中国の皇帝の名は、唐代から宗廟名で呼ばれるようになっている。戒名みたいなもので、死んでからつけられるのである。従って後継者の居なかった皇帝、後継者に帝位を抹消されてしまった皇帝は「何宗」というような名前がない。
今回触れる明王朝もその通りなのだが、明代と清代は、一世一元の法が施行された。つまりむやみと改元せず、ひとりの皇帝の治世はひとつの元号で通すことにしたのである。日本は明治以降になってようやくそうしたのだが、中国では600年近く前からそうだったわけだ。
前にも触れたが、宗廟名には重複が多い。王朝の始祖を太祖もしくは高祖と呼び、2代目はたいてい太宗と呼ぶ。神宗、世宗、武宗なども沢山いるので、混同してしまいかねない。そこで、明代の皇帝からは、その皇帝の元号で呼ばれることが多い。太祖・朱元璋は洪武という元号を用いたので洪武帝、その息子の成祖は永楽という元号なので永楽帝という具合に。
今回扱うラストエンペラーも、本当は毅宗(きそう)皇帝と呼ぶべきなのだが、これも元号をとって崇禎(すうてい)帝と呼ばれる。ラストエンペラーなのに宗廟名を持っているのは、ひとつには例によってその後継者と称する皇族が何人か擁立されたのと、もうひとつには明にとってかわった清としては崇禎帝に別に恨みはなかったからであろう。
明を亡ぼし崇禎帝を自殺に追い込んだのは、大順皇帝を称する李自成(りじせい)であって清軍ではない。むしろ清は、崇禎帝の仇を討つためという大義名分を掲げてなだれ込んできたのであって、そうであってみれば崇禎帝に毅宗という宗廟名を贈ることを拒否する必要はないわけだ。
以上、本題に入る前に少しばかり名前について考えてみた。
朱元璋(しゅげんしょう)が明という国号を建てたのは1368年。日本では南北朝争闘の余燼がまだまだおさまっていない頃である。そして崇禎帝の自殺により明が亡びたのが1644年で、日本では徳川幕府による鎖国令が発布された頃となる。その間276年、まあまあの命脈を保っている。
ただし、中盤以降、妙な皇帝が何人も出現した。
第11代正徳帝はラマ教に凝り、お忍びで遊び歩いたり、忽然と北辺に出現して前線を視察したりすることを好み、16年の治世中ほとんど朝廷に姿を見せなかった。
次の嘉靖帝は道教にのめり込み、宋代の「濮議」(第13回参照)と酷似した「大礼の議」(皇帝の父たる「皇考」を、先帝の正徳帝──嘉靖帝の従兄にあたる──とすべきか、それとも実父とすべきか、という議論)という不毛な論争で、自分と意見の違う廷臣を200人ほど投獄するという馬鹿な真似をした揚句に、政務を完全に放棄し、以後24年間朝廷に臨むことがなかった。
第14代万暦帝となると、48年間というきわめて長期間帝位に就いていたが、9歳で即位したので当然ながら最初のうちは政務に関わらなかったのはよいとして、この皇帝も後半25年間、全く朝廷に足を踏み入れなかった。
つまり、明王朝というのは、都合70年ほど、全く皇帝不在で運営されていたということになる。これに、8歳で即位した英宗(彼だけ元号でなく宗廟名で呼ばれる理由はあとで述べる)などのケースも含めると、皇帝不在はほとんど明朝時代の3分の1を占める。
それでもなんとかやってゆけたというのは、すでに時代が、皇帝というものの存在をそれほど必要としなくなっていたのだと言えるかもしれない。「君臨すれども統治せず」──明朝後半の変な皇帝たちは、そのスローガン通りに振る舞ったと言えなくもないのである。
話が先走りすぎた。
洪武帝・朱元璋は南京に都を置き、国号を建てたその年の内にモンゴル人たちを追い、中国全土を掌握した。
モンゴル政権の下で差別され、圧迫されていた漢民族が、この純然たる漢族政権を歓迎したのは言うまでもない。
しかも、朱元璋は、かの漢の高祖劉邦と並んで、極貧の下層民から皇帝まで成り上がった一代の英傑である。一庶民から成り上がったと言えば南朝劉宋の創始者武帝(劉裕)などの例もあるが、全国政権の創始者としては、劉邦と朱元璋のふたりだけである。ほとんどは、前代の重臣や将軍であるとか、異民族の首長であるとかの経歴を持っている。いわばチャイニーズドリームの輝ける体現者であり、その点でも人気を集めた。丁度わが国の豊臣秀吉のようなものである。
洪武帝自身も、漢の高祖をかなり意識し、それに倣おうとしていたふしがある。洪武帝は稀に見る勉強家で、実に熱心に史書や兵書を読みあさった。
だが、その結果もたらされた彼の治世に、人々は息を呑むことになる。
天下がひとまず定まったと見るや、洪武帝は盟友であり協力者であった重臣たちを、すさまじい勢いで粛正し始めるのである。それも一族郎党皆殺しである。特に有名な胡惟庸(こいよう)や李善長(りぜんちょう)、藍玉(らんぎょく)の粛正の時は、それぞれ1万5千人とも2万人とも言われる刑死者が出ている。
洪武帝としては、これも漢の高祖に倣ったつもりだったのだろう。高祖は功臣の韓信(かんしん)、彭越(ほうえつ)、黥布(げいふ)といった連中を次々と粛正している。彭越などはその肉を塩漬けのハムにされて諸侯に配られたと言われる。天下を安定させるためには、こういう野心も実力も並外れている功臣たちを抹殺しなければならなかったのである。洪武帝はそれを真似したのだと思われる。
皇太子の朱標は、
「父上は重臣を殺しすぎるのではありませんか」
と諫めたという。すると洪武帝はむずかしい顔をして、皇太子に棘だらけの木の枝を示し、
「それを手にとってみよ」
と言った。皇太子が棘におじけて手を出せないでいると、
「わかったか。わしはおまえに、棘を取り去ったあとの、きれいになった天下を渡してやりたいのだ」
このエピソードで伺える通り、洪武帝は実に家族想いだった。自分自身が幼い頃に一家離散しているので、一族の紐帯を何よりも大事にしたのである。そして作った息子は実に26人。そしてそのほとんどに強力な軍隊をつけて各地の守りに当たらせた。軍勢を率いさせるのは、自分の家族以外信用できなかったのだろう。結果的にはそれが仇になって、自分の描いた国家プランがことごとく覆されることになるとも知らずに……。
苦労人というものは、酸いも甘いも噛み分けた丸い人格を作るとは限らない。ひがみっぽく疑い深い性格になることの方がむしろ多いかもしれない。そして洪武帝は、その最悪の例だったと言える。ひとたび彼に疑念を抱かれると、もはや刑死を逃れるすべはなかった。廷臣たちは毎朝、家族と水杯を交わして登朝したという。仕えること自体が命がけだった。
また、貧賤から身を起こした洪武帝は、金持ちや知識人を激しく憎んだ。と言うより、金持ちや知識人が自分を馬鹿にしているのではないかと常に疑っていた。非常に傷つきやすい心を持っていたのだ。自分を馬鹿にしたのではないかと思われる言葉にはおそろしく敏感だった。漢字というのはひとつの文字にいろんな意味を込めることができ、また同音異義語が多いので、字面からは読みとれないさまざまな暗喩を隠すことができる。
──この文章はおれを当てこすっているのではないか。
そういう眼で見ると、どれもこれも怪しく見えてきて、またこらえ性のない洪武帝は、怪しいと見るやすぐさまその筆者を処刑するのだった。とうとう文書作成係は慄え上がり、洪武帝に上奏文を書く時の凡例、フォーマットを作ってくれるよう懇願したほどであった。中国独特の八股文──文飾は華麗でもっともらしいが、内容はあたりさわりなくほとんど意味不明の文章──はこの時代に誕生した。
とにかく、徹底した恐怖政治だった。
しかし、恐怖したのは主に知識人や官僚であって、無学文盲な民衆は、威張り返っていたエリートたちが次々と首をはねられるのを見て、かえって喝采したようである。実際洪武帝は減税や作業の軽減などをおこない、庶民の負担は相当に軽くなったのだった。何万人処刑しても、彼の治世中叛乱というほどのものが起きなかったのは、やはり民衆が彼を支持していたからだと言えるかもしれない。
皇太子朱標は、洪武帝に先立って死んでしまったので、洪武帝は朱標の長男の朱允炆(しゅゆうぶん)を皇太孫とした。反逆しそうな重臣どもはことごとく殺してしまったし、息子たちには大軍を与えて辺境を護らせているし、これで明王朝も鉄壁だと満足して、洪武帝は1398年、その波瀾に富んだ生涯を終えた。朱允炆が即位して建文帝となった。
が、建文帝には建文帝の立場がある。若い2代皇帝にとって、偉大な祖父が国の護りのためにと残してくれた叔父たちの軍勢は、剣呑で仕方がなかった。もし彼らが連合して来襲したら、ひとたまりもあるまい。
建文帝とその幕僚たちは、彼ら諸皇族の勢力を削ぐ作業を始めた。
だが、幕僚と言っても、実戦経験のある将軍たちは殺し尽くされていたし、骨のある知識人も追い払われていた。残っていたのは二流の政客ばかりである。その方法は拙劣をきわめた。強い皇族を取り潰すのは大変だろうというので、弱そうなのから手をつけたのだった。
当然、強い連中が危機感を覚える。中でも最強と言われ、モンゴル軍の再来に備えて北辺の警備に当たっていた燕王朱棣(しゅてい)──洪武帝の四男──は、やられる前にやってしまえとばかり、大軍を率いて南下した。
精強な燕王軍に立ち向かえる力量を持った将軍は、もはや南京にはいなかった。兵力は圧倒的に南京側の方が多かったのに、有効な用兵のできる者が存在しなかったのだ。しかも建文帝は自信のなさそうな将軍に、
「朕に叔父殺しの汚名を着せてはならぬぞ」
という、むちゃくちゃな要求を課したのである。これでは戦えるわけがなく、建文帝側は連戦連敗。
それでも、南京という城市は、古くから難攻不落の要害とされていた。燕王の猛攻を受けながら、籠城戦は実に4年に及んだのである。
それが陥落したのも、物理的に城壁が破られたのではない。宮廷の宦官が裏切ったのである。
と言うのは、洪武帝は知識人を嫌うのと同様、宦官も信用しなかった。これも歴史に学んだというところだろうが、宦官が政務に口を出すとろくなことはないと肝に銘じていたらしく、これを徹底的に抑圧した。政治向きのことを少しでも口にした宦官は、むごたらしい方法で処刑されたのである。
建文帝は祖父の方針を忠実に守り、やはり宦官を抑えつけた。そんなに信用できないのなら宦官を使うことなどやめればよさそうなものだが、既成観念を打ち破ることはかくも難しい。
ともあれ、洪武帝も建文帝も、宦官を人間扱いしなかったが、宦官といえどもそれぞれに感情を持つ人間であることに変わりはなく、いつか仕返ししてやろうと手ぐすねを引いていたとおぼしい。彼らは隙を見て城門を開け、燕王軍を迎え入れたのである。
宮殿には火がかけられ、建文帝はその中で死んだ。
ただし、死体はついに見つからなかった。これには燕王も狼狽した。燕王は自ら即位して永楽帝となったが、もし建文帝が死んでいなかったとすると僭称になってしまう。永楽帝はこの名分論を異常なほどに気にした。
建文帝が実は密かに脱出し、異国へ逃げて捲土重来を狙っているという噂は、かなり早い時期からささやかれていたようだ。永楽帝は寵愛する宦官鄭和(ていわ)をキャプテンに仕立てて、7回に及ぶ西方への大航海をさせているが、ひとつには建文帝の行方を突き止めるためだったとも言われる。
鄭和を寵愛したのでわかる通り、永楽帝は父とは逆に、むしろ宦官を重用している。南京を陥とす時に宦官の世話になったという引け目もあっただろうが、朝野の人々が自分を「簒奪者」だと白眼視しているのではないかとものすごく気にしていたようだ。実際、永楽帝を祝福する文章を書くように命じられた儒者の方孝孺(ほうこうじゅ)は、彼の目の前で一言、
──燕賊簒位(燕王という賊徒が帝位を簒奪した)
と書いて筆を投げ捨てたのである。もちろん方孝孺は即座に一族もろとも処刑されたが、この事件が永楽帝に与えたトラウマは大きかった。猜疑心と被害妄想の強さは父親譲りだったと言える。彼にとって信用できるのは宦官だけだったのである。
彼は宦官による秘密警察「東廠」を設立して、自分の陰口を言う者がいないかどうか探らせた。さらに密告を奨励し、密告が嘘でも処罰されないということにした。イヤな時代である。宦官が実権を握る下地はこれによって調えられたと言える。
宦官というのは言うまでもなく男のシンボルを抜き取られた存在なわけだが、不朽の歴史記述を成し遂げその後の史書の形式をも決定した司馬遷、紙を現在あるような形に作り上げた蔡倫、それに上記の、7度にわたる西アジアへの大航海を破綻なく成し遂げた鄭和など、不幸をバネにして人格的にも自らを陶冶し、輝かしい業績を上げた人物も時々出現するものの、大半は性格がねじけてしまうことが多いようだ。性欲を満たせなくなった反動で物欲、金銭欲、権勢欲が人一倍強くなる場合もしばしばであり、特に後漢、唐、明の三朝ではその弊害が目立った。
明朝の悪質な宦官としては、前期に王振(おうしん)、後期に魏忠賢(ぎちゅうけん)の名前が挙げられよう。
王振は第6代皇帝英宗の教育係だった。そもそも宦官が教育係になること自体、洪武帝のコンセプトから言えば許されないことなのだが、永楽帝は必要に迫られたということもあるが、平然と親父の遺志を無視したのだった。
王振は反対者を弾圧し、徹底的に私腹をこやし、当然ながらだんだん評判が悪くなると、北宋の童貫と同じ手を使った。つまり対外戦争で国内の不満を逸らそうとしたのである。
当時北元(モンゴル)のエセンがしばしば北辺を侵していたので、王振はこれを討つべく軍を発したのである。しかも英宗を動かして、皇帝親征軍としたのだった。皇帝親征となれば軍の士気はいやが上にも高まるのが当然で、エセンなどは一蹴できると踏んだのだろう。
だが、事実上の指揮者である王振はとことん私欲を優先する人物で、行軍途上に自分の領地があることがわかると、軍勢に自領の田畑を踏み荒らされてはかなわないというわけで、わざわざ大迂回をさせたりしていたのだから、勝敗のほどは見えている。明軍はエセンの軍勢にさんざんに蹴散らされ、あろうことか皇帝英宗自身が捕虜になってしまったのであった。戦場になった土地の名をとって土木の変と呼ばれる。古来、首都が落城して捕虜になった皇帝は何人かいたが、野戦で捕虜になってしまった皇帝というのは、乱世の自称皇帝を除いては後にも先にもこの英宗しかいない。しかも張本人の王振は英宗を見捨てて逃亡したのだったが、さすがにその後誅殺された。
英宗は翌年釈放されて北京に帰ってくる。永楽帝は首都を南京から自分のお膝元である北京に移しており、この頃はずっと北京が首都であった。
ところが、帰ってみれば弟の景泰帝が即位しており、宙に浮いた形の英宗は上皇に祭り上げられて南宮に監禁されてしまった。監禁生活は8年に及んだが、廷臣たちも二派に分かれて争っていたようで、英宗支持派は景泰帝が病臥したのを機に英宗を救出、皇帝に返り咲かせた。いわゆる重祚(ちょうそ)で、日本では皇極=斉明女帝、孝謙=称徳女帝の二例があるが、中国ではこの一例のみである。英宗が捕虜になる前の元号は正統、重祚後の元号は天順。つまりこの皇帝の治世には2つの元号が使われているので、明清期の他の皇帝と違って、元号で呼ぶことができないわけである。
後期の悪宦官魏忠賢について触れる前に、宦官をもうひとり紹介しよう。中期というべき第9代成化帝(英宗の子)に仕えた張敏(ちょうびん)である。
成化帝は19歳年上の万貴妃に頭が上がらなかった。幼い頃からかわいがられ、もちろん筆下ろしも彼女の手で済まし、ほとんど母親に近いような権威を感じていたようだ。万貴妃は齢は食っていても美貌の持ち主で、頭脳も明晰、武芸にもすぐれて成化帝が外出する時は常に軍服をまとってこれに従っていた。その愛情も細やかかつ濃密で、これ以上献身的な女はいないだろうと思われるほどだったが、ただひとつの欠点は、独占欲が強すぎたというところにあった。
万貴妃は一度成化帝の子を産んだが、その子が夭折し、年齢的にもこれ以上子を産むのは無理とわかった。儒教的な倫理によれば、こういう時には若い娘を皇帝にあてがって子を作らせるのが正しいのだが、万貴妃はそうしなかった。自分が子を作れないのに、他の女に産ませてなるものかとばかりに妨害工作に走ったのである。後宮の女に妊娠の兆しが見えると、すぐに堕胎薬を飲ませたのだった。
紀妃もそうして堕胎薬を送りつけられた側室のひとりだったが、その使者となったのが張敏だった。
張敏は成化帝から、子供が一向にできないことについての愚痴を聞かされていた。成化帝はまさか愛する万貴妃が片端から子供を堕ろさせているなどとは想像もつかなかったのだ。自分に種がないのかと思い悩んだらしい。儒教的倫理においては、種無しは不能と同然と見なされるのだ。
張敏はここで意を決し、後宮での権勢並びない万貴妃に反逆することにした。つまり、堕胎薬を紀妃に渡すことをやめ、密かに出産させて育てることを決めたのである。万貴妃にばれたら命はないが、張敏は皇統を絶やさないために、そして主君の憂いを除くために、身を張ったのだった。
数年後、また成化帝は同じ愚痴をこぼした。そこで張敏は成化帝の耳元に口を寄せ、
「陛下にはれっきとしたお世継ぎがいらっしゃいます」
とささやいたのだった。驚喜した成化帝は直ちに紀妃の子と対面し、皇太子に立てた。万貴妃は大荒れに荒れて周囲に当たり散らしたが、皇帝が皇太子に立ててしまった以上、もはやどうすることもできない。さすがに自分の非を悟ったか、その後は後宮の女が妊娠しても、妨害することはなくなったと言う。
なお殊勲者の張敏は、万貴妃を欺いていた責任をとって自害した。
宦官の中にも、このような忠臣もいたというエピソードである。
この時の子供は、のちに成化帝の跡を継いで弘治帝となったが、明朝中興の祖と呼ばれるほどの名君になった。あるいは明朝の皇帝の中ではいちばん出来がよかったかもしれない。しかし在位18年、35歳の若さで病没した。スチャラカな嘉靖帝やら万暦帝やらが40年以上も帝位に就いていたことを考えると。多分に惜しまれる死であったと言えよう。
明は中期以降、ようやくモンゴルの脅威は下火になったが、今度は南方で倭寇の被害が多くなった。北のモンゴル、南の倭寇という、明を悩ませた問題をまとめて「北虜南倭」と称した。
倭寇というのは言うまでもなく日本人海賊のことだが、別に日本人としては好んで海賊行為を働いたわけではない。本来交易を目的としていたのだから海商と呼ぶのが妥当だが、明は海上交易を禁じていたので、交易はそれ自体が違法行為となる。違法でもなんでも需要があれば供給があるというわけで、密貿易が盛んにおこなわれた。
密貿易となれば、法で規制されていない分、トラブルが起これば腕っぷしに訴えることになるのは目に見えている。交易船の乗組員は、それこそ本当の海賊に備えるために武装しており、商売上のトラブルが起こった時もしばしば刀を抜いた。日本刀というのは中国の刀に較べて遙かによく斬れるから、たいていは日本人側が勝った。これを称して倭寇というわけである。
もっとも、これを見た中国人海賊どもは、日本人に扮すれば人々が怖れるということを見て取り、わざわざ月代を剃って日本刀を挿すようになった。万暦期ともなるとこういう手合いが激増し、
──倭寇の内、真倭は十に一(本当に日本人なのは1割程度)。
とまで記録されている。が、本物であろうと偽物であろうと、倭寇の被害が明王朝の悩みの種だったことに違いはない。
豊臣秀吉の朝鮮出兵も、明王朝は一種の大規模な倭寇であると解したようである。そのため、第一次出兵(文禄の役)ののち、
──封は許すが、貢は許さず。
というとんちんかんな国書を送ってよこした。おまえを日本国王として認めるのは構わないが、交易(この場合は朝貢貿易)はしないぞ、という意味だ。なおこの国書を見て、日本には天皇がいるのに自分を国王に封じるなどけしからんと秀吉が激怒し、国書を破り捨てたというのは、頼山陽のフィクションであるが、秀吉が懲りずに第二次出兵(慶長の役)をおこなったのは、自分の意図が全然北京に伝わっていなかったことへのいらだちがあったのかもしれない。
明王朝はかろうじて秀吉を撃退したが、この戦争にかかった莫大な戦費は財政を圧迫し、のちの満洲族(=清)の攻勢に対して有効な迎撃体制がとれなかったということを考えると、やはり「北虜南倭」は明の宿痾だったと言ってよい。
スチャラカ皇帝万暦帝の治世の前半は、張居正(ちょうきょせい)という大物宰相が頑張っており、政情は安定していた。張居正は行政改革、治水、国防、財政再建のいずれにも大きな業績を残した非常に有能な政治家だったが、彼が存分に腕をふるえたのは、ひとつには万暦帝が完全に任せきりで、掣肘する者がいなかったことが大きいかもしれない。歴世、張居正ほどにのびのびと権限を行使できた宰相はいないと言ってよいほどである。逆の面から見ると、皇帝をないがしろにして権勢を誇った宰相は少なくないが、張居正ほどに有能な者はいなかった。
しかし、有能で権限の大きな大臣というのは、反撥も強くなる。張居正が存命の頃は表立って反抗する者はいなかったが、彼が没するや否や、小人どもが一斉に糾弾の声を挙げた。張居正はその地位を利用して国庫収入を横領していたというのである。
もちろん張居正は清廉なだけの政治家というわけではなかったから、ずいぶんと賄賂も受け取っており、蓄財にも励んだ。しかし中国では前回触れたように、古来「適正基準」内の贈収賄は別に汚職とは見なされない。適正に賄賂をとっていただけでも、張居正ほどの広範巨大な権限を持っていれば自然に莫大な財産が築けるというものだ。とはいえ、国庫収入を横領したというのは全くの濡れ衣だったであろう。
しかし暗愚な万暦帝はそれを真に受け、小人どもに調査を命じた。小人どもは調査と称して張居正の遺宅を封印してしまい、一切の人の出入りを禁じた。ために、邸内にいた遺族や使用人たちはことごとく餓死してしまったというのだからすさまじい。一切の財産は剥奪され、一族はすべて流罪となった。一代の権臣の悲惨な末路であった。そこまでしなくてもと思うが、万暦帝も多少は張居正を煙たく思っていたのであろう。
おまけに張居正の施策すら否定されて小人どもが好き勝手やり始めたため、万暦帝治世の後半は惨憺たるものとなった。秀吉の出兵もそういう時期に起こったのである。張居正が生きていれば、秀吉出兵にももう少し手際のよい対応ができ、財政もさほど傾かずに済んだかもしれない。
建州女真族のヌルハチが叛旗を翻したのは万暦帝の死の4年前(1616)である。ヌルハチこそ、のちに清の太祖と追号された人物だ。
女真族というのは、かつて金王朝を建てた民族だが、この頃、自ら満洲族と名乗るようになっていた。「満州族」ではないので注意していただきたい。彼らは文殊菩薩を信仰していたので、それにちなんで「マンジュ」と称し、さらに五行説に基づいて自分たちを水徳とした。明は火徳の王朝とされ、五行説によれば「水剋火」、つまり水は火に勝つということになっている。明に取って代わるのは水徳の王朝でなければならない。そこで、満洲という、サンズイのついた文字を「マンジュ」という発音に宛てたわけだ。
もっともヌルハチは明を倒すところまでは考えていなかった。東北の地にあって独立しようとしただけのことである。実際、明に攻め入るには途中に山海関という難攻不落の要塞がそびえ立っており、そこには常に明帝国でも最強の軍勢が配備されていた。老若男女すべてかき集めてもせいぜい60万人という程度の彼らの軍事力では到底抜くことはできなさそうだったのだ。
明を倒せるかもしれないと彼らが考え始めたのは、1626年にヌルハチが死に、四男のホンタイジが跡を継いでからのことである。
明では万暦帝の死(1620)後、泰昌帝が即位わずか1ヶ月あまりで謎の死を遂げ、真相究明が叫ばれた。その急先鋒となったのが、革新官僚グループの東林党である。
泰昌帝の愛妃だった李夫人は、泰昌帝の遺勅で、後継者天啓帝の後見をおこなうこととなっていたが、自ら権力を握るべく天啓帝を後宮に隠してしまうというばかな真似をした。東林党はこれにも噛みつき、すぐに天啓帝を探し出して李夫人と隔離した。怒った李夫人が差し向けたのが例の宦官魏忠賢である。
魏忠賢は秘密警察・東廠の長官に就任するや、東林党にむけてすさまじい弾圧を開始した。津々浦々に密偵の網を張り巡らせ、少しでも疑わしい人間は容赦なくしょっぴいて、次々と処刑した。
彼の恐怖政治は社会不安を引き起こし、正規軍までが動揺した。何しろ軍司令官といえども一片の密告で首をはねられかねないのである。当然ながら、嫌疑を免れるための賄賂が横行した。
そんな事情がわかってくるにつけ、ホンタイジは
──こいつは、もしかしたらいけるかもしれない。
とほくそ笑んだに違いない。
天啓帝は即位7年で病没、弟の朱由検(しゅゆうけん)が17歳で即位した。これが崇禎帝である。
崇禎帝が見識も高く果断な人物であったことは、即位するや否や魏忠賢とその一党を処断し息の根を止めたことでもわかる。17歳の青年皇帝としては思い切った行動に出たと言える。
思うに王振にせよ魏忠賢にせよ、いくら権勢を誇ったと言っても一代限りだったというのが明代の特色である。後漢時代の例えば曹騰(そうとう)は、本人も絶大な権勢を振るったばかりでなく、宦官の身でありながら養子をとって家を存続させ、その曾孫の代の曹丕(そうひ)に至って後漢王朝そのものを簒奪してしまったわけで、そういう何代にも及ぶ権門は明代には出現していない。これは一種の政治的成熟と呼ぶべきかもしれない。
ともあれ崇禎帝は悪質な連中を排除して政治の刷新に努めた。
だが、すでに社会そのものが末期症状に至っており、崇禎帝個人がいかに英明であろうとも、時勢の流れに逆らうことは不可能な段階だった。私はなんとなく、崇禎帝と徳川慶喜が似ているように見えて仕方がない。共に英明で果断で努力家だったが、結局は亡ぼされるより他に仕方がなかった。
崇禎帝の必死の努力にもかかわらず、農民や役夫の叛乱は次々と発生し、連年のように災害や飢饉が出来し、満洲族の攻勢も強まるばかりだった。崇禎帝は年を追うごとに危機感をつのらせた。
危機意識を持つのはよいのだが、追いつめられた崇禎帝は、太祖洪武帝以来の朱家の悪性遺伝子と言うべき猜疑心にかられるようになった。政務や軍務を担当している大臣たちが、ことごとく無能な私欲亡者のように見えてきたのである。あいつは賄賂をとって正しい裁きをしていない、こいつは敵に通じて馴れ合っている、などと、疑い出せばきりがなかった。
特に、山海関を守っていた名将袁崇煥(えんすうかん)を、讒言を軽々しく信じて召還し処刑してしまったのは致命的だった。軍の士気はこれにより大いに下落してしまったのである。それでも山海関はあと14年間も陥ちなかったのだから大したものではあるけれど。
崇禎帝はほとんど、
──信じられるのは自分だけだ。
と思っていたようである。彼の遺書には、
──朕は亡国の君にあらざれども、臣はことごとく亡国の臣なり。
と、責任転嫁としか言いようのない繰り言が書かれていた。また、北京に進撃してきた李自成に宛てて、
──卿が望むなら朝廷の百官を殺戮しても構わない。ただ、民衆を犠牲にすることだけはしないで貰いたい。
とも懇願している。これで見ても、崇禎帝は確かに名君の資質は持っていたが、部下を信じて使うことができなかったという点で、やはりすぐれたリーダーだったとは言い難い。
明にとどめを刺した李自成は、駅夫の出身である。国営の運輸業者というところだ。旧国鉄と郵便局を兼ねたようなものと考えてよい。
崇禎帝は財政再建のために、駅夫を大幅にリストラした。それはよいのだが、失職した駅夫の受け皿を考えていなかった。
実は駅夫というのは福祉の一面も持っていて、農村のあぶれ者に仕事を与えて救済するという意味もあったのである。従って、解雇された駅夫は、農民に戻るわけにもゆかず、行き場所がなくなってしまう。また、運輸業者というのはその性格上、各地にネットワークを持つ。いわば広域的な共済組合のようなものが自然発生的にできあがっている。輸送物を守るために武装もしている。つまり、いつでも広域的な叛乱軍に成長する条件を持っていた。
李自成はそうした失業駅夫の仲間を集めて叛乱に起ち上がったのである。
下層民から出発し、三日天下とはいえ皇帝(大順帝国皇帝)を名乗ったのだから、漢の高祖や明の洪武帝に準ずるチャイニーズ・ドリームの体現者であった。また、すぐに敗れて非業の死を遂げたという点で同情者も多く、敗れた相手が異民族の清であったということもあり、李自成は今でも大変人気が高い。そのため、17世紀という近世の人物であるのに、さまざまな伝説が生まれている。特に、各地の30以上の叛乱軍の長を一堂に集めてサミットを開いたと言われる「滎陽(けいよう)大会」などは、れっきとした歴史の本にも欠かせないものとなっているが、史学界では否定されている。また、李自成の軍師として名高い李巌(りがん)も、実は架空の人物だろうと言われている。
いずれにしろ李自成は、各地の叛乱軍を吸収して肥大化し、北京に迫った。廷臣の中には、はやばやと李自成によしみを通じるものが相次いだというから世も末だ。崇禎帝の猜疑心にびくびくしていることに飽きたのだろう。
北京が包囲されて、崇禎帝は百官を呼び集めようとしたが、召集の鐘を鳴らす役人さえ逃げ去ってしまっていた。やむなく皇帝自ら鐘楼に登って鐘をついたが、廷臣はひとりもやってこなかった。「臣はことごとく亡国の臣なり」とか「百官を殺戮しても構わない」とか、遺書の中で言いたくなった気持ちもわからないではない。
私的使用人である宦官を差し向けて交渉に当たらせようとしたが、その宦官も帰っては来なかったばかりか、城門を開け放ってしまった。李自成軍は易々と北京城内に侵入した。
もはやこれまでと悟った崇禎帝は、凌辱の憂き目を見ないようにと娘たちを殺し(ただし長女は致命傷にならず、かなり長生きしたようだ)、その後築山に登って自らが君臨した首都を見下ろし、その場で首をくくって自殺したのだった。
失意の皇帝に付き従っていたのは、宦官の王承恩ただひとりであったという。一説によると、王承恩が街中の占い師に、起死回生の可能性があるかどうか託宣を受けに行っている間に、王承恩まで逃げ出したと思った崇禎帝がたったひとりで自殺していたともいう。いずれにしても、王承恩は崇禎帝のあとを追って自害した。これほどに孤独な死を迎えた皇帝はあまりいない。
これによって、明王朝は亡びた。ただ、首都の廷臣は、李自成さえあきれ返るほどにだらしがなかったが、地方ではまだまだ硬骨の遺臣がおり、方々で皇族を担いで皇帝を称せしめたが、もはや残党に過ぎない。日本でも近松門左衛門の作品として名高い「国姓爺」鄭成功は、これらの残存勢力の中のひとつ隆武帝から明の国姓である朱を授かったのであった。彼は台湾に渡って清に対する抵抗を続けたが、その死(1662)によって明の残党はほぼすべて消滅したことになる。
崇禎帝が自殺した時、山海関を守っていたのは呉三桂(ごさんけい)将軍だった。さすがに山海関の守りは堅く、清と国号を改めた満洲軍は攻めあぐんでいた。2代皇帝ホンタイジは結局山海関を破れずして病没。次男のフリンが帝位を継いでいた。もっともフリンはまだ幼く、実権はホンタイジの弟のドルゴンが握っていた。ドルゴンはヌルハチが後継者の最有力候補として考えていたと言われるほどの傑物である。
李自成は当然ながら、明軍最強の山海関部隊を率いる呉三桂を帰順させようとした。呉三桂は明朝への忠誠と、保身との板挟みで迷いに迷ったが、ついには帰順を拒否した。しかし、李自成の大軍に攻められては勝利はおぼつかないと思い、なんと今の今まで刃を交えていた清軍に同盟を申し出たのである。
そういうわけで、ドルゴン率いる清軍は、あっけなく山海関を通過し、李自成軍を鎧袖一触で蹴散らした。李自成は算を乱して逃げ(それでも北京に立ち寄って即位の式典だけは済ませて行った)、さらに西へ逃げてついには窮死した。
呉三桂が清を引き入れたについては、北京に置いてあった愛妾陳円円を李自成に奪われた腹いせだという説が根強い。女の恨みで国を夷狄に売るとはなんというスケベ野郎だというわけで、呉三桂の評判はすこぶる悪いが、彼にすれば売国などという意識はこれっぽっちもなかっただろう。背後の敵を倒すために正面の敵と一時的に講和して両面作戦を避けるというのは当然の戦略であるし、漢民族同士の戦いで一方が異民族を引き入れるという例も昔から枚挙にいとまがない。あくまで対等の同盟、あるいは清軍を単に利用するだけのつもりで引き入れたのに違いない。
が、ドルゴンの政治的センスは呉三桂などとは比較にならない。早々と呉三桂の足許を見透かして、主導権を握ってしまった。呉三桂はドルゴンの人物を見誤った愚かな男ではあったかもしれないが、一概に卑怯者、裏切り者と呼ぶわけにもゆかないような気がする。陳円円の問題が本当にあったにせよ、それが彼の決断の最大要因であったとは考えずらいのである。もしかすると、李自成と清軍を戦わせ、漁夫の利を得て自ら天下をとるつもりであったかもしれない。想像以上に清軍が強く、相争って疲弊するというようないとまもなく李自成軍を叩き潰してしまったのが、呉三桂の誤算であったろう。
ドルゴンは呉三桂をそれなりに優遇し、平西王に封じて半独立と言ってよい領地を与えたが、呉三桂はのちにそれを不満として叛乱を起こし、敗死している。この行動から見ても、呉三桂は自分で天下を望んでいたと考えざるを得ない。
明という時代は、「中国人が『今の中国人』になった」時代と言えるかもしれない。いわゆる「中国的なるもの」はほぼ明代に出揃ったと言える。四大奇書と呼ばれる「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」「金瓶梅」などがほぼ現在の形になったのはこの時代だし、演劇や料理なども大体この時期に完成された形式が多い。それらが、異民族王朝である清代に至って自覚的に整理され、最終的に現在の中国文化ができあがったと考えられる。その点で、日本の元禄時代などに比較できるかもしれない。
そして時代は、最後の「大中華帝国」清へと受け継がれてゆくのである。
(2000.5.21.)
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