前回扱った蜀(しょく)の建国は221年、滅亡は263年。42年間に2代の皇帝(昭烈帝劉備、後主劉禅)が立った。もっともその大部分にあたる40年間は後主の治世である。ほとんどひとりと言ってもよい。
一貫してその敵であった魏(ぎ)は、蜀の1年前(220)に建国し、2年後(265)に滅亡した。その間45年。しかしこちらは、5人もの皇帝が立っている。しかも異様なことに、皇帝としての諡号(しごう=おくりな)を持つのはそのうち3人だけである。すなわち、初代文帝曹丕(そうひ)、2代明帝曹叡(そうえい)、そして最後の5代元帝曹奐(そうかん)である。
3代目の曹芳(そうほう)と4代目の曹髦(そうぼう)には帝号がない。曹芳は斉王という王号を貰うにとどまり、曹髦に至っては高貴郷侯という、諸侯の号を与えられたのみであった。
異常な事態である。蜀の後主が長い治世を謳歌している間に、魏では何が起こっていたのだろう。
魏の初代皇帝は曹丕だが、実際にはその父親である曹操(そうそう)がすっかりレールを敷いていたと考えてよい。実際、曹操は帝位には就かなかったが、曹丕は自分が即位してから、亡父に武帝という帝号を贈っている。
曹操は人材マニアであった。一芸にすぐれた人間がいると聞くと、矢も楯もたまらず自分の幕下に置きたがった。
──自分の兄嫁と通じ、賄賂を受け取るような男でも構わない。才能さえあれば推薦せよ。
という布令を出したのは有名である。この布令は漢の高祖に仕えた謀臣陳平(ちんへい)の故事に基づいたものだが、人格は問わない、才能さえあればよい、という態度は、後漢の「人格本位の人材登用(第4回参照)」に対する正面きったアンチテーゼであったと言ってよい。
それゆえ、在野の才能ある人々はこぞって曹操の幕下に投じた。当然であろう。
諸葛孔明(しょかつこうめい)は、曹操に仕えようとする友人に向かって、
「曹操のところには、すでに多くの有能な人材が集まっている。君が行っても、その中で頭角を顕わすのは難しいだろう。考え直したらどうか」
と言ったという。孔明が曹操に仕えず、劉備という弱小勢力に投じたのは、まさにその理由によったのかもしれない。幸い孔明には、人格的に後ろ暗いところはなかったので、曹操のもとでなくても力を発揮する自信があったのに違いない。
ともあれ、曹操は他人の才能を愛したゆえ、彼のもとには玉石混淆、雑多な連中が集まってきた。
それが曹操にとって大きな力となったことは疑いない。
だが、物には必ず両面がある。彼が見境なく人間をかき集めたため、魏の45年間、権勢争いや内乱が絶え間なく発生してしまった。結果的にこれが魏の国力をそぎ、司馬氏に付け入られる隙となったのである。
そもそもの最初から、魏は内乱の危険をはらんでいた。文帝の実弟曹植(そうしょく)を担いで権勢を握ろうという一派があったのだ。
文帝も、その父の曹操も、武将としてはもちろん、文学者としても非常に卓越していた。が、曹植は父や兄を遙かにしのぐ文才の持ち主だったようだ。才能マニアの曹操としては、曹植の方を愛したのも無理はない。だがそれが、曹植の取り巻きの家臣たちに要らぬ希望を抱かせてしまった。
幸い、側近の動きに危険を感じた曹植自身が身を引くことで、この時の内乱は避けられたが、最初から縁起でもない話ではある。
文帝はこれに懲りたのか、兄弟や親戚に対しては油断しなくなった。一族を一応各地の王侯に封じはしたものの、露骨な監視役を送り込み、お互いの行き来も禁止した。外出さえ自由にできなかったというのだから、一種の軟禁状態で、その息苦しさと言ったらなく、皇族の籍を離れたいと願う者があとを絶たなかったという。
これがまた裏目に出た。後半の司馬氏の専横に対して、魏の皇族は誰ひとりとして立ち上がらなかったのである。立ち上がる義理も感じていなかったし、立ち上がるだけの力もなかったのだ。
忠誠心などといった人格的なファクターではなく、ただ才能だけで曹氏に従っていた人材たちやその子孫は、新しい権力者である司馬氏に簡単になびいた。曹操がもう少し忠誠心を植えつけていればそうはならなかっただろうが……
ともあれ、魏の歴史を駆け足で眺めてみよう。
まず即位7年目で文帝が没した。その息子の曹叡があとを継いだが、曹叡は最初、皇太子であることから外されていたという曰く付きの人物だった。文帝の皇后は、曹操と覇を競った袁紹(えんしょう)の次男の妻だった熈(しん)氏で、袁紹の一族が曹操に亡ぼされた時、その美貌を文帝に見そめられてお手つきとなった女性である。が、
──美人は3日で飽きる。不美人は3日で馴れる。
という俗諺を待つまでもなく、齢をとれば容色も衰え、当然寵愛も薄れる。
熈皇后は、文帝が他の女に心を奪われたのを恨んで、呪詛をおこなった、という罪状により廃された。曹叡はその熈皇后の産んだ子であったため、皇太子を外されたのである。
だが、文帝は40歳の若さで没したため、他に成人した男子がおらず、やむなく曹叡が復帰したという経緯がある。
明帝曹叡は最初の頃、そのおくりな通り、なかなか明君ぶりを見せた。
文帝の死で、蜀や呉が一斉に蠢動を始めたのは当然だったろう。まずは文帝の寵臣であった孟達(もうたつ)が蜀に寝返る。もともと蜀からの降将であり、文帝にあまりに寵愛されたため、ほかの家臣たちに憎まれ、文帝が死ぬと宙に浮いた存在になってしまった。そこへすかさず、諸葛孔明が調略の手を伸ばしたのだった。
孟達が寝返ってしまうと魏は危ないところだったが、間一髪、司馬仲達(しばちゅうたつ)の機転により、孟達は事前に討たれてしまう。蜀からの危険はひとまず防止できた。
呉からも、文帝の死に乗じて軍勢が攻め寄せてきた。明帝は、みずから親征することによってこれを撃退した。このあたりは、颯爽たる青年皇帝の面目が躍如としている。
だが、一通りの危難が去ると、明帝はだらけてしまう。
彼は2代皇帝だが、事実上は3代目である。3代目というのは、我が国の足利義満、徳川家光の例を見てもわかるが、たとえ資質として英明ではあっても派手好きの浪費家である場合がほとんどだ。
──売り家と唐様で書く三代目
という川柳があるが、生まれついての支配者であることが多いため、無駄遣いに抵抗感がないのである。足利義満は金閣寺、徳川家光は東照宮という、無駄遣いの象徴のような建造物を造っているが、明帝もやはりこの例に漏れず、ひとまず蜀と呉を撃退したあとは、やたらと巨大建築を好んだ。
天下が完全に治まっているのだったら、それもまたよかろう。だが、天下はいまだ三分されたままなのである。
当然ながら、税は上がり、国庫は傾き始めた。
明帝の治世中、蜀の諸葛孔明は懲りもせずに何度も侵攻の気配を見せたが、蜀の国力からして、魏の中枢部に迫るまでには至らなかった。いわば辺境での小競り合いが続いていただけである。曹操の子飼いの猛将であった曹真(そうしん)や、その死後征西都督になった司馬仲達がよく防いだということもある。
小うるさい諸葛孔明はやがて陣没した。成都へ撤退する蜀軍を、司馬仲達は追わなかった。これにより、
──死せる孔明、生ける仲達を走らす(この場合、逃げ出させるという意味)。
と言われたが、魏軍にも、長途成都を衝くほどの力はなかったというのが真相だろう。
これにより、ひとまず蜀の脅威は去ったが、代わって遼東の公孫淵(こうそんえん)が呉に通じて反旗を翻した。公孫淵は魏に服属はしていたが、その版図である遼東は当時の地理感覚からすれば文字通り東の果てであり、魏の直接支配は及んでいなかった。事実上の独立国だったのである。
公孫淵の討伐にも、あの司馬仲達が派遣された。蜀軍を追うことはできなかった仲達だが、今度は完膚無きまでの勝利をおさめ、公孫一族をことごとく誅殺した。なお、これにより倭国の使者が洛陽まで行けるようになり、三国志の「魏志」に「倭人の条」つまり魏志倭人伝が収録されることとなったのである。
明帝は、この時死病の床にあった。司馬仲達はかろうじてその臨終の席に間に合うことができた。公孫氏の滅亡を聞いて死ぬことができたのは、明帝のまだしもの幸運だったろう。時に36歳。父・文帝よりもさらに若い死である。
明帝は子ができなかった。そのため、一族の中から曹芳(そうほう)という少年を養子にして、これを皇太子としていた。正確に明帝とどういう関係の人物であったのかはよくわからない。
曹芳、この時8歳。幼君である以上、有力な家臣が政務を代行することになるのは当然である。明帝は遺言で、何人かの重臣に曹芳の後見を託した。
託すならひとりにすべきだったのである。やがて重臣たちの間に権勢争いが起きるのは明らかであった。具体的には、曹爽(そうそう=征西都督として仲達の前任者だった曹真の息子)と司馬仲達との争いになった。
司馬仲達は10年の間雌伏し、ボケ老人を装ってまで曹爽を油断させて、ある日突然起ち上がって曹爽の一党を一網打尽にした。
これを仲達の腹黒さとか執拗さとか見る向きが多いが、私は別の解釈をしている。
仲達という男は、その行動を見る限り、きわめて小心者である。戦功はずば抜けていたが、むしろ手柄の立て過ぎをおそれていたようだ。目立つまい、目立って打たれるまいという保身の配慮がおそろしく強く、それが彼のイメージに陰険さを加えているように思える。とても天下を狙っていたとは思えない。
多分彼は、曹爽と争う気はなく、本当に引退したつもりだったのではないか。
ところが、曹爽はやり過ぎた。あたかも自分が皇帝であるかのように振る舞い、増長した。
司馬仲達は、その様子を見て、皇帝曹芳のために憤り、70歳の老躯を推して曹爽を打倒したのだろうと、私は考えている。
現に、曹爽を打倒して2年後、仲達が死ぬまでは、司馬氏の専横はそれほど目立たない。
司馬一族がその牙をむき始めたのは、司馬仲達が死に、その長男の司馬師(しばし)が大将軍の地位についてからのことである。
司馬師はかつての曹爽以上の専横を振るった。すでに成人していた皇帝曹芳が、これを面白からぬ想いで見ていたのは当然であろう。そして、その視線を司馬師が過敏に受け止めたのも無理はない。
司馬師は、明帝の皇后だった郭(かく)皇太后を説いて、曹芳を廃して斉王に落とした。三国志演義では曹芳がクーデターを謀ったことになっているが、これは後漢の献帝が曹操に対してクーデターを謀ったのに呼応させるための文学的な辻褄合わせらしい。
曹芳に代わって皇帝となったのが、曹髦(そうぼう)である。
が、司馬師による皇帝廃立を糾弾すべく、毋丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)が兵を挙げた。毋丘倹はかつて東北に蟠踞する高句麗(こうくり)を攻めて壊滅寸前にまで追いやった勇将である。ただし公孫淵の討伐には失敗したから、司馬仲達の能力には及ばなかったのだろう。
この叛乱は、両者の連携がうまくゆかず各個撃破されてしまう。この時文欽を討ったのは、諸葛孔明の族弟にあたる諸葛誕(しょかつたん)であった。
が、叛乱の原因となった司馬師の方も、討伐の途中で病気になり、ほどなく死んでしまう。弟の司馬昭が代わって権力を引き継いだ。
すると今度は、前回の叛乱の鎮圧に功績のあった諸葛誕が、自ら叛乱の兵を起こした。
だが、もはや諸葛誕に呼応して起ち上がる勢力はなかった。あっさりと鎮圧される。諸葛誕は明らかに、時勢を読み間違えたのである。叛乱するならば、さきの毋丘倹らの乱に呼応するべきだったのだ。
蜀の劉備には諸葛孔明、呉の孫権にはその実兄の諸葛瑾(しょかつきん)が仕えて重用された。そして魏にはこの諸葛誕がいたわけだが、後世の人々はこれを見て
──蜀は龍を、呉は虎を、魏は狗(いぬ)を得た。
と言った。この戦略眼のなさを見ると、その評もあながち不適当ではない。
司馬師と司馬昭の兄弟は、やることがよく似ていた。が、司馬昭の方が周到かつ徹底的であったと言える。司馬仲達に天下盗りの野望があったかどうかは微妙なところだが、司馬昭は完全に天下をとるつもりでいたようである。宮廷内で自分に反対しそうな朝臣たちを次々と粛正し、着々と勢力を扶植した。
皇帝曹髦は、司馬昭の野望に気づいたようで、それを阻止しようとしたが、もはや手遅れだった。曹髦の勅命を奉じて司馬昭を討とうとする人間など、すでにほとんどいなくなっていたのである。
曹髦は思い余って、身の回りの側近だけを引き連れて自ら司馬昭を誅殺しようと試みたが、逆に殺されてしまう。中国の長い歴史の中で、殺された皇帝も数多いが、手ずから臣下を討とうとして逆襲されて死んだという例は他にあまり見当たらない。
司馬昭は曹操の孫に当たる常道郷侯の曹奐(そうかん)を連れてきて皇帝に即位させた。
もはや国内に敵はいないと見た司馬昭は、宿敵・蜀に兵を送った。姜維(きょうい)による連年の出兵で国力を疲弊していた蜀は、もはや抵抗できなかった。
この戦争には、司馬昭自身は出馬していないが、ともかく蜀を降したことは、ただでさえ絶大なものになっていた司馬昭の権勢と権威をさらに拡大することになった。彼は晋公の位を与えられ、翌年晋王となった。魏公から魏王となった曹操の伝に倣ったようである。もはや司馬昭が帝位を簒奪するのは時間の問題と思われた。
皇帝曹奐は、自分の役割をよく心得ていた。廃された先々代、殺された先代の轍を踏むまいと努めた。自分は、司馬昭に帝位を譲るために即位させられたのだとわかっていた。
朝臣の大部分は、もはや自分より司馬昭に従うようになっている。変な考えは起こさない方がよい。彼は殺されたくはなかった。ただただおとなしく、司馬昭の言うなりに生きていればよいのだ。
ちょっとしたアクシデントがあった。帝位を譲られる前に、司馬昭が病死してしまったのである。
だが、さしたる問題は起こらなかった。司馬昭の長子である司馬炎(しばえん)が、予定のプログラム通りに動いて、曹奐から帝位を禅譲され、晋王朝を開いたのだった。曹奐は玉座を降りて、心底ほっとしたことであろう。彼は陳留王に封じられ、こののち37年も生きて、302年に57歳で死んだあと、晋から元帝という諡号を贈られた。
彼が死んだのは、晋王朝が同族争いで乱れに乱れた、いわゆる「八王の乱」の真っ最中である。ただ禅譲劇のためにだけ帝位に就いていた曹奐は、司馬一族の殺し合いを見ながら、多少溜飲を下げたであろうか。
三国志の蜀・魏について長々と書いてきたので、呉についても触れておかなくては片手落ちであろう。
呉のラストエンペラーは孫皓(そんこう)。大帝と呼ばれた初代孫権から4代目である。
孫権が皇帝を称したのは他の2国より遅く、229年のことである。晋に亡ぼされたのは280年。年代記的にはこれをもって三国時代の終焉としている。51年間保ったのだから、国としての長命競争では三国でトップであった。まあ五十歩百歩ではあるが。
もっとも、51年間の内訳を見ると、最初のほぼ半分、23年間は孫権の治世だった。孫権は司馬仲達と並んで三国志では長生きで、71歳まで生きている。
孫権は、夭折した兄孫策(そんさく)から、
「江東の衆を挙げ、機略をめぐらせ、天下に覇を唱えることでは、お前はわしに及ばぬだろう。だが、賢者を登用し、適材を適所に配置し、江東を平穏に保つことでは、わしはお前に及ばない」
と遺言された男である。人材登用が巧みで、すぐれたバランス感覚を持っていたのである。周瑜(しゅうゆ)、魯粛(ろしゅく)、呂蒙(りょもう)、陸遜(りくそん)と言ったすぐれた将軍が踵を接して出現したのも、彼の人を見る眼の確かさであったろう。文官でも、先に挙げた諸葛謹ほか、多くの人材が集まっている。
実際、江東の政権は一種の豪族の寄り合い所帯という性格があり、孫権は上御一人の皇帝と言うよりは豪族連合の盟主という立場に近かった。バランス感覚と人材鑑識眼を備えていなくては、とても国を保つことなどできなかったのである。
若い頃の孫権は、確かに英明な資質を備えていた。多くの人材が、
──この殿のためなら。
と張り切ったのであり、それだからこそ赤壁の戦いで何倍もの兵力を誇る曹操を撃退することもできた。
が、晩年は欠点が目立つ。
彼の欠点の最大のものは、酒乱であることだった。酒を飲むと人変わりしたように乱れてしまう。
自分でも自分の酒乱に愛想を尽かし、
「酒に酔っている時の朕の命令には従わずともよい」
という勅命を出したりしている。
酒乱もさることながら、彼の場合はまさに老害という言葉がぴったり来る。晩年、かつての正確な人材鑑識眼はどこへやら、やたらとえこひいきをし、寵愛する家臣ばかり近づける、絵に描いたような暗君になってしまった。名将陸遜すら、後継者問題で孫権を諫めたのが気に入られず、その後は冷遇されて憤死している。
──もともと孫氏はわれらが立てて皇帝となったのではないか。それなのに、こんな扱いを受けるとは耐え難い。
そう感じる者が、孫権の晩年には多くなった。だが、孫権の生前は、それでも彼自身のカリスマでなんとかもっていた。
そのあとは、蜿蜒とお家騒動や権力争奪戦が続く。皇太子に立てられていた孫登(そんとう)が早死にしたので、代わって孫和(そんか)が立てられたが、老いた孫権は新皇太子よりもその弟の孫覇(そんは)を溺愛した。当然ながら、皇太子派と孫覇派と、廷臣はまっぷたつに割れた。やむを得ず、両方を退け、その下の弟の孫亮(そんりょう)を皇太子にせざるを得なかった。
この孫亮が二世皇帝となったが、その治世の前半は諸葛謹の子である諸葛恪(しょかつかく)に牛耳られた。同族の孫峻(そんしゅん)と謀って諸葛恪を誅殺したはいいが、今度は孫峻の操り人形となってしまう。孫峻は病死したが、彼の従弟の孫綝(そんちん)がその権勢を引き継ぎ、孫峻以上の専横ぶりを発揮した。皇帝孫亮は今度は孫綝を退けようとしたが、逆に廃されてしまった。司馬師が曹芳を廃したのと同じパターンだが、孫綝は同じ孫氏であった点、司馬師ほど抵抗は呼ばなかったかもしれない。
孫綝は代わって孫亮の異母兄の孫休を立てる。これが景帝だが、景帝はほぼ即座に孫綝を誅殺することに成功した。
呉王朝はようやく権臣の跋扈から立ち直り、景帝のもとに清新な世の中が再来するかと思われたが、あいにく景帝は在位わずか6年で没する。蜀の後主劉禅が魏に降った翌年(264)のことである。ついに三国鼎立の一角が破れてしまったことに気落ちしたのかもしれない。
景帝の皇太子はまだ幼かった。この危急存亡の時に幼君では心許ないという重臣たちの衆議により、代わりにあとを継いだのが、かつて廃された皇太子孫和の子である孫皓であった。
史書には、孫皓は稀に見る暴君であったように描かれている。
眼球をくりぬく、顔の皮をはぎ取るといった残虐な刑罰を実施する。気に入らない宮女を水に投げ込んで溺死させる。廷臣たちが戦々兢々として隙を見せなくなったため、面白い刑罰が見られなくなったというので怒り、酒席を設けて宦官に監視させ、些細なことで罪に落とす。傾きかけた国庫をものともせず大建築を始める。
これでもかと言うほどに、いっそ痛快とも言える暴虐ぶりが書き連ねられている。
が、前回、劉禅はさほどに暗愚とは言えなかったのではないかと考察したのと同様、孫皓の暴君ぶりも多少は割り引いて考えるべきかもしれない。なにしろ孫皓をどれだけ悪し様に書いても、誰も文句は言わなかったのであるから。
孫皓は、たがのゆるみ始めた呉王朝を立て直すために、徹底した恐怖政策をとらねばならないと腹を据えていたという可能性はある。大建築にしても、皇帝の威信を高めようとしたのかもしれない。
だが、すべて逆効果だった。人心は離れ、国内に怨嗟の声が満ちた。
名将陸遜の子である陸抗(りくこう)がかろうじて国境線を護っていたが、その死後、晋軍が攻めてきた時には、もはや誰も抵抗しようとはしなかったと言われる。
孫皓は捕らえられ、洛陽に送られた。
晋の重臣だった賈充(かじゅう)は、孫皓に対し、
「ああいう残虐な刑罰を施していたのは、一体なんのためだったのですかな?」
と、いやがらせのような質問をした。孫皓は賈充の顔をじっと眺めてから、こう答えたという。
「あるじを弑し、あるじに不忠を働くやつばらへの見せしめですよ」
魏に仕えながらいち早く司馬氏に通じて、曹髦の弑殺や曹奐の禅譲劇に積極的に関わった賈充は、これを聞いて顔が上げられなかったと伝えられる。孫皓のクリティカルヒットだが、案外彼は本気でそう思っていたのかもしれない。
孫皓は殺されることもなく、帰命侯の称号を受け、このあと4年生きて284年に病死した。43歳だった。
三国志のラストエンペラーたちは、こうして三人とも、比較的優遇され、いずれも自然死を迎えることができた。凄惨な殺し合いが相次いだ三国志の幕切れとしては、あっけないというか、まあめでたしめでたしというべきだろうか。
しかし、亡びた国のラストエンペラーが優遇されたのは、しかし彼らが最後と言ってよい。このあと、中国は五胡十六国時代、さらに南北朝時代に入り、牧歌的な禅譲劇やおためごかしの封侯を演出している余裕はなくなってしまう。前王朝の皇族は、幼児といえども残らず殺し尽くさなければ、安心できない時代になってしまったのだ。
その意味では、まだしも古き良き時代だったのかもしれない。
(1999.6.11.)
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