中国史上「皇帝」と最初に名乗ったのは秦の始皇帝。従って、最初のラストエンペラー(妙な言い回しだが)は秦の二世皇帝胡亥(こがい)ということになる。だがその前史として、夏の桀王(けつおう)、商(殷)の紂王(ちゅうおう)、西周の幽王(ゆうおう)のケースを考えてみたい。
夏はいまだ実在が確認されていないが、「史記」に登場する最古の世襲王朝である。商は今世紀に入って実在が確認された。商を滅ぼしたのが周だが、犬戎(けんじゅう)の攻撃によって一旦亡び、王の一族の者が洛陽に逃げ延びて一地方政権に転落したのが紀元前770年。それまでを西周と言い、そのあとを東周と呼ぶ。
秦以降の統一政権に較べれば、黄河流域のきわめて狭い地域だけとはいえ、夏も商も西周も、一応は当時考えられていた中国全土を支配した王朝とされているから、その王は、皇帝と名乗ってはいなくとも事実上の皇帝と見てよい。
なお、王と皇帝は似たようなものと思っている人が多いが、中国史においてははっきりと、王は皇帝の下位概念となっている。皇帝から一部の土地の統治権を与えられた地方政権の主が王なのだ。もっとも、そうなったのは秦の統一以後のことで、春秋時代(770B.C.~403B.C.)までは王が最高統治者だった。その下にいた侯とか伯とかの封建領主が、次第に王をしのぐ実力を得て、てんでに王を僭称しはじめたのが戦国時代(403B.C.~221B.C.)。それらの王国を討ち滅ぼして天下を統一した秦王の政という男が、すっかり価値の落ちた王の称号を嫌い、あらたな上御一人としての称号を作ったのが「皇帝」なのである。
つまり、西周までの王と諸侯の関係と、秦以降の皇帝と王との関係が、ほぼパラレルと見てよく、この間に戦国時代の「称号のインフレ」がはさまっているわけだ。
従って、秦以降の「王」はキングと訳すべきではない。いいところプリンスである。
その点、西周以前の王は名実共にキングということになる。実は西洋のキングとエンペラーの関係にも微妙なところがあるのだが、さしあたって今は説明を省略する。
夏、商、西周。この3つの王朝の亡び方を見ると、ある意味で中国的亡国ということのプロトタイプを見る想いがする。それで、この3人のラストエンペラーならぬラストキングを検討してみたい。
すぐ気がつくのは、3人とも女で身を亡ぼしたと言われていることである。
桀王には妺喜(ばっき)、紂王には妲己(だっき)、幽王には褒娰(ほうじ)という、いずれも絶世の美女が配され、3人の王者はそれぞれに蕩かされ骨抜きになったことになっている。
そして、この3人の美女はみな、王の不興をこうむって身の危険を感じた周辺諸侯から、謝罪の貢ぎ物として王のもとに差し出されている。すなわち、妺喜は有施(ゆうし)氏から、妲己は有蘇(ゆうそ)氏から、褒娰は褒(ほう)侯から。
妺喜はいわゆる「酒池肉林」の宴を桀王に奨めて贅沢を極めた。私はこの言葉を知ったとき、「肉林」の部分に妙にエロティックな想像をかき立てられたが、食べるための肉を林のように立てておいただけと知ってがっかりした憶えがある。ともかくその酒池肉林、それからまた当時貴重品であった絹を裂く音を好み、ただ裂く音(裂帛の響き)を聴くだけのために全国から絹を徴収したという。
妲己は近年ある少年マンガ雑誌で有名になったが、淫らな音楽を好んで宮廷の音楽をそれ一色にし、炮烙(ほうらく)という残虐な刑罰を紂王に奨め、もともとはなかなかの名君であった紂王を堕落させたことになっている。
これに較べると、褒娰は自分自身は特に悪女とは言えなかったとはいえ、「笑わずの姫」として有名で、幽王は彼女を笑わせるために狂気の沙汰を尽くした。ある時、軍隊非常召集用の狼煙が間違えて上がってしまったことがあった。兵を率い、あわてふためいて駆けつけた諸侯が拍子抜けして眼を白黒させているのを見た褒娰は、はじめてクスッと笑った。その笑顔に参ってしまった幽王は、その後何度も、わざと間違いの狼煙を上げさせたのである。おかげで、幽王が犬戎に攻められた時には、いくら狼煙を上げても誰ひとり救援に来なかった。イソップのオオカミ少年の話そのままである。
ともあれ、女のために堕落し、非道の限りを尽くして自滅したという筋書きは共通している。
逆に言えば、この3つの話は、出どころが全部一緒ではないかという疑いも生まれる。
酒池肉林は妲己もやったと言われるし、裂帛の響きを楽しんだのは褒娰としてある本もある。
3人の美女の中で、その毒婦ぶりがいちばん際立っているのは妲己だが、それだけにいちばん作られたキャラという印象もあるのだ。
後世のある時期に、女にうつつを抜かしている主君を諫めるために、誰かがこんな話を創作したのではないだろうか。
褒娰は別としても、妺喜(ばっき)と妲己(だっき)とでは名前の響きもそっくり、その出身も有施氏と有蘇氏でそっくり、どうやら妲己の方が原型で、妺喜はあとからそれになぞって作られたキャラクターであるらしい。どうも実在性は疑わしいのである。
桀王と紂王のキャラクターも、「かぶって」いる。いずれも個人的には武芸にすぐれ、きわめて頭も良く弁も立ったことになっている。名君になる素質は充分にあったのに、女にたぶらかされて暴君になったとされる。
どうやらこれも、紂王のキャラクターが先にあって、あとから桀王の人物像が作られたと考えるべきであるようだ。そもそも夏王朝の実在自体が確認されていないので、桀王という人物がいたかどうかもわからない。紂王の暴虐ぶりがまず語られ、それが過去に投影されて桀王が作り出されたのではないか。
となると、さしあたって紂王のことを考えればよい。彼は女のためでないとしたら、なぜ亡びたのだろうか。
出土した甲骨文によって、紂王の実在ははっきりしている。そして、その人物像は、意外にも信心深く敬虔な王者ということであった。というのは、たびたび祭祀を執り行い、神託を受けていたという証拠が出てきたからである。大規模な減税もおこなったらしい。どうも、悪逆な暴君というイメージとは食い違ってきた。
ただ、何度も東へ向かって征伐の軍を動かしていることもわかった。商(殷)の故地は東方であるとされている。言ってみれば本拠地が不安定で、たびたび叛乱が起こっていたのを、自ら制圧しに出かけていたようなのである。
商という国は、きわめて精緻な青銅器を作っていたことで知られる。その後の周になると歴然と質が落ちるばかりか、青銅器において商を上回る技術は、その後の中国には出現しなかった。
それらを作っていたのは奴隷である。商は典型的な奴隷制王朝で、たびたび周囲に軍事行動を仕掛けては奴隷を狩っていた。しかも、この時代の墳墓には、むやみやたらと奴隷が殉葬されている。大切な労働力を、こんなに浪費してよいのかと思うくらいで、一体の墳墓から何千という遺骨が見つかっている。当時の人口を考えると、周辺の諸侯や人民にとって、商王朝の存在自体が脅威と化していた可能性も高い。
商は550年ほど続いたことになっている。その数字が正しいかどうかはともかく、こんなことを長く続けていては人々の怨嗟が高まるのも当然である。
お膝元の叛乱を鎮圧するために、何度も東へ向かって軍事行動を起こしていた間に、西から攻め寄せた周の軍勢に首都を陥されてしまった、というのが商滅亡の真相らしい。
周は人口が少なかった。西方は人口密度が低くて、商のように大量の奴隷を獲得する方法がなかったのだろう。それゆえに、奴隷労働に頼らずに生産活動をおこなうシステムを考案せざるを得なかったと思われる。もちろん周にも奴隷はいたが、ほぼ家内奴隷の域にとどまり、社会そのものが奴隷の存在を不可欠とするいわゆる奴隷制社会ではなかったと考えられている。
商から周への移行、商周革命と言われる変革は、いわば別種の体制の衝突であったようだ。カビの生えた奴隷制王朝を、新システムの王朝が打倒したと考えればよかろう。
天下分け目となった牧野の戦いでは、紂王は70万の兵を繰り出して周軍を防ごうとしたが、兵たちは周軍が近づくとたちまちその場に武器を捨てて恭順の意を表し、逆に商の首都朝歌に向かって進撃し始めたということになっている。70万などといったべらぼうな数字にこだわる必要はないが、ほとんどが奴隷兵であったろう商軍の兵士たちが、いくら数が多くてもろくに戦意がなかったろうことは想像できる。
ともあれ周は火事場泥棒的に天下を乗っ取ってしまったようなものらしいのだが、どうもそれでは体裁が悪い。そこで、商のラストキングであった紂王を悪逆非道の暴君に仕立て、天に代わって不義を討ったのだという名分を掲げた。紂王はもう死んでいるから、どこからも文句の出る筋合いはない。
ただ紂王の息子のひとりの禄父(ろくほ)という者を、祭祀を続けさせるために諸侯に封じたのだが、彼はのちに叛乱を起こしている。貶められた父のための抗議の行動だったのかもしれない。
禄父が攻め殺されたのち、紂王の甥に当たる、もう少しおとなしい微子開(びしかい)が宋の国に封じられた。当時は王朝を亡ぼしても、その一族を皆殺しにすると、祀る者がいなくなるため、祟りがあると信じられていて、このように祭祀を続けさせるべく領地を与えるのが常だった。
のちの話になるが、宋は春秋時代になかなか力をつけ、襄公の時代には天下の覇者にあと一歩のところまで迫ったのである。ただ、この襄公は一風代わった頑固な義理堅さを備えた男で、そのため勝てる戦にみすみす大敗し、おかげで覇者への望みも絶たれて失意のうちに死んだ。宋襄の仁(自分の立場も顧みずにカッコをつけて大物らしく振る舞い、結局大損するたとえ)という故事成語を生んで物笑いの種となったわけだが、襄公の異常な義理堅さには、やはり紂王の一族の末裔であったための気負いが感じられないでもない。
ところで幽王は、商を亡ぼした周の武王から数えて12代目の王である。彼の祖父に当たる第10代の厲王(れいおう)は暴君であったとされる。奢侈に流れ、贅沢をするために税を上げたと言うが、実際には周王朝の財政はこの頃だいぶ危なくなっていて、財政再建を試みたのではないかと思われる。しかし動機はどうあれ、増税は人々に不人気を呼ぶに決まっている。あちこちで怨嗟の声がささやかれたが、厲王は密告制度や密偵を駆使して不満の徒を摘発した。それで口に出して政治を誹謗する者がいなくなったので、厲王は得意になったが、もとより不満が解消されたわけではない。
紀元前842年、人民の一斉蜂起により、厲王は首都鎬京(こうけい)から逃げ出さざるを得なかった。この時の内乱は意外と深刻だったらしく、それまでの記録が一時に散逸してしまった、と司馬遷は「史記」に書いている。内乱後14年間、鎬京には王が不在であった。その間、召公と周公というふたりの大臣が「共に和して」政治をおこなったとされている。また一説には、共伯(共という土地の伯爵)に封じられていた和という名前の大臣が政務を代行したとも伝えられるが、いずれにしてものちに「共和国」という言葉の語源になった「共和」体制が続いた。おそろしく古い言葉だったんですね。
共和体制の14年のあと、厲王の息子の宣王(せんおう)が即位し、善政を敷いたので、人々はまた周王室を仰ぎ見るようになったとされる。
だが、厲王の増税策が、財政再建のためであったとすると、ことはそう簡単ではなかったかもしれない。宣王の善政というのは、多分減税が含まれていたに違いないが、それならば財政再建はどうなったのか。国家財政なるもの、今も昔も、為政者が個人的な倹約に努めるくらいではなかなか好転するものではない。抜本的に仕組みを変えない限り、拡大した赤字は滅多なことでは減らないのである。
財政危機は糊塗されたまま、なんとなく新しく即位した若い宣王の人気で世の中はもっていたものの、次の代、すなわち幽王の代になると、もはやどうしようもなく傷が拡がっていたのではあるまいか。
そうなると、褒娰などという女は問題ではない。褒娰が実在したかどうかなどは些細なことであり、幽王はずたずたになった王室財政を回復するため、祖父の厲王と同じ道を歩まざるを得なかったのではないかと思う。つまり、増税に次ぐ増税。増税すると、払えない人間は逃げ出すから、その負担はさらに少数の良民の肩にかかる。それが限度を超えると、中国の人民は突如として爆発する。その後気が遠くなるほど何度も繰り返された、王朝滅亡への一本道である。
幽王の正室の父、つまり側近中の側近であるはずの申侯(しんこう)が、突如反旗を翻した。史書には、幽王の寵愛が自分の娘から褒娰に移ってしまい、娘の産んだ王太子の宜臼(ぎきゅう)まで廃されてしまっていたので不満を持っていたと書かれているが、他にもいろいろ理由があったのだろう。
申侯は、叛乱を起こすのに、犬戎の兵に頼った。犬戎というのは西北方に住んでいた精強な民族だったらしい。幽王は追われ、驪山(りざん)のふもとまで逃げたがそこで殺された。
申侯は自分の孫で廃太子の宜臼をひっぱりだして即位させ、平王(へいおう)とした。平王を傀儡として、自分が天下を取り仕切るつもりだったのだろう。
だが、彼は甘かった。犬戎の軍はそのまま首都鎬京に居座り、そのあたりを略奪し尽くした。平王も申侯も、ほうほうの体で東へ向かって逃げ出さざるを得なかった。
かくして、西周は亡びた。洛陽へ都を移した東周は、さらに蜿蜒550年ほどの命脈を保つが、かつての天下人であったという権威だけでかろうじて生き延びている弱小地方政権に過ぎず、二度と天下に君臨することはできなかったのである。
夏が亡びたのも、商が亡びたのも、西周が亡びたのも、それまでに構造的に蓄積されてきた矛盾が噴出したためだったのだろうが、史書ではいずれも、最後の王が女にうつつを抜かしたから亡びたことになってしまっている。女の細腕が王朝を崩壊させるという物語は確かに面白いが、現実はもっとシビアなものだったのだろうと思う。
西周滅亡後、中国には実質的な「天下人」はしばらく途絶える。このあとの春秋戦国時代こそ、中国がいちばん躍動的だった時期と言ってよく、語り始めれば興が尽きないものがあるが、「ラストエンペラー」シリーズの趣旨からして、次回は一気に600年近くを下り、秦の天下統一後まで飛んでしまおうと思う。
(1999.5.22.)
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