明日(2019年8月25日)は県知事選挙があるのですが、マダムは週末に実家に帰っていて投票できないので、何日か前に期日前投票をしてきました。選挙の投票率というのは最近低迷しているようですが、期日前投票に関しては順調に増えていると聞きます。そのうち投票日投票よりも多くなるかもしれません。 さて、選挙のことを書きたいというわけではありません。マダムが帰ってきて言うには、投票を済ませて会場を出るときに、居並ぶ選挙立会人のかたがたが、声もかけてこず会釈も無く、まったく無反応だったというのでした。マダムとしては少しくらい反応したらどうなんだと言いたげでしたが、立会人がそういう態度をとる理由も彼女はよくわかっています。 しばらく前に、立会人が投票者に殴られたという事件があったのでした。 投票を済ませて帰ろうとした人に、立会人が 「ご苦労様でした」 と声をかけたところ、相手が急に怒り出し、 「てめえなんかに『ご苦労様』なんて言われる筋合いはねえ!」 と叫んで立会人を殴りつけたというのです。 ばかな話ですが、この事件があって以来、選挙の立会人は投票者への声がけをしなくなったのだとか。 投票所によっては、まだ声がけをしているところもあるかもしれませんが、おおむねそういうことになっているようです。 人への挨拶というのは、なかなか難しいものです。前に、ある先生の古稀だったかの祝いに、自分が出席できないので祝電を打とうとしたことがあり、そのときに「お慶び申し上げます」という文面が失礼に当たらないかどうか、あわてて調べたということがありました。マダムに 「それって、目上の人に対して使って良いの?」 と訊ねられたのです。言われてみれば私も自信が無く、泥縄でネットをあさりました。結果的に言えば大丈夫だったのですが、字をまちがえて「お喜び申し上げます」だとNGなんだそうで、思えば危ないところでした。同じ「よろこぶ」と読む字でも、喜と慶とでは意味が異なるらしいのです。どう違うかは上記リンクをご覧ください。 これは用字の問題でしたが、口頭で言い合う挨拶というのも、考えはじめるとややこしいことこの上ありません。使いかたによっては、最初に挙げた例のように、いきなり相手が怒り出すということもあるわけです。 「ご苦労様でした」というのは、よく考えてみれば確かに、目上の人に対して使うべき言葉では無いように思います。上の者が下の者に対してねぎらうときの言葉でしょう。あるいはせめて、同格の者同士で交わすのがせいぜいかもしれません。 似たようなニュアンスの言葉として、「お疲れ様でした」というのがあります。私は合唱指導などをして、時間が来てその日のレッスンを終えるときには、合唱団員たちに対して 「お疲れ様でした」 と言うことが多いのですが、私の指導している合唱団は、メンバーのほとんどが私より年上だったりするので、こう言って良いものか少し悩むことがあります。まあ、合唱指導という場では、「先生」である私のほうが立場が上なので、構わないだろうとは思うのですが、言われたほうはちょっとカチンとくることもあるのではないかと思わないでもありません。 合唱団員のほうは、もちろん、 「先生、お疲れ様でした」 とは言わず、 「ありがとうございました」 と言います。これはこれで、自然なやりとりというものでしょう。 合唱指導の場合は、指導をする側と指導を受ける側という立場がはっきりしているので、これで良いと考えます。 しかし、次のような場合はどうでしょうか。 ある会社で、ある企画を進めることになり、そのためにプロジェクトチームが組まれます。チームは一丸となって企画に取り組み、見事それを成功させます。さて、プロジェクトリーダーである「課長」に対し、その下で働いていたメンバーたちは、どんな言葉をかければ良いのか。 もちろん、 「(これまで私たちを適切に導いてくれて)ありがとうございます」 という言いかたもあるでしょうが、そんなに堅苦しくなく、もう少し「同じチームで頑張ったリーダー」として声をかけたい場合、言葉の選択に困りそうです。「ご苦労様でした」「お疲れ様でした」が使えないとすれば、どうすれば良いのでしょう。 「ご苦労様でした」にせよ「お疲れ様でした」にせよ、上司が部下を使いだてしたあとで言う言葉のように思えます。あとは、面倒くさい会議に出て疲れ果てている同僚に対して、お茶を差し出しながら使うくらいですかね。 「お世話様でした」という言葉もあります。若干「お礼」の気持ちが加わっているようでもありますが、それでも対等もしくはわずかに上程度の相手への挨拶という気がします。あるいは上下関係が明瞭でない相手か。たとえば、新入社員の母親が、親身になってくれた先輩社員に対して使うくらいなら良さそうですが、新入社員自身が使うのでは生意気な感じがするでしょう。 「ご苦労様でした」「お疲れ様でした」「お世話様でした」……どれも、目上の相手に対して使って良い言葉ではなさそうです。 では、目上の人の苦労をねぎらいたいときはなんと言えば良いのか。 実は日本語には、そういうときにふさわしい言葉が無いようなのです。 というか、「ねぎらう」という行為自体が、上から下に対してしか為しえないことであるようです。下の者が上位の人を「ねぎらう」ということはあり得ず、僭越になってしまうのです。 下の者としては、「ありがとうございます」としか言いようが無く、「もう少し親しみを込めた言いかた」というのはまだ発明されていないように思います。 まあ、言葉は生き物ですから、たとえば「お疲れ様でした」が今後だんだんと目上相手でも許される表現になってゆく可能性はあります。「共にひとつのことをおこなった(あるいは、ひとつの場に居た)上位の者に対して、軽い親しみと敬意をこめて慰労する言葉」というのが現在見当たらず、しかしそういう言葉を必要とする状況が増えるのであれば、その状況にマッチした表現というのが生まれてくると思います。 実際、格下の者から「お疲れ様でした」と言われてそんなに気にしない人も、少しずつ増えているような気がします。いまは過渡期なのかもしれません。使う相手を考えて使え、というところでしょうか。 さて、立会人を殴った事件、もうひとつ別の角度から考えてみます。 「てめえなんかに『ご苦労様』なんて言われる筋合いはねえ!」 と怒った、ということは、この男は、立会人が自分よりも立場が下であると考えていたことになります。目下の者から「ご苦労様でした」と言われたと思ったからぶち切れたのでしょう。 はたして選挙立会人は、投票者よりも格下なのでしょうか。この種の勘違いについても、私はつねづね首をかしげています。 これが商店であれば、店側はいちおう客よりも下の立場ということになります。「買ってやった」立場と「お買い求めいただいた」立場ですので、店頭という「場」においては、客が上位、主人を含めた店員が下位となり、問題はありません。 ただしもちろん、「場」が違えばその上下関係は成り立ちません。その店の主人が商工会議所の会頭で、客のほうがヒラ会員だということもあり得ます。会議所に行けば、上下は逆転するわけです。 上司と部下という明確な上下関係と違い、「主客」というのは場によって上下が変化することを、みんなわかっているがゆえに、お互いにそんなに無茶は言わない、という節度が働いてきたのが日本社会というものであったでしょう。 しかし近年、「客」の態度が急速にでかくなっているように思えてなりません。モンスタークレイマーと呼ばれるような連中はその最たるものでしょう。「お互い様」という感覚を失い、店に対して自分が絶対的な上位者であると勘違いしてしまうのです。 三波春夫が「お客様は神様です」などと言い出した頃から、そんな手合いが徐々に増え始めたのかもしれません。最初は一種のギャグだったし、聞くほうもそのつもりだったはずなのですが、真に受ける輩が増えてきたのでしょう。 その「神様」感覚が次第に拡大して、選挙立会人までが自分より下位だと思い上がるヤツが出てきたということです。 そいつにとっては、投票所はひとつの「店」であり、投票者は「客」であり、選挙管理委員や選挙立会人などそこに詰めている人々は「店員」であると思えたのでしょう。だから、「店員」である立会人が、「客」である自分に対して「ご苦労様でした」とは何ごとか、と怒り出したのです。 冷静に考えれば、そんな比較はおかしいとすぐわかるはずです。投票所は、別に選挙管理委員や立会人が好きで構えているわけではありません。彼らは投票者が投票したからといってなんらかの利益を得るわけでもありません。立会人がボランティアなのか日当を受け取っているのかは知りませんが、受け取っていたとしてもわずかな金額だろうと思います。それで朝早くから投票所に詰めていて、人々が投票してゆくのをただじっと眺めているわけです。不法な投票行動があってはいけませんから常に気を張りつめていなければならず、それでいて退屈きわまる時間を過ごしているわけです。 繰り返しますが彼らは好きで、あるいは利益のためにそんなことをしているわけではなく、投票民主主義というこの国の体制を支えるために、役目としてそこに詰めているだけです。とすると、むしろ投票者である私たちのほうから彼らに「ご苦労様です」と声をかけるべきなのではないでしょうか。この「ご苦労様」はむろん同格の相手への言葉ということになります。立会人と投票者に、上下の関係は無いのです。 かつて、司馬遼太郎さんが面白いことを書いていました。タクシーの運転手に対する、東京と大阪の客の接しかたの違いを論じたエッセイです。昭和30年代の話です。
大阪人は基本的に商売人であるため、タクシーに乗ったとしても、運転手を自分と同格の者と見て接するというのでした。つまり、その運転手も、もしかすると自分のところの店のお客になることがあるかもしれない。潜在的なお客様として相手を見る習慣ができているので、タクシーの運転手といえどもぞんざいな扱いをせず、丁寧な物言いをするのが常だ……というわけです。 いっぽう、東京はかつて武士の街であったためか、タクシーに乗ったとき、その場限りの仮の「主従関係」を結んだように感じ、使用人に対するように運転手と接する、とのこと。 いまとなっては、そうかなあ……と首をかしげる人も多いでしょうが、昭和30年代ころはそんな感じだったようです。 ここに書かれた東京人の態度が全国的に弘まってしまったのが、いまの日本なのかもしれません。 ただ、司馬氏はそのあとで、大事なことを書いています。 東京人は、「仮の主従関係」を結ぶために、下車するときには必ず運転手に心付けを渡す、と。 いくら昭和30年代の東京でも、運転手に心付け、つまりチップを渡す人が、そんなに普通だったとは思えないのですが、司馬氏のイメージしているのは銀座とか深川あたりの老舗の旦那といった人々だったのでしょう。 外国でタクシーに乗るとチップを渡すのが普通ですが、だいたい本来の運賃の1割とかその程度が相場です。千円の距離を乗ったのなら百円余計に渡すくらいが妥当なところでしょう。しかし、日本で相手にチップを渡そうとすると、百円なんてのはどうも気恥ずかしく、少なくとも千円、旅館なんかだったら五千円くらい出さないとみっともない気がしてしまいます。日本でチップの習慣が廃れたのはまことにもってありがたい限りなのですが、昭和30年代とは貨幣価値がだいぶ違っているとはいえ、旦那衆なんかがタクシーの運転手に渡していた心付けというのは、それなりの金額であったのではないかと思います。 運転手でも店員でも同じですが、客が「神様」というか上位者としてふるまいたいのならば、そのくらいのことはしないと格好がつかないのではないでしょうか。上位者には上位者のたしなみというものがあるべきで、心付けひとつ渡さずに、アルバイトに毛の生えた程度の店員相手に文句ばかりつけている手合いというのは、どうも何か盛大な勘違いをしているのではないかと思う次第です。 (2019.8.24.) |