忘れ得ぬことどもII

『セーラ』再演

 『セーラ──A Little Princess』の再演がおこなわれました。2015年に初演した作品ですが、今回はオーケストラを全面的に改稿しました。2月末から5月はじめくらいまでは、他の仕事も少しずつ入りつつではありましたが、『セーラ』のオーケストレーションにかかりきっていました。
 作曲家にとって、初演よりも再演のほうが嬉しいものだったりもします。初演というのは自分の書いたものがはじめて音になるということで、もちろん嬉しさはひとしおなのですが、再演となると、初演に参加した人々であるとか、初演を聴いた人々であるとかが、ぜひあれをもういちど……と熱望されないと、なかなか実現しません。
 まあ、作曲家側の企画として再演がおこなわれることもありますが、これはややお手盛りな感じがして、再演の喜びというにはあたらないかもしれません。私で言えば、個展「この歌のとどくかぎり」で採り上げた曲などがそれにあたります。このときは、私は新作を用いず、かつてどこかで初演された曲だけでまとめてみました。
 しかし今回の『セーラ』再演は、ほぼ私のあずかり知らぬところで決定され、企画が動き出していたのです。「あれをもういちど上演したい」と考えた人が、思いのほか多かったということなのでしょう。こういう経緯ではじめられた再演企画というのは嬉しいものです。 歌手も、何人かの例外を除いて、ほとんどの人がふたつ返事で再演を承知した感じでした。役付きの中で、初演の際と歌手が代わったのは、前回の小林実佐子さんが子育て中のため辞退したベッキー、前回の佐藤真弓さんが体調を崩してしまい辞退したロッティ、前回の宮内直子さんがやはり体調がよろしくなく辞退した料理番の3人だけです。なおベッキー役は前回小林さんのアンダーを務めていた梅澤芳野さん、ロッティ役は公募で抜擢された谷口彩子さん、料理番役は前回アンサンブルとしてオンステしていた齋木智弥さんが演じました。料理番は前に女性であったのが今回男性になったわけですが、もともと、どのパートでもOKとして作ってあります。

 歌い手は比較的簡単に決まりましたが、オーケストラを集めるのは大変だったと思います。今回、半数以上が賛助で、インペク(オーケストラマネージャー)の吉原友惠さんが、知り合いに頼み、そのまた知り合いを紹介して貰い……という苦労をして、「ほぼフルオケ」という編成になるまで規模を拡大してくれました。
 「本当の」二管編成フルオーケストラと異なるのは、

 ・弦楽器の数が少ない。
 ・クラリネット奏者がひとりだけ。
 ・ファゴットの代わりにテノールサクソフォンとバリトンサクソフォンを導入。
 ・ホルンが2本。
 ・トロンボーンが2本。
 ・ティンパニを欠く。

 といったところです。弦楽器は普通の二管編成の場合、プルト(ふたりひと組の弦楽器)数でいえば、第一ヴァイオリンが5、第二ヴァイオリンが4、ヴィオラが3、チェロが2、コントラバスが1というようなパターンがよく用いられます。しかし今回は「1.5・1・1・1・0.5」というサイズでした。このため、よく使われるdivisi(パート分割)はほとんど使いませんでしたし、低弦をいささか信用せずバリトンサックスで重ねるようなことをよくやりました。
 クラリネットが1本というのは、やはり忙しくなってしまったようです。テノールサックスに第二クラリネットめいた役割を持たせたところもかなりありますが、やはり音としては違ってしまうのでした。
 ファゴットの代わりにサックスというのは、響きとしては悪くなかったと思います。もちろんファゴットに較べると甘さが目立ちますが。上記のとおりテノールサックスにはクラリネットの代用みたいなことをさせたところがあり、バリトンサックスは低弦を重ねるところが多かったりするので、もし本当に標準型の二管編成にすることがあればだいぶ改訂が必要でしょう。
 金管は、音量的には今回の2・2・2で充分なのですが、ホルンがかなり忙しくなってしまったのと、バストロンボーンやテューバが使えなかったので、低音が薄めであったのがやや残念でした。

 ティンパニは欲しい箇所もありましたが、なにぶんにもレンタル料が非常に高いため、今回は断念しました。その代わりというのもなんですが、ドラムセットを一式入れてあります。
 そんなこんなで、若干の物足りなさはあるものの、とにかく「ほぼフル」です。
 歌とオーケストラを初合わせしたとき、ほとんど歌が聴き取れなかったので愕然としましたが、ホール練習となってオーケストラピットに入ると、鮮やかに音色がマイルドになりました。

 それでも初ホール練習では、けっこう歌が埋没してしまう箇所がありました。一部から、オーケストレーションが厚すぎると言わんばかりの声が上がりましたが、これは曲が盛り上がってきたときにオーケストラが一緒になってテンションを上げてしまっていたためと思われ、2日後のゲネプロのときにはだいぶ良いバランスになっていました。さらにゲネプロのあとでも、埋没しそうなところをピックアップして練習しており、最終的にはまあまあ問題ないくらいまでバランスがとれるようになりました。
 さらに、今回は字幕をつけたのですが、これが甚大な効果を発揮しました。
 なんと、字幕が映されていると、歌詞がよく聴き取れるのです。いや、よく聴き取れる気がするのです。
 どんな言葉が歌われているのか、あらかじめわかっていると、そのように耳が聴いてしまうらしいのでした。ゲネプロではじめて字幕をつけてみて、その効果の絶大さに驚きました。私は作者でもあり、あらかじめほとんどの歌詞を把握しているのですが、それでも字幕が入ると、格段に聴き取りやすくなっていました。
 こんなに歴然たるものであるなら、初演のときも字幕をつければ良かったと思います。いや、実のところ私は字幕をつけたらどうかと提案したのですけれども、
 「え〜、日本語のオペラなのに字幕なんて……」
 「そんな予算は組んでません」
 等々と言われて却下されたのでした。歌い手としてはやや沽券に関わるような気がしたのかもしれませんが、案の定、言葉がよくわからなかったという批判が多く寄せられたようでした。
 だいたい、日本製の字幕装置をドイツやイタリアへ持って行って、ドイツ語やイタリア語で字幕を表示してみたら、

 ──なるほど、こんなことを歌っていたのか。

 と納得する観客が非常におおぜい居たという話があります。彼らも、自国語の歌詞であろうとよくわからないままに、「歌声」だけ聴いて喝采していたのでした。『孟姜女』シチリアで初演した際、観客のほとんどがわからないであろう日本語の歌詞なのに、曲がクライマックスに達したところで、まだ終わっていないのに満場の拍手を貰ったことがあります。それはそれで感動的な体験でしたけれども、

 ──こいつら、歌詞なんかどうでもいいんだな。

 とも思わざるを得ませんでした。それまで、日本語の歌いかたは難しいと誰もが言うので、ドイツ語やイタリア語なら、その国語民であれば誰でも理解できているのかと思っていたら、大間違いだったのでした。

 ともかく字幕表示は大成功だったと言えます。
 ただし、少し先の歌詞まで見えてしまうので、笑いをとりたいところであんまり笑いが起きない、というデメリットはありました。これは表示の切りかたにもよるのでしょうが。
 笑いのほうはそんな様子でしたが、泣かせるほうは面白いくらいに当たっていたようです。
 今日の本番は、私はまた終幕で舞台に出るため、前方出口近くに陣取っていました。マダムとは離れた座席で、マダムの席の近くには、招待したマダムの親類たちも坐っていたようです。
 その親類のひとりが、第一幕からもうボロボロ泣いていたと休憩の時に聞き、びっくりしました。第二幕ではどうなることやらと思っていたら、ひとりどころか2、3人が泣いていたとのことでした。
 あとで聞くと、オーケストラメンバーまで泣いていたような話でした。弦楽器や打楽器ならともかく、管楽器奏者が泣いてしまうと演奏に差し支えそうですが、そこはさすがにプロ、涙を押し殺して平常心で吹いていたようです。
 さらに、オンステしている歌い手まで泣いたというのでずっこけそうになりました。インド人の召使いラムダス役の橘茂さんが、第三幕のセーラカリスフォード氏の二重唱のところでこみ上げてしまい、二重唱が終わったあとのラムダスのセリフというかレチタティーヴォは、ほとんど泣き声になっていたそうです。
 「舞台に居る歌い手を泣かせちゃあきまへんわ」
 と、打ち上げの時に橘さんから文句(?)を言われました(もちろん私は褒め言葉として受け取っています)。
 歌詞の内容やメロディーもさることながら、やはりオーケストラによる音色効果が大きいように私には思えました。弦楽というのは「泣かせ」にはうってつけなのです。
 作者がいちばん狙って泣かせようとしたのは、第二幕終盤のラヴィニアのアリアです。作曲時に何度か触れましたが、ラヴィニアといういわば敵役に最上のアリアを置いたのは、『レ・ミゼラブル』への対抗意識です。エポニーヌという、原作ではいたって影の薄いキャラクターに、「On My Own」という素晴らしいアリアを与えていることに衝撃を受けて、その向こうを張るつもりで気合いを入れて書きました。歌詞の内容的に「二番手の悲哀」であるための受け容れやすさというのもあったかもしれません。何をどうやってもかなわない相手への嫉妬、その嫉妬そのものに対する自己嫌悪……という気持ちは、わりと誰にでも理解できるのではないでしょうか。
 次が上記の二重唱かな。『セーラ』の物語には恋愛要素は皆無なので、この二重唱は言ってみれば擬似的なラブソングとして書いてあります。ほんとのところ、私はベタベタなラブソングが大好きなのでした。いつでも書きたいと思っているのですが、案外と機会がありません。音楽劇でも、熊谷組で台本を書いていた麻稀彩左さんは恋愛描写がわりと淡泊、というか本人が照れてしまうのか恋愛展開になると笑いをとる方向に逃げてしまうことが多くて、私の好みのベタラブソングというのはあまり書けませんでした。片方からの切々たる想いということであれば『ダイアの涙』の奥さんのアリアなどがありますし、自作台本の『孟姜女』『愛のかたち』なども全曲そんな感じですが、二重唱による愛の歌となると、『星空のレジェンド』の中のヴェガアルテオの二重唱、『おばあさんになった王女』の中の木こりの二重唱くらいかもしれません。もっと書きたいんです、正直なところ。
 セーラとカリスフォードの二重唱は、養女にならないかと持ちかけるカリスフォードの言葉を受け容れるセーラという構図ですが、これを擬似的な求愛(求婚)とその受容のシーンと見なし、そういうつもりで作曲したので、甘々なのは当然なのでした。
 これに対し、肝心のセーラの独唱部分はわりに地味という意見もありましたが、今回の宮入玲子さんは、前回できなかったいろいろなことの雪辱という気持ちを持って取り組んだらしく、「ひとりぼっちのアリア」など鬼気迫るような完成度を見せていました。

 少しずつ、わかる人にはわかる小事故はありましたが、全体としては成功だったと言って良いと思います。二度目の歌い手たちはいずれも初演よりもずっとこなれていましたし、オーケストレーションの上でも現在の私にできる最上のものが出せたような気がします。
 しばらく時間が経てば、いくらか反省点も浮かんでくることと思いますが、とりあえずいまは再演の成功を喜びたいと思います。
 「またやりたいね」
 という人が関係者におおぜい居たのは前途に光明を見出した想いですし、
 「再々演に向けてはずみがついたね」
 と頼もしいことを言ってくれる人も居ました。特に賛助で加わってくれたオーケストラメンバーに「またやりたい」と望む人が多かったのが、私にとっては大きな喜びでした。
 最後になりましたが、ご来聴いただいた皆様、まことにありがとうございました。

(2019.6.16.)

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