LAST EMPERORS

第2回 胡亥(秦)の巻

 韓・魏・趙・斉・燕・楚といったほかの国々をことごとく討ち滅ぼして、紀元前221年、天下統一を果たした秦の王・(せい)が、手垢がついて価値の下がった王という称号を嫌って、皇帝という新語を作り出したことは前回書いた。中国には神話的な原初の帝王として三皇・五帝という合計8人の支配者がいる。もっともその8人の名前についても書物によりまちまちで、なんとも茫洋とした感があるが、ともかく中国人が自らの祖として尊崇していた。秦王の政は、自分の功績がこの三皇・五帝を合わせたほどのものに匹敵するというわけで、両方から字をとって皇帝という称号を発明したのだった。

 ついでながら、皇帝と、西洋語のエンペラーとは対応する言葉とされているが、概念は大きく異なる。エンペラーというのは、ローマ法皇から、ローマ帝国の正当なる継承者と認定された者に与えられた称号である。だから、フランス王あるいは英国王が、いかに強大な勢力を誇っても、エンペラーとは認められなかったのである。豊臣秀吉が天下を取っても征夷大将軍になれなかったようなものだ。ちなみに大英帝国という場合、この「帝国」は実はインドのムガール帝国の継承者を意味している。
 ヨーロッパにはエンペラーは常にひとりしかいない。ドイツ第2帝国の支配者はエンペラーではなくてカイザーであり、同時期のエンペラーは「オーストリア・ハンガリー帝国」の支配者であった。またロシアのツァーも皇帝と訳されるが、こちらはキプチャーク汗国の大ハーンの継承者という意味である。
 これらに対し、中華帝国の皇帝は、はるかに格が高い。意味合いとしては、まさに「すべてを支配する者」である。中華帝国というと、ある国境線で区切られたエリアを想像してしまうが、古来中国には国境の概念がない。少なくとも始皇帝以後なくなった。皇帝の支配する土地は全世界なのである。たまたま、生身の存在としての皇帝がいる場所から遠すぎたりして、直接支配が届かない土地については、そこの首長を任命して代わりに統治させているという建前だ。邪馬台国の女王卑弥呼も、そのようにして中華皇帝から倭という土地の統治を委託された者ということになっているのである。
 さらに言えば、日本の天皇は、これら皇帝ともエンペラーともさらに全く異なる独特な存在だが、今は触れない。

 ともあれ、天下を統一した秦王国は、晴れて秦帝国となった。始皇帝(最初の皇帝)となったもとの秦王政は、絶対者として地上に君臨することとなった。
 始皇帝の功罪については、あちこちで論じられているから、あまり深入りはしない。苛酷な暴君という固定イメージが続いていたが、このところ再評価の動きが高まっている。毛沢東思想によると、始皇帝は奴隷制社会封建制社会に「進歩」させたから善玉ということになっているらしい。だがそれまでの春秋戦国時代が奴隷制社会であった証拠はない(奴隷がいなかったという意味ではない)し、始皇帝がもくろんだのは封建制とは正反対の体制であった。
 始皇帝の意図したのは、徹底的な「法による支配」すなわち法治体制の確立であった。
 それまでは、中国のほとんどで、まともな法律は施行されていなかったのである。形としてはあっても、例えば偉い人には法律が適用できないとか、抜け道だらけであった。孔子にしてからが、法律の公開には反対で、
 ──法律を明らかにしたりすると、人々はその法律の抜け穴をくぐることばかり考えるようになり、人心が荒廃する。法律など作らずに、上の者の徳によって統治すべきだ。
 というのが孔子の言い分であった。孔子にしてからが、と書いたが、孔子こそ法律というものをもっとも嫌悪した人物だったのである。

 始皇帝はそれまでの情実による支配を一切排除し、全国を一元的な法の下に統治しようとした。そのためにそれまでバラバラだった文字度量衡を統一したが、これは大きな功績であったと考えなければならない。
 貴族というような中間支配層を一挙に廃止し、すべての人間が皇帝に直属するようにした。容赦もないほどの明快さである。
 始皇帝のやろうとしたことは、現代の眼から見るとそれぞれにいちいちもっともであることが多い。ただ、それは当時としてはあまりに斬新で、人々の理解力はその段階までは達していなかった。始皇帝に落ち度があるとすれば、面食らっている人々を徐々に啓蒙するという「迂遠な」方法をとらず、あまりに性急に自分の理想を実現すべく突っ走りすぎたという点にあるだろう。
 法による支配と言っても、現場においてはいろいろと問題が出てくる。また法を執行すべき末端の官僚たちが始皇帝の理想を充分に理解していたかどうかもあやしい。法をたてにして私腹を肥やすような連中も続出し(孔子はそれをおそれたのであったが)、人民は、法治のわずらわしさと苛酷さばかりを感じるようになってしまった。

 そんな不満がくすぶっているのを知ってか知らずか、始皇帝は紀元前210年、行幸中に沙丘(さきゅう)というところで息を引き取る。彼のあとを継いだのが、ちょうどその行幸に同行していた末子の胡亥(こがい)であった。
 秦帝国第2世皇帝・胡亥については、さまざまなまことしやかな物語が伝えられている。
 例えば……

 ある時始皇帝に、廬生(ろせい)という方士(道教の修験者のようなもの)が、あやしげな予言書を奉った。それには、
 ──秦を亡ぼすものは胡なり。
 と書いてあった。
 胡というのは北方に蟠踞していた騎馬民族のことであったから、始皇帝は彼らに亡ぼされたりしないように、万里の長城の建造を命じた。だが、この予言書の胡とは、実は二世皇帝となった胡亥のことであった……というのである。
 実際には、万里の長城を作ったのは始皇帝ではない。それまで趙や燕など、北辺に接している国々がそれぞれに騎馬民族の侵入をおそれて防衛ラインを築いていたのを、補修し、ひとつながりのものにしたのが始皇帝であったに過ぎない。北方騎馬民族は常に中国にとって脅威であり、長城の整備は、こんな予言書があろうがあるまいが、始皇帝にとっては不可欠の事業であった。
 この話が本当にあったとしても、廬生はあたりまえのことをあたりまえに言上したまでのことで、胡亥が国を亡ぼすなどということを予知していたわけではあるまい。

 胡亥が即位するに当たっての物語は、もっとドラマティックである。
 始皇帝は皇太子というものを決めていなかった。長男の扶蘇(ふそ)は英邁で仁徳が厚く、人々に慕われていて、扶蘇が次の代の皇帝になれば秦帝国も安定するだろうと噂されていた。ところが、彼はしばしば父の苛酷なやり方を諫めていたので、始皇帝は煙たく思い、扶蘇を長城の建設現場の監督として北辺に追いやった。
 人々は、これで扶蘇が後継者となる可能性はなくなったと考えて、落胆した。
 ところが死の直前になって、始皇帝は扶蘇に対して、
 ──帰り来て朕の葬儀を執り行え。
 という命令を発した。これは事実上の後継者指名である。始皇帝はやはり後継者としては長男を考えていたのである。北辺に追いやったのも、人々を統率する苦労をわからせようという親心だったのだろう。
 しかし、始皇帝のこの最後の命令は、結局遂行されなかった。
 当時、始皇帝の身の回りを世話していた宦官の趙高(ちょうこう)が、命令を握りつぶしてしまったのである。
 趙高は野心にあふれる男だった。英明な扶蘇が皇帝になってしまっては、自分の出る幕はない。そこで、胡亥を即位させようと陰謀を巡らせた。趙高は胡亥の家庭教師でもあり、胡亥が凡庸な男であるのを知っていた。胡亥を皇帝にし、自分が裏から操ろうと思ったのだ。
 そこで趙高は、始皇帝の遺勅を改竄し、扶蘇に自殺を命じる命令書を作った。
 同時に、丞相の職にあった李斯(りし)を仲間に引き入れた。李斯は荀子(じゅんし)の弟子で、法治体制の思想的裏付けとなる法家思想の徒である。始皇帝の有能なブレーンであった。彼を引き入れなければ、趙高の陰謀は夢想で終わってしまう。丞相の承認があってこそ、胡亥を皇帝として即位させることができるのである。趙高は李斯を車の中に呼び、ひそかに説得した。
 李斯ははじめは顔色を変えて抗ったが、趙高はおどし、すかし、なだめ、あらゆる論法と脅迫を用いて李斯を承諾させてしまった。
 改竄された命令書は扶蘇に届けられ、扶蘇は補佐者である蒙恬(もうてん)将軍の制止も聞かずにおとなしく自殺した。
 胡亥は即位し、咸陽(かんよう)の都に帰ると、自分の即位に文句を付けそうな兄弟姉妹を家族ごと皆殺しにした。

 ……というのが、胡亥即位について巷間伝えられる物語であり、史書にもこの通り記されている。
 だが、考えてみると、この趙高の陰謀が、どうして知れ渡ったのだろう。
 史書の記述を信じれば、その場には胡亥、趙高、李斯の3人しかいなかったわけで、この中の誰ひとり、陰謀を外に漏らしそうな者はいない。3人とも、漏らしたが最後命取りになるではないか。
 どうも誰かが、「講釈師、見てきたような嘘をつき」をやってのけたとしか思えない。
 秦が亡びたのち、その遺民たちは、
 ──あの時、胡亥などではなく、扶蘇が即位していれば、こんな亡国の憂き目を見なくてもよかったかもしれないのに。
 とつくづく回想したに違いない。扶蘇の人気のほどは、最初に秦帝国打倒を叫んで立ち上がった陳勝(ちんしょう)が、はじめのうち、縁もゆかりもない扶蘇の名前を騙っていたことからもうなづける。
 その無念の想いが、
 ──実は始皇帝は本当は扶蘇を指名していたんじゃないのか。
 という想像を産み、やがて上述のような物語に肉付けされて行ったのではあるまいか。
 始皇帝は、最初から胡亥を指名したのかもしれないのである。始皇帝は末っ子の胡亥を溺愛していたとも言う。それだから行幸にも連れて行ったので、当然後継者にするつもりだったと考えてもよいのではないか。
 しかし、そのあたりのすべての事情は、歴史の闇の中に埋もれてしまっており、真相は誰にもわからない。

 始皇帝が指名したかもしれないとはいえ、胡亥はやはり凡庸な皇帝であった。
 人間として愚鈍であったかどうかはわからない。なかなかに才子肌であったという説もある。だが、上に立つものとしてはまったく不適格であった。
 世の中が安定した時であれば、凡庸な皇帝の方が好ましかったかもしれない。意欲的なトップは、しばしば庶民にとっては大迷惑だったりする。
 だが、秦が天下をとってまだわずかに10年余り。秦に征服された旧六国の遺臣や遺民は大いに不満を抱いているばかりか、始皇帝の性急な社会改革がまだ人々に根付いていない。こんな時には緩急自在の舵取りが必要なのだが、胡亥にはその能力がなかった。
 始皇帝のやり方を教条的に真似て、長城や阿房宮、あるいは始皇帝の墳墓の建設に人民を徴発しまくった。
 いくら人件費が安くても、人夫として徴発した人民の食糧などを調達しなければならない。そのために税がうなぎのぼりに上がった。
 人々の怨嗟の声が満ち満ちた。

 帝位に就いたあとも、胡亥にはエピソードが多い。
 彼は何事も、趙高の言うなりになっていた。趙高が、
 ──皇帝たる者は臣下の前に軽々しく姿を現すべきではありませぬ。
 と言うと、その通りだと思い、宮殿の奥深くにこもって出てこなくなった。代わりに趙高が朝廷に立ち、百官に君臨した。
 趙高はある時、重臣たちがどのくらい自分に従うものか試したくなった。そこで、久しぶりに朝政の場に出てきた胡亥の前に、一頭の鹿を引き出して、こう言って献上した。
 「どうぞ、この馬をお収め下さい」
 胡亥は不思議に思い、
「おかしなことを言う。これは鹿ではないか」
と問い返した。
「いえ、馬でございます」
趙高は言い張った。
「なんでしたら、他の方々にお確かめあそばされますよう」
 そう言われた胡亥が百官に問いかけると、ある者は
「馬でございます」
と言い、別の者は
「鹿でございます」
と答えた。鹿であると答えた者は、あとで趙高に陥れられてことごとく処刑された。こののち、趙高に逆らう者は誰もいなくなった。
 ……世に言う「馬鹿」の由来だが、日本で言うバカのことを中国で馬鹿と呼んだ例は見られないので、どうやら俗説らしい。
 しかし趙高が専横を振るい、反対者を次々と処刑したのは本当である。丞相の李斯はそれを苦々しげに見ているだけだったが、趙高は先手を打って、口実を設けて李斯をも処刑してしまった。もはや何もかも、趙高の思うままであった。

 やがて、全国に叛乱が起こり、それはあたかも燎原の火のように燃え拡がった。
 秦の朝廷は、章邯(しょうかん)という男を総大将にして、叛乱軍の撃滅に当たった。だが、それはモグラ叩きのようなもので、あちらを撃破すればこちらで新たな叛乱が起こりという調子で、きりがなかった。章邯将軍の率いる軍団は連戦連勝しつつ、わずかずつにせよやせ細った。
 そしてついに、鉅鹿(きょろく)の戦いで、項羽(こうう)の率いる叛乱軍に大敗を喫してしまう。
 章邯は直ちに援軍を求める使者を咸陽に差し向けた。
 だが、使者は皇帝に目通りかなわず、それどころか趙高の手の者に逮捕されそうになり、章邯のもとに逃げ帰ってきた。章邯は絶望して、項羽に降伏せざるを得なかった。
 趙高としては、戦況を皇帝に知らせるわけにはゆかなかったのである。もし知らせれば、いくら凡庸な皇帝であっても、たちまち危機感を覚え、百官を召集して自ら政務を取りしきり始めるだろう。そうなれば、それまでに趙高がやってきた悪事が次々と暴露されるのは火を見るよりも明らかであった。その時が、趙高の最期の日となるのである。
 そのために、それ以前から、戦況を知らせる報告は、趙高によってシャットアウトされていた。
 だが、鉅鹿の敗戦と、その後の章邯の降伏は、大事件過ぎて、ほどなく都じゅうに噂が伝わってきた。このままでは、いくらシャットアウトしようとしても、噂が胡亥の耳に達するのを防ぐことは至難の業と思われた。
 趙高は、胡亥を弑殺することを決意した。趙高にとってみれば、当然の自衛行動であった。

 胡亥の最期も、すこぶる劇的である。
 趙高の進言によって、離宮の望夷宮にこもっていた胡亥は、突然咸陽の知事であった閻楽(えんらく)に包囲された。閻楽という男は趙高の子飼いの手下で、その養子になっていた(弱みを握られていたという説もある)。望夷宮を包囲すると、彼は胡亥の前に進み出て、自決を迫った。
 胡亥ははじめて趙高の正体を知り、激怒したが、すでに遅かった。彼は側にいた宦官に、
「どうして今まで趙高の悪事を朕に教えなかったのだ」
と訊ねた。宦官は小さくなって、
「お教えしなかったればこそ、私はこれまで生きてこられたのです。お教えしていれば、趙高をご信任すること厚い陛下は、私をお殺しになったことでしょう」
と答えたのだった。
 胡亥は閻楽に、趙高に会わせろと言った。閻楽は拒絶した。
 「ならば、一郡なりとも与えよ。朕はそこの王となるであろう」
「なりませぬ」
「王が駄目なら、万戸侯になりたい」
「なりませぬ」
「では妻子ともども庶民になることにする」
「趙高殿がそれがしに命じられたのは、あなた様の死のみでござる」
 胡亥はがっくりと首を落とし、言われるままに自刎して果てた。始皇帝の死後3年、紀元前207年のことであった。

 趙高はそのあと、胡亥の兄の子である子嬰(しえい)を秦王に立てた。本来ならば彼がラストエンペラーと呼ばれるべきであろうが、秦王という呼び方でわかる通り、子嬰はすでに皇帝ではない。叛乱軍が全国に割拠して、すでに皇帝としての実質がなかったので、もとの王という称号に戻したのである。
 それにしても、胡亥は即位直後に、兄弟姉妹を家族もろとも殺し尽くしてしまったはずなのに、この子嬰が生き残っていたのは不思議である。扶蘇の子であるとしている本が多いが、あるいはずっと遠縁の人物であったのかもしれない。扶蘇の子であれば始皇帝の孫になるが、子嬰にはすでに成人した息子がいたようである。50歳で死んだ始皇帝に、その3年後に成年に達している曾孫がいたとは考えずらい。
 子嬰は趙高の誘いを受けても、宮中に出かけなかった。しびれを切らした趙高が自ら連れ出しに来たところを、子嬰は自ら刺殺した。諸悪の根源であった趙高も、かくしてとどめを刺された。
 子嬰はすぐに、咸陽に迫っていた劉邦(りゅうほう)の軍に書を送り、降伏した。劉邦は彼を鄭重に扱ったが、そのあとで咸陽に乗り込んできた項羽は、子嬰の頸をはねてしまった。本来の秦の人民たちが劉邦を慕ったのも当然であったろう。ともあれ、中国最初の統一帝国である秦は、帝国成立後わずか15年で亡びたのである。

 秦帝国第二世皇帝胡亥。凡庸・暗愚の皇帝と呼ばれつつ、その生涯は、ある意味面白すぎるほどのエピソードに彩られている。はたしてそのどこまでが彼の実体だったのだろうか。

(1999.5.23.)


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