「ラストエンペラー」をキーワードとして、中華帝国史をあれこれと詮索してきた駄文も、そろそろ終わりに近づいてきた。今回扱うのは正真正銘の「ラストエンペラー」、宣統帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)だが、章題にこれまでのように王朝名を併記しなかったのは、彼はふたつの帝国の皇帝になったからである。ひとつは言うまでもなく清帝国。そしてもうひとつは20世紀の徒花と言うべき満州帝国だ。
満州帝国については、少し前までは触れることさえタブーとなっていた感がある。もし触れるにしても、
──悪い日本人が、中国の東北地方を不法に占拠して、そこに傀儡国家を造り、とっくに追放されて歴史から姿を消していた清朝最後の皇帝という骨董品をひっぱり出し、操り人形として皇帝の座に据えた──
というステレオタイプな説明から少しでも逸脱すると、たちまち
「日本軍の中国侵略の正当化だ」
「軍国主義の容認だ」
「右翼だ」
と袋叩きにされるという異常な状況が、ずいぶん長いこと続いていたように思う。
最近になってようやく、比較的自由な論議が可能になってきたようだが、明らかに中国共産党の公式見解をなぞったような上記のステレオタイプにせよ、
──いや、あの時点で満州国を造ったのは決して悪いこととは言えない。
という反論にせよ、どちらにせよひとつ欠落した視点があることに気づいていない。
それはもちろん、満洲人皇帝としての溥儀の立場である。
溥儀は「我が前半生」なる自伝も書いているし、戦犯裁判などでも自分の立場──日本軍に脅されて傀儡皇帝の座につかざるを得なかった──を語っているのだから、別に問題はないと思われるかもしれない。
しかし、彼の身柄が常に中国のもとにあったことを忘れてはならない。
中国には言論の自由というものがないのは、日本で中国当局の癇に障るようなことを言ったり書いたりする人間が現れるたびに、筋違いにも日本政府に抗議してくることでわかる。彼らは日本政府に、それらの言論を取り締まる権限があると考えているわけだが、当然、自分のところがそうだから日本もそうだろうと思っているのだろう。
そんな政治状況の国であってみれば、中国当局の見解と異なるようなことは、溥儀としては生涯言えなかったはずである。しかも、大戦後に彼が入れられていた撫順(ぶじゅん)の収容所は徹底した洗脳機関だったのではないかと疑われている問題の場所なのだ。「元日本兵」として、中国大陸での日本軍の残虐行為をことあるごとに証言している人たちは、どういうわけだかこの撫順収容所の経験者が圧倒的に多いそうである。
満洲族は「清」という王朝を建てて中国を支配した。異民族政権であるにもかかわらず……と言うより、異民族政権であればこそ、より偉大な中華皇帝として君臨しなければならなかった。
──われわれの目の前に、2000年前の古代帝国(漢)と完全に相同的な帝国が存在する。
と驚きをもって語ったヨーロッパ人がいたが、清帝国こそはまさに、「これこそ中華帝国!」と呼ぶべき大帝国に他ならず、その皇帝の行動原理は「中華皇帝」そのものであったと考えなければならない。
愛新覚羅溥儀という「個人」ではなく、この「中華皇帝」としての行動原理を考えると、満州帝国という「傀儡国家」の成立は、まったく異なった様相を帯びて眼に映ってくるのだ。そして、中国人の尻馬に乗って傀儡国家などと呼ぶのが、彼らにとって実に礼を失する行為なのだということがわかってくる。
……だが、まあ、もう少し時代を遡ったところから話を始めたい。
清の太祖と呼ばれるヌルハチは、自分では清という国号を名乗っていない。「後金」あるいは単に「金」と称しただけである。
これは、かつて女真族(満洲族の前身)が中原に打ち立てた金王朝にちなむものであることは言うまでもない。清の帝室はその姓を「愛新覚羅(アイシンギョロ)」と名乗ったわけだが、このうち「ギョロ」は「部族」という意味でしかない。そして「アイシン」はそのまんま「金」である。祖先が建てた大帝国を、ヌルハチはずっと誇りにしていたのだ。
その子のホンタイジ(太宗)の代となり、中国全土を支配するという野望を持つようになった。そうすると、かつての異民族王朝「金」の名では、漢民族は嫌がるのではないかという配慮が働き、清という中華風の国号に改めたのだった。
前章で、満洲という民族名は文殊菩薩からマンジュという読みをとり、それにサンズイのついた同音の文字を宛てたということを述べたが、「清」にもサンズイがついている。火徳の王朝「明」に取って代わるべき、水徳の政権であることにこだわったとおぼしい。
この五行交代思想は中国古来の考え方で、後漢末の黄巾の乱の時のスローガンも、
──蒼天すでに死す。黄天まさに立たん。歳は甲子にありて天下大吉。
であった。漢も火徳の王朝と考えられ、五行説では「火生土」、火は土を生じるということになっているので、漢が衰えたあとには土徳の王朝が立たなければならない。火に対応する色は青、土に対応する色は黄色である。蒼天と黄天というのはそのことを言っている。その後興った魏呉蜀三国のうち、漢を継承したと称した蜀だけは別だが、魏は「黄初」、呉は「黄武」という元号を用いたのも、同じ発想による。
それなら火徳王朝に替わるのだから同じように土徳ではないかと言いたくなるが、「水剋火」、つまり土は火から生じるが、水は火に勝つのだ。後漢末の群雄が漢を「倒す」つもりはなかったことがわかるし、清を名乗ったホンタイジはすっかり明を「倒す」つもりでいたことが窺える。
これだけ「水」にこだわっているのだから、「満州」と表記すると水分が半分くらい失われるのがわかるだろう。「満洲」と書くのが正しく、しかもこれは土地名ではなくて民族名である。現在の中国当局は、東北地方のことを満州と呼ばれるのを非常にいやがるが、満洲里(マンチョウリ)という街は今でも存在する。「満洲人の里」があっても構わないけれど、広い範囲を「満州」と呼ぶのは許せないというわけだろう。
ホンタイジは中原への進出を夢見ながら惜しいところで病没し、その直後、行く手を阻んでいた山海関の守将呉三桂(ごさんけい)が、明を亡ぼした李自成(りじせい)と戦うために清軍を引き入れたということは前章で触れた。
清軍はついていた。攻めあぐんでいた山海関は内側から開かれ、しかも「亡ぼされた明の仇を討つ」という大義名分まで手に入れてしまったのだ。ホンタイジの弟・摂政王ドルゴン率いる清軍は瞬く間に北京を収服し、数年でほぼ中国全土の宣撫に成功した。
この時ドルゴンは「薙髪(ちはつ)令」なるものを発したと言われる。
満洲族は頭髪を剃り、頭頂の髪の毛だけ長く伸ばしてそれを結う習慣である。いわゆる辮髪(べんぱつ)で、モンゴル人など北方遊牧民はたいていそうしていた。なお日本の月代(さかやき)も辮髪の一種と言えないことはない。これに対して中国人は総髪が普通で、そのままでは中国内部に入った時、数において遙かに劣る辮髪が目立って仕方がない。いやむしろ、数が少ないことがあまりにも明確になってしまう。そこで、その差違をなくすために……普通の発想なら、自分たちも総髪にするところだが、ドルゴンは征服者の威信にかけて、被征服者たる漢民族の方に辮髪を強要したというのだ。
──髪を残す者は、頭を残さざれ。
つまり、辮髪にしない者は頸を切れと命じたのだという。
しかしどんなものかね。実際に漢民族の100分の1くらいしかいなかった満洲人が、進駐早々、そんな無茶な命令を全土に徹底させるなどということができたものだろうか。
北京附近くらいはできたかもしれないが、どちらかというと支配者におもねって自ら辮髪にした連中が多かったような気がする。そういうのが増えてくると、総髪の者はだんだん居心地が悪くなってくるに決まっている。
気骨のある者は、いっそのこと髪を残らず剃ってしまって、いわゆる僧形になったようだ。
ドルゴンは1650年に没した。ホンタイジの次男であるフリンが3代皇帝になっていたが、幼かったため、ドルゴンが生きている間は事実上ドルゴンが皇帝代理のようなものだった。自分自身は皇帝にならなかったが、兄嫁にあたるフリンの母と結婚しているので、皇帝の叔父にして義理の父というわけだった。なお、兄嫁と通じるなどというのは、儒教的な倫理からするとこれほどの不倫はない。ただし遊牧民や狩猟民の間では別に奇妙でもなんでもない。ドルゴンも別に気にしなかっただろうが、儒教的教養を身につけたフリンはこのことを深く恥じ、記録から抹消させたという。「皇叔」のはずのドルゴンがある時点で「皇父」となってしまったという記録は、朝鮮に残っていたのだった。
なお、ドルゴンとフリンの関係は、古さも古き周代はじめの、周公旦と成王の関係によく似ている。周公旦は殷を亡ぼした周の武王の弟で、武王の後継者である成王が幼かったので摂政として国政を取り仕切り、成王の成長を待って政権を返却したことになっている。まさに、「古代帝国と完全に相同的」な構図と言える。ただ、ドルゴンはフリンに政権を返却したわけではなく、自らの死によって否応なく返却せざるを得なくなったという点、世の中がそれだけ世知辛くなっていたと言うべきか。
フリンは順治帝と呼ばれ、また世祖と追号される。祖の字がついているのは、元のフビライ同様、「中華皇帝」となった最初の皇帝だからである。
清にはもうひとり、「聖祖」と追号された皇帝がいる。フリンの子である康煕帝だ。呉三桂らの起こした三藩の乱を鎮圧し、台湾の鄭氏政権を亡ぼし、チベットを服従させ、モンゴルを完全制圧し、清帝国の版図を最大にまで拡張し、また数多くの文化事業(「康煕字典」など)を推進した偉大な皇帝だったということから、特別な「祖」の字が与えられたのだろう。
まさに国威を最大に発揚した皇帝というわけだが、見方を変えれば中国史上最大の征服王というべきだろう。かつての元も、康煕帝の時代ほどの広い版図は持っていなかった。漢や唐に至っては遙かに狭い。チンギス汗の築いた帝国はもっと広かったが、それは中国が加わる前にすでに分裂していたのだ。なお現在の中国政府が主張する「固有の領土」は、基本的には康煕帝の制圧した版図を意味しており、チベット侵攻の大義名分はそこにあったし、台湾をいつまでも諦めないのもそのためだし、モンゴルが中国領だと主張するのもそこに由来する。
また康煕帝は、在位期間が歴代皇帝中最長(61年)である。王朝をはじめてばかりの不安定な時期には、皇帝が長生きすることがかなり重要な要因となるから、この点での功績も大きい。帝位に長くありすぎたための老害も、康煕帝の場合はほとんど見られなかった。その孫の高宗・乾隆帝も治世が長く、もうじき祖父の61年になるというところで、偉大な祖父の治世期間を過ぎてしまうのは申し訳ないというわけで、60年目に自分から退位して息子の仁宗・嘉慶帝に帝位を譲った。ただし乾隆帝の方は、中華皇帝としての威風を堂々と示し続けたものの、晩年には佞臣和坤(わこん)を寵愛したりして、いささか評価が下がる。
しかしともかく、順治帝・康煕帝・雍正帝・乾隆帝の4代の皇帝は、いずれも見識が高く勤勉な勉強家で、これほどに名君が引き続いたのはまさに壮観と言う他ない。
ひとつには、清朝では皇太子のシステムをとらなかったせいでもある。康煕帝は順治帝の第3子、雍正帝は康煕帝の第4子、乾隆帝は雍正帝の第4子でいずれも長男ではない。
皇太子を決めて、早くから帝王見習いをさせておくのもひとつの手だが、往々にして、次期帝王のもとで立身しようという者たちが皇太子の周囲に集まり、皇太子をスポイルしてしまうことが多い。清の皇帝は、意中の後継者を紙にしたためて、寝所の「正大公明」という額の裏に隠しておく習慣だった。息子たちの様子を見て、時々差し替えたりもしたらしい。皇帝が没すると、その紙が取り出されて、はじめて後継者が決定する。中国史上、こういう後継者の決め方をした(しようとした)のはこの他には秦の始皇帝がいる。この点でも清朝は、「古代帝国と相同的」だ。
息子たちとしては、次の皇帝になるためには、政務や学業に励んで親父に認められるしかないわけで、競って勉強することになる。勉強というのは、やっていればだんだん面白くなるもので、知識が増えることが快感になってくる。勉強家の皇帝が相次いだのはそのためである。
康煕帝と乾隆帝という長生き皇帝にはさまれた世宗・雍正帝は、明の洪武帝ばりの「文字の獄」を引き起こしたとしてあまり評判がよくはないが、洪武帝のごとく、問答無用で斬り捨てるということはしていない。清の統治を批判した文章を書いた著者を呼び、自ら堂々と論争して相手をやりこめるということまでしている。自分自身も一日4時間しか眠らず、実に勤勉に政務にいそしんだ。父や息子に較べると比較的若くして没した(それでも57歳まで生きたので、歴代皇帝の平均寿命は超えている)が、死因は過労死だったと言われる。
いずれにしても、17世紀後半から18世紀いっぱいが、中国の最後の黄金時代であった。
この時期のヨーロッパ人の著作には、中国の絢爛豪華さに憧れた文章が数多い。産業革命以前のヨーロッパにとって、この頃の中国はまさに夢の国と言えた。絹、茶、香料、陶磁器、銀……すべてが垂涎の的だった。
清朝は鷹揚に交易を許していたが、しかし形式としては古来の朝貢貿易である。辺境の野蛮人たちが、中華の徳を慕って、エビほどのものを持ってくると、偉大なる中華皇帝が彼らに恩恵を与えるという名目で、タイほどのものを持ち帰らせるというのが朝貢貿易だ。ヨーロッパの使節がやってきた時も、あくまでも野蛮人の王の使者が皇帝に謁を賜われるという建前はそのままで、いわゆる三跪九叩頭の礼──皇帝に謁見できた喜びのあまり、3度ひざまずき、その都度3回ずつ(都合9回)頭を床に打ちつける──を要求された。
18世紀までは、それでよかったのだ。
だが、いち早く産業革命を成し遂げた英国は、急激に自信をつけて、中国との対等な貿易を望むようになった。1793年、乾隆帝の傘寿(80歳──実際にはこの時乾隆帝は83歳──)の祝いという名目で北京入りしたジョージ3世の使節マッカ−トニーは、三跪九叩頭を敢然と拒否して物議をかもしたのだった。
国家の威信はそれでよいとしても、問題は、英国は中国の物産を必要としていたが、中国に売り込む商品があまりないという点だった。これでは当然ながら英国の入超となるのは避けられない。英国が必要としていたのは茶葉だが、その決済は常に大幅な赤字となっていた。
入超解消に窮した英国が持ち込んだのがアヘンである。
日本では不思議なことに、当時から今に至るまで、アヘンに惑溺したという人の話は聞かない。徳川幕府が厳しく流入を取り締まったのは確かだが、この種の麻薬というのはいくらお上が禁止しても、入ってくるときは入ってくるものだ。時代劇で時々、アヘンの密貿易がからむ話があるが、日本国内でアヘンの需要があったとはどうも考えずらい。現代でも、トリップしたい連中はどういうわけか麻薬よりは覚醒剤を求めるようだ。麻薬の沈滞ではなく、覚醒剤でハイになることを望むのは、国民性というものだろうか。
だが、中国人はたちまちアヘンにはまってしまった。
麻薬の問題点は、服用し続けていると次第に効力が薄れてくるというところにある。自然、だんだんと多量の薬を求めるようになる。
アヘンの取引高が茶葉のそれを突破し、中国側が一転して入超となるまでに、それほどの時間はかからなかった。1840年に始まるアヘン戦争の下地はこうして作られたのであり、以後中国は転落の一歩をたどることになる。
ヤクザが家庭の主婦に近づき、
「奥さん、ええ薬ありまっせ」
と言葉巧みに持ちかけてシャブ中にし、法外な代金をふっかけて、払えないと
「ほんならカラダで払ってもらいましょ」
と売春などをやらせる。気づいた亭主がシャブをやめさせようとすると、ヤクザは
「シロートにメンツを潰された」
とばかりに親分に泣きつき、親分は亭主に因縁をつけてさんざんに痛めつける。
アヘン戦争を下世話に戯画化すればそんな感じになる。この時に英国のとった行動はまさにこのヤクザそのものである。さすがに英国人の中でも心ある人間は、グラッドストーン卿のごとく、
──その原因がかくも不正で、かくも永続的に不名誉となる戦争を、私はかつて知らないし、本で読んだことすらない。
と憤慨したようである。
アヘンが容易ならぬ害毒をまき散らすことを知った清朝政府はこれを禁制とし、欽差大臣林則徐に命じて対策を立てさせた。林則徐は文書で禁制のことを各国の商人に伝えたが、全然効き目がなかった。そこで実力をもってアヘンを押収し、焼き払った。商品を焼かれた英国商人たちが、本国に訴えて起こさせたのがアヘン戦争であった。
英国艦隊は途中にインドという中継地があったとはいえ、まだスエズ運河ができるずっと前であり、喜望峰からインド洋を迂回して、気の遠くなるような長旅を経て中国に到着する。中国側は圧倒的な兵力差による人海戦術でこれに対抗しようとしたが、ほんの数隻の軍艦相手に連戦連敗であった。
かつて李自成軍を鎧袖一触で蹴散らした無敵の軍団満洲八旗の面目はどこへやら。実は200年近い泰平で、精強だったはずの満洲軍は、特権階級として貴族化し、すっかり使い物にならなくなってしまっていたのである。江戸時代の旗本八万旗みたいなものだ。モンゴル人中心の蒙古八旗も似たようなものであり、のちに作られた漢人八旗(緑営)さえもどうしようもなく劣悪化していた。
アヘン戦争は主に広州を中心とする華南地方を戦場にしたため、北京の宮廷にはさほどの危機感はなかったらしい。ただ、清軍が数隻の軍艦に追いまくられ、敵軍が北上して北京をにらむ勢いになってきたのを見てはじめて狼狽し、あたふたと講和を結んだ。
かくして、幻想と憧憬の国「中国」が、実は案外怖るるに足りない存在であるということが、ヨーロッパ列強の前に赤裸々にさらされてしまった。
さらに問題だったのは、清軍が少数の英国軍に押しまくられて手も足も出ないということを、中国の民衆がその眼ではっきりと見てしまったことだったと言ってよい。
簡単に言えば、清朝はこの戦争を機に、国の内外からなめられてしまったのである。
それからの清朝は、内憂外患に食い尽くされてしまった観がある。
太平天国の乱(1851-1864)、アロー号戦役こと第二次アヘン戦争(1856-1860)、清仏戦争(1883-1885)、日清戦争(1894-1895)、義和団の乱(1899-1901)と対外戦争や内乱が相次ぎ、その後は革命運動の火蓋が切られて、1911年の辛亥革命に至る。
アヘン戦争で、すでに清の正規軍がどうしようもなく弱いことは衆目にさらされてしまった。太平天国の乱では、曾国藩(そうこくはん)が組織した湘軍、李鴻章(りこうしょう)が組織した淮軍などが鎮圧にあたったが、これらは義勇軍、というよりは曾国藩や李鴻章の私軍である。つまり、軍閥が発生したのだ。日清戦争などではすでに国軍というものは存在しておらず、日本が戦ったのは「李鴻章の軍隊」でしかなかったのである。小なりとはいえ仮にも近代国家の国軍と、「古代帝国と相同的」な国の軍閥の私軍との戦争だったのだから、実のところ最初から勝負は見えていたと言ってよい。
なお李鴻章の死後その軍を掌握したのが袁世凱(えんせいがい)、そのまた死後実権を握ったのが蒋介石(しょうかいせき)である。いよいよ現代史の匂いが漂ってきた。
こんな時に、朝廷ではどうしていたかというと、アヘン戦争当時の皇帝は宣宗・道光帝で、若い頃はアヘンにはまっていたが、なんとか自力で克服したという経歴を持つ。アヘン中毒は克服できるという信念を持っていたようで、林則徐という傑物を起用して、断乎たる対応を命じたあたりはなかなか颯爽としている。しかしいざ戦争となり、しかも連戦連敗となると、たちまち腰砕けとなって林則徐を罷免し、不平等条約を次々と結んでしまった。大臣たちの弱腰もあったろうが、中国の政治原理からして、皇帝がもっと毅然としていれば展開も異なったかもしれない。
次の文宗・咸豊帝の治世は、太平天国対策に終始していたと言える。それに並行して第二次アヘン戦争にも対処しなければならなかった。実は朝廷が震撼したのはむしろこの第二次の方だった。何しろ北京まで攻め込まれて、咸豊帝は熱河の離宮へ避難しなければならなかったのである。英国とフランスの連合軍は北京に侵入し、円明園を焼き、狼藉の限りを尽くした。咸豊帝は焦燥のうちに熱河で病死した。
咸豊帝は30歳という若さで没したのだった。このあたりから、皇位継承も今までほどすっきりしなくなり始めた。咸豊帝の子は当然ながらまだ幼く、子供たちの出来を見て後継者を決定するという段階には達していない。息子の愛新覚羅載淳(さいじゅん)が即位し、穆宗・同治帝となったが、まだ5歳である。咸豊帝の皇后と、同治帝の生母が、共同して政務を代行することになった。人は皇后を東太后、生母を西太后と呼んだ。しかし実際には東太后はお飾りのようなもので、実権を握ったのは西太后の方であった。
内憂外患相次ぐこの大変な時期に、西太后のごとき妙なオバハンが実権を握ってしまったのは不幸だったとしか言いようがない。
彼女は権勢家であったが、決して政治家ではなかった。宮廷の権力闘争にはすさまじい実力を発揮したが、国内外の問題解決を指導できるほどの見識も能力も意欲もなかった。日清戦争に清が敗れたのは、西太后が北洋艦隊の予算を、別荘(頤和園)の建造費に廻してしまったからだという説さえあるほどである。宮廷の外のことなぞ、少しもわかってなかったのだ。
漢初に権勢を誇った呂后(高祖の皇后)を彷彿とさせるような女である。ふたりとも、功臣を粛正し、うるさい皇族を弾圧し、徹底した恐怖体制を作り上げた。まさに、「古代帝国と相同的」な帝国ならではの現象ではないか。2000年に及ぶ中華帝国史は、その最初と最後を、とんでもない猛女に彩られているのだ。
呂后の恐怖体制が、案外宮廷の外へは波及せず、庶民はかえって安楽に暮らすことができたと言われているのと同様、西太后の恐怖体制も、それほど宮廷外には影響しなかった。ただし、呂后の時は漢の建国当初で、人々は安定を求めていたのだが、西太后の時代はもはや乱世に近い。この段階でこういう古代的「母后」が権勢を一手に握ってしまったのは、清朝にとっては致命的であった。
息子の同治帝が19歳で没する(母親からあてがわれる女に飽き飽きして、お忍びで街の女と寝て、性病をうつされたのだとか)と、妹の子を擁立した。妹は道光帝の息子の醇(じゅん)親王に嫁いでいたのだから、その子は皇位継承権がなかったわけではないのだが、それにしても順当に父子相続を続けてきた清朝の伝統はここで絶たれたことになる。
この子が徳宗・光緒帝であるが、当初は幼児であったこともあって西太后に任せきりであった。そのうち成長しても依然として西太后が実権を返そうとしないので、彼はクーデターを起こした。日本の明治維新に倣ったと言われ、戊戌(ぼじゅつ)変法、あるいは変法維新という言い方もするが、李鴻章亡きあと軍を掌握していた袁世凱が西太后側についてしまったので、勝ち目はなかった。
光緒帝の信任した康有為や梁啓超らは亡命を余儀なくされ、譚嗣同などは斬られた。このクーデターが成功していれば、あるいは中国も日本や英国と近い立憲君主制への移行が可能だったと考えられないこともないが、その機会はこれで永遠に失われたわけである。もっとも、中国の体質は立憲君主制には全くそぐわないという説もある。いずれにしても、もう一度歴史をやり直してみるというわけにもゆかない。
光緒帝を圧迫し、その寵臣を弾圧した西太后だったが、皮肉にも義和団の乱で北京に外国の連合軍が押し寄せてくると、少なくとも対外的な部分では戊戌変法のコンセプトを受け容れざるを得なくなってしまった。
1908年、光緒帝と西太后は相次いでこの世を去った。死期を悟った西太后が光緒帝を毒殺したのだともささやかれる。西太后は義和団の乱の時に北京を落ち延びる際、光緒帝の愛妾であった珍妃を毒殺したという履歴もあったから、疑われるのも無理はない。東太后についても西太后の毒殺説がある。なんともすさまじいが、競争者や邪魔者を排除するのに毒殺という手段を用いること自体が、20世紀の人間とは到底思えないアナクロさと言えよう。
この頃光緒帝の弟が醇親王位を継いでいた。西太后は死ぬ前に、この醇親王の息子を次の皇帝にするように指示していた。ちなみに醇親王の妃は、西太后の甥の娘である。光緒帝自身が西太后の甥に当たるわけで、その弟の醇親王も甥のはずである。光緒帝と醇親王が異母兄弟であれば西太后とは血縁がないわけだが、それでも儒教倫理では同じに扱われる。つまり醇親王夫妻は近親結婚(5親等)である。中国では近親結婚はタブーと言われるが、実はそれは同姓の親族に限られ、異姓の親族、つまり母方の従妹との結婚などは結構例がある。大恋愛小説「紅楼夢」の主人公の恋人たちも、いずれも異姓の従妹たちだ。
西太后の遺言で帝位に就いた2歳の幼児こそ、愛新覚羅溥儀──ラストエンペラーである。
2歳の皇帝に政務が見られるわけがないので、父の醇親王が摂政王となって後見した。
だが、この摂政王は無能であった。かつての摂政王ドルゴンほどの能力があれば、中国はまたどうにでも転変した可能性があるが、国が亡びる時というのは、大体こんな手合いしか現れない。
何が無能と言って、この期に及んで満洲族意識が強烈で、漢人にして軍権を掌握している袁世凱が我慢ならず、執拗に追い落としを図ったというのだから、そもそも政治のことなど全然わかっていない。その点西太后の方がまだましだったとさえ言える。袁世凱のような男は、おだてて使えばどうにでも利用できるものを、醇親王はわざわざ敵に追いやってしまったのである。
しかも、革命運動が盛り上がっているに際し、
「中国を家奴に奪われるくらいなら隣友にくれてやった方がまだいい」
などと広言してはばからなかった。この場合家奴というのは漢民族で、隣友というのは諸外国を意味する。こんな言行により、醇親王、というより清王朝は、決定的に人民から見放されてしまった。「滅満興漢(満洲族を亡ぼして漢族政権を興そう)」の声が朝野にこだました。わずか10年前の義和団が、「扶清滅洋(清朝を助け、西洋人どもを亡ぼそう)」をスローガンにしていたのに較べ、なんという急落。
かくて1911年、武昌において軍隊の蜂起があり、これが辛亥革命の火蓋となった。
摂政王は狼狽した。なぜなら、武昌で叛乱を起こした軍隊は、正規軍だったのだ。
義和団の乱以後、さすがに清王朝も危機感を募らせて、近代的装備を備えた軍隊を作ることに腐心した。かつての八旗軍や、湘軍その他の私軍とは違った、新しい国軍で、その名も新軍と称した。武昌で叛旗を翻したのはこの新軍だったのである。
それでも、連絡の不行き届きや、装備の不充分さがあって、政府が毅然とした対応をしていれば鎮圧は難しくない程度の兵乱に過ぎなかったのである。
しかし、暗愚な摂政王はあわてふためき、かつて嫌いぬいて追放した袁世凱を呼び戻し、権限をすっかり渡してしまったのだった。
ほくそ笑んだのは袁世凱である。彼は摂政王のように無能な男ではない。武昌の叛乱に続いて、孫文らによる中華民国の建国宣言が出されていたが、まだ内実は全然伴っていないことを見抜いていた。この混乱に乗じて、袁世凱が狙ったのは、かつて王莽が、曹丕が、司馬炎が、そしてあまたの王朝創始者がやってきた歴史的事業──すなわち、皇位の簒奪である。
袁世凱は宮廷内の全権を掌握すると、溥儀に退位を迫った。とは言っても、溥儀はまだ6歳であるから、実際には父の摂政王と、光緒帝皇后であった隆裕太后が相手である。直接的に脅迫したわけではないが、革命軍の機鋒を逸らすためという理由を挙げたと思われる。もはや皇族たちも、袁世凱の言う通りにするしかなかった。
これにて、清朝は亡びたと言ってよい。ただし、正確に言うと溥儀は、もうしばらく皇帝を名乗ること、紫禁城に居住することを許可された。袁世凱は革命軍と交渉し、自ら中華民国臨時大総統の座についたのだったが、実際には中華民国なる武装勢力を自家薬籠中のものとし、自分の王朝を作ろうともくろんでいたのである。帝位に就く時、前王朝の皇帝から禅譲を受ける必要がある。そのため、溥儀を依然として名目だけの皇帝にしておいたのだ。
袁世凱は「中華民国」を単なる叛乱軍としか見ていなかったし、おそらく当時のたいていの人も同様だったろう。「太平天国」の亜流のように見なしていたとしても不思議ではない。「国家」を名乗るには内情がお粗末すぎた。
溥儀が名実共に皇帝の座を降りたのは、1915年12月のことである。袁世凱がついに皇帝を名乗ったのだ。中国で最後に皇帝の位に就いたのは、従って実は溥儀でなく袁世凱だったことになる。
しかし、世界はすでに新しい中華帝国の存在を望んではいなかった。袁世凱はどこの国にも認められず、国内からは猛烈な突き上げをくらい、翌年3月には帝位を降りざるを得なかった。そしてその3ヶ月後、この梟雄は失意のうちにこの世を去った。
かくして「中華帝国」は終焉の時を迎えた。
だが、2000年以上にわたって蜿蜒と続いてきたしぶとい体制だけあって、その断末魔もまた長く複雑な経緯をたどることになる。
溥儀のその後の数奇な運命については、次回で触れることにしたい。
(2000.5.25.)
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