しているわけです。そういえばISのトップであるアブー・バクル・アル=バグダーディはカリフ(教父)を自称しており、だからジハードを認定する資格があるのだということなのでしょう。むろんのこと、既存のイスラム諸国で、この男をカリフだと認めているところはひとつもありません。正式なカリフは1924年にアブドゥルメジト2世が退位して以来、誰もその地位に就いていないのです。自称カリフは何人も出現していますが。
正式でなくとも、いちおうカリフを自称する人間がジハード認定してくれるというのは、テロをもくろんでいるムスリムにとっては救いに思われるのかもしれません。だからこそ、ISは一日も早く潰さなければならないと思うのです。
そして同じように一日も早く、民間人を無差別に殺傷するようなテロ行為はジハードには当たらない、という声明を、イスラム教の指導者たちのあいだから出して貰いたいものです。さもないと、本当にのっぴきならないことになりかねません。
この前マザー・テレサが列聖されましたが、キリスト教における聖人の認定というのはヴァティカン教皇庁の専管事項で、教皇庁はみずからのメンツにかけて、容易なことでは認定しません。ヨハネ・パウロ2世の代に手続きが簡略化されて、列聖される人が増えましたが、それにしても平均死後180年くらい経たないとなかなか聖人になるのは難しいそうで、マザー・テレサの場合も拙速すぎるという批判があったようです。
同じようにジハードを専管的に認定する機関がイスラム教の中にあれば良いのだと思います。自分でジハードと思えばジハードになるとか、自称カリフの認定濫発が通用してしまうとかいう状況は、イスラム教全体としても困るのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。
考えてみれば、この種の事件が起こったときに、イスラム教の有力な指導者からのコメントが報じられたのを見たことがほとんどありません。市井のムスリムが
「イスラム教徒はあんなヤツばかりではない。あの事件でイスラム教徒を誤解しないで貰いたい」
というような虫の好いことを言っているインタビューなどはときどき見ますが、もっと大事な、指導的立場にある人々が事件をどう見ているのかということがなかなか報じられず、もどかしい想いにかられます。市井のムスリムと同じようなことしか言えないのなら、もはや指導的立場に居る資格は無いでしょう。教義に照らして、コーランに照らして無差別テロ行為はどうなのか、ということを明確に語って欲しいと思います。その結果、あれは確かに正義なのだという答えになったとしても、それによってムスリムならざる人々の覚悟が決まるということもあるはずです。
ISの狙いは、欧米にイスラム嫌いを蔓延させ、その反動としてイスラム世界側の反欧米感情を強めることで、世界全体を「イスラム」「非イスラム」の二項対立に持ち込むことにある……という観測もあります。そんなことにならないうちに、イスラム教内部での自浄作用を働かせて貰いたいと私は考えているのですが、甘い期待なのでしょうか。
(2017.3.25.) |