2歳にして清帝国皇帝に即位し、6歳で国号を去らせられ、9歳で梟雄袁世凱に帝位を奪われ、幼いながらも大変な転変を経験した、宣統帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)。
もちろん、その頃までの相次ぐ政変は、少年溥儀の知ったことではない。彼は紫禁城の奥で大切に育てられていた。
「清国皇帝」の座こそ去ったものの、溥儀はそのまま紫禁城に居住することを許され、皇帝を名乗ることさえ許可されていた。革命政府から年間400万両の年金を与えられ、外国君主としての待遇を受けるという取り決めになっていた。革命政府、すなわち中華民国政府としても、いまだ溥儀を処刑する挙に出るほどの実力は持っていなかったのだ。袁世凱の調停により、そういうことに決まったのである。袁世凱は溥儀から帝位を禅譲して貰う予定だったので、ここは機嫌をとっておかなければならなかったのだ。
建前としては、溥儀は「中国」の君主ではなくなったが、「満洲族」の帝王として認められたということになるだろう。外国君主の待遇というのは、そういうことである。中華民国側の本音はどうあれ、ここで「満洲人の国家」の可能性が肯定されていることは重要である。
ともあれかなりの礼遇であり、溥儀は特に生命的危険を感じることもなく成長した。この礼遇には英国政府の助言があったと言われる。フランス革命やロシア革命に見られる、旧君主一族への残虐な仕打ちとは全く異なっている。しかし中国史には、後漢の献帝、魏の元帝、後周の恭帝、南宋の恭宗などのように、前王朝のラストエンペラーが優遇された例もいくつかあることは、このシリーズを読んでこられた方にはおわかりであろう。必ずしも英国の言うなりになったわけではない。
この頃溥儀には英国人の家庭教師がついていた。レジナルド・フレミング・ジョンストン卿、のちにこの家庭教師は当時の体験を振り返り、「紫禁城の黄昏」という本を書いた。第一級史料と言うべき書物で、映画「ラスト・エンペラー」の原作ともなった。日本でも訳本が岩波文庫から出ているが、どういうわけか恣意的にいくつかの章が削除されているので注意が必要だ。どうも、満州帝国建設に関する部分で、前章で述べたステレオタイプの見方、
──悪い日本人が、中国の東北地方を不法に占拠して、そこに傀儡国家を造り、とっくに追放されて歴史から姿を消していた清朝最後の皇帝という骨董品をひっぱり出し、操り人形として皇帝の座に据えた──
という史観に抵触する部分が削られているらしい。困ったものである。
溥儀は日本軍に紫禁城から誘拐されて「満州」へ連れてゆかれたなどという説がまことしやかに唱えられていた時期さえあるのだからあきれた話だ。ひょっとすると中年以上の人には、まだその通り信じている人がいるかもしれない。ある時期の知識人が中国当局の対日謀略宣伝を鵜呑みにしてしまってきた有様はほとんど可憐なほどで、今でもその後遺症はずいぶん残っているように見える。
袁世凱の死後、清朝の遺臣の張勲(ちょうくん)が復辟運動を起こした。かつて西太后に追われた康有為(こうゆうい)なども参加していた。これにより1917年、溥儀は12日間だけ皇帝に返り咲いたが、結局運動は失敗し、帝位は取り消される。これもまた、11歳の溥儀の知ったことではない。だが、紫禁城に彼がいる限り、彼を担ぎ出す人間が現れるおそれがあるということを感じた者は少なくなかっただろう。
7年後に急進派の馮玉祥(ふうぎょくしょう)が、取り決めを破って溥儀を紫禁城から追放したのも、革命の大義ということは別として、敵対勢力が溥儀を担ぎ出すことを怖れたとも考えられる。当時、馮玉祥の属する直隷派と、張作霖(ちょうさくりん)率いる奉天派が対立して戦闘を繰り返していた。しかも馮玉祥は直隷派のなかでも領袖の呉佩孚(ごはいふう)と反目していた。すでに中華民国などという実体は存在せず、事実上の群雄割拠状態となっていたのだ。そうであってみれば、中華民国政府の約束などは紙切れ同然である。
1924年11月5日、溥儀はわずか3時間の猶予をもって紫禁城を退去することを要求された。18歳の溥儀はこの前年に結婚していたが、新妻共々、身の回りの品々だけ携行して、父・つまりもと醇親王の邸へ移ったのだった。馮玉祥は溥儀が外国の公使館などに駆け込むのを怖れたようである。自分の行動が明らかに約束違反であり、国際的な指弾を浴びるだろうという認識はあったのかもしれない。
だが、醇親王の邸は、安全とは言えなかった。北京の学生などの間には反満洲感情が高かったので、いつ暴動が起こって邸が襲われないとも限らなかったのである。
世情がいよいよ騒然としてきて、身の危険を感じた溥儀たちは、砂塵が吹き荒れて視界の利かない日を狙って邸を脱出し、租界内のドイツ人が経営する病院に逃げ込んだのだった。
租界というのは外国人の所有地であり、租界内は治外法権とされた。治外法権ということの屈辱は、日本人とてよくわかっているわけだが、当時の欧米人としては、東洋人などに自国民の裁判を任せたら、何をされるかわからないという恐怖感があったというのもわからないではない。日本人は官民を挙げて必死になって彼らのその恐怖感を取り除くべく努力し、ようやく日露戦争後になって治外法権を撤去させることに成功していたが、中国人にはまだそんな信用はなかった。そもそも責任をとれる政府すら存在していない。中華民国などというのは、この時期は名ばかりの存在であった。そして中国人には、古来から、
──夷狄と交わした約束などは、こちらが不都合になれば破っても構わない。
という感覚がある。宋代など、その感覚によって女真族やモンゴル族を怒らせて亡国の憂き目を見たのだったが、ちっとも懲りてはいなかった。この感覚は現代にも残っており、巨大な市場をあてにして中国に進出したものの、中国側が一方的に契約の破棄や契約内容の変更を申し渡してきたために泣きを見た企業は枚挙にいとまがない。
なお、租界は横浜などにあった外国人居留地とは違う。日本政府は断乎として外国人に土地を売ることを拒否し、居留地を自分の手で整え、そこを賃貸しするという方法をとった。土地の所有権はあくまで日本側にあった。これに対し、中国は外国の政府にどんどん土地を売り渡してしまったのである。つまり、小さな区画とはいえ、英国租界は英国の領土であり、フランス租界はフランスの領土だったのだ。その中に中国官憲の権限が及ばないというのも、そう考えてみると納得できないことではない。
ともあれドイツ租界に逃げ込んだ溥儀たちだったが、家庭教師のジョンストンはそこからすぐに日本公使館を訪ねた。英国公使ロナルド・マックレー卿の示唆があったとも伝えられる。
1900年の北清事変(義和団の乱)で、八ヶ国連合軍(英米仏独露墺伊日──墺はオーストリア──)が北京に乱入したが、この時日本軍の軍紀は驚くほど粛正であり、一件の暴行掠奪も起こさず、いち早く占領地の治安を回復した。各国の軍人や外交官は一斉に賞賛の声を上げ、日本の信用は絶大なものとなった。4年後の日露戦争で、多くの国が日本を応援し、孤立主義をとっていた英国までが日英同盟を結んだのは、この時の驚きが端緒となっていると言ってよいし、不平等条約の改正もこの時からスムーズな運びとなった。
それ以来日本公使館の信用は確乎としたものとなっており、ロナルド卿が溥儀一行に日本公使館入りを奨めたのは自然な成り行きだったのである。
ジョンストンの訪問を受けた芳沢謙吉公使は、さすがにびっくりして即答を避けた。ジョンストンの描写によれば、しばらく部屋の中をぐるぐると歩き廻り、悩んだ末に溥儀受け入れを承諾したのだった。誘拐どころの話ではないのである。
溥儀たちは4ヶ月ほど日本公使館の賓客として過ごしたのち、北京ほど世情の沸騰していない天津の日本租界へ移った。
以後7年、溥儀は天津でのんびりと暮らしている。もし日本側に最初から野望があったならば、7年も溥儀を放っておくわけはないではないか。むしろ、どちらかというとお荷物に感じていたようで、日本政府は、日本国内や満州の日本租界などを溥儀が訪問することは「甚だ困惑する」と表明していた。日本政府が溥儀の後押しをしているように見られることを、とても怖れていたらしいことが偲ばれる。
そのままであれば、溥儀は啼かず飛ばず、天津で平穏な一生を終えたのではあるまいか。
溥儀自身も、退屈で束縛は多いが、とにかく安全な天津での生活に満足していたらしい。
が、その彼の考えを一変させる事件が生じた。ジョンストンによれば、その事件のあと、溥儀の態度がはっきりと変化したそうである。
それは、北京の東陵の盗掘である。
東陵は、清朝代々の皇帝の墳墓だ。
日本では早々と9世紀頃には大規模な墳墓の造営をやめていたが、中国は19世紀に至るまで続けていたのである。いや、孫文の墓である中山陵を考えると、20世紀までその習慣が抜けなかったと見てよい。中山陵はほぼ中規模古墳並の規模を持っているのだ。
そんな立派な墳墓を造るから荒らされたりするのだが、祖先崇拝を旨とする儒教の建前から言って、墓を盛大に造るというのはやむを得ないことだったであろう。
ともあれ1928年7月、兵たちの一団により、東陵の入り口はダイナマイトで爆破され、ために中に納められた棺は四散し、康煕帝の遺体も西太后の遺体もバラバラになった。もちろん副葬された金銀財宝はことごとく持ち去られた。
溥儀はさすがに南京の(名目だけの)中華民国政府に抗議したが、末端の実行犯が軽い処分を受けただけで、ひとことの謝罪もなかったという。
溥儀は自分の身について愚痴を言ったことは一切なかったとジョンストンは述べている。運命を従容として受け容れ、常に節度を保ち、この頃奉天派を中心にして高まって来つつあった満州独立の運動にも関わろうとはしなかった。中華民国政府に対してはずっと恭順の意を示してきたのだ。
だが、祖先の墳墓が荒らされ、それについて中華民国政府がなんの謝罪も補償もしなかったことで、ついに堪忍袋の緒を切ってしまったのである。
──もう革命政府など知ったことか。父祖の地に帰って、連中と関わりのない国を造ってやる。
……とまではっきり考えたかどうかは定かではないが、この頃から、「父祖の地に帰りたい」という意思を次第に明確にして行ったのは確かであるらしい。
父祖の地。それは、太祖・ヌルハチが挙兵した、山海関の外の広大な原野。古くは遼東と呼ばれ、高句麗、渤海などの国々が興亡し、清朝時代は東三省と呼ばれ、そしてこの時期には満州と称されていた地域に他ならない。
満洲というのは地域名ではなく民族名である、と前回述べた。現在の中国政府が、いわゆる東北地方のことを満州と呼ばれるのを異常に嫌うのは、かつての征服者の名前に通ずるからであろう。
しかし、ある時期その地域が満州と呼ばれたことは歴史的事実である。満洲という名前から、サンズイがひとつ落ちてはいるが、ともあれ満洲族の故地という意味でそう名付けられていたことは間違いない。日本人が勝手にそう呼んでいたわけではなく、欧米人もこの地域をManchuliaと呼んでいた。この文中でも、さしあたって基本的には満州と呼ぶことにしておく。
清朝時代、朝廷はこの地域を父祖の聖地とし、漢族の立ち入りを禁止していた。満洲族自身は数も少なく、ほとんどが中国の内地に移住してしまっていたので、事実上無人地域に近くなっていた。
清朝の力が弱まると、この地域は一種の軍事的真空地帯となり、なんとなく「取った者勝ち」みたいな状態に陥った。文献にも「Noman's land」──主のいない地、と記されている。
早速ロシアがこの地に進出して勢力を扶植した。何よりもアジア地域に不凍港の欲しかったロシアは、満州を足がかりにして朝鮮を狙うという戦略を立てていた。
ところが、朝鮮(日清戦争後、清の藩塀国であることから脱し、史上初めて「大韓帝国」を打ち立てていた)がロシアの影響下に入ってしまうと、日本はほとんど息の根を止められた形になってしまう。日本海の制海権が完全にロシアに握られるわけで、日本をどう料理しようがロシアの思うままになるのだ。それではたまらないから、日本は猫を噛む窮鼠よろしくロシアに立ち向かったのである。
この時の日本とロシアの力量差はほとんど絶望的なほどと言ってよい。よく、太平洋戦争について、
──あんなに絶対的な力量差のあるアメリカに戦いを挑むとは、なんと無謀だったのだろう。
と、開戦当時の政治家や軍人を非難する向きがあるが、日露戦争の時の力量差はそれどころではなかった。
──とても勝ち目はない。ぎりぎり奮戦して四分六分。それを作戦でもってなんとか五分五分に持ち込めればしめたもの。
というのが、その頃の指導者の感触だった。
結果はご存じの通り、日本海軍はロシアの旅順艦隊・バルチック艦隊を完膚無きまでに撃沈し、陸軍も力戦してロシア軍を押し返した。この結果が、皮肉にも「悪しき成功体験」となって、対アメリカ戦で今度は完膚無きまでに敗れ去る遠因となったと言えるのだが、日露戦争と太平洋戦争の明暗を分けたのは、戦争指導者が、どこで戦争をやめるかということをきちんと意識していたかどうかという点にあったろうと私は考えている。
実際、バルチック艦隊が敗れたあと、ロシア陸軍の総司令官クロパトキン将軍は、文字通りの戦略的撤退を図った。前線を引き下げて、広大なロシア領内に誘い込み、敵の補給線が伸びきったところを叩くというのはロシアの伝統的な戦法であり、かつてロシアはナポレオン軍もこれで撃退している。だが、日本の指導者たちはその手には乗らず、ロシア軍が撤退を始めた時点を見計らって米国に講和を依頼したのである。こうなると、撤退しつつあるロシア軍はあたかも敗走のように見え、日本と同盟していた英国も、当時もっとも世界への影響力の強かったロイター通信で、「ロシア敗走」を報じた。かくて、日本はいわば判定勝ちに持ち込んだのである。
日露戦争のことに話が逸れてしまったが、この戦争で日本軍とロシア軍が死闘を繰り拡げたのが、まさに満州の地であった。勝った日本が、ロシアに代わって満州に権益を得たのは、この時代の常識からして当然の話で、なぜ本来の所有者である清朝に満州を返さなかったのかなどとなじるのは、歴史的現実というものを全く理解していない者の言いぐさである。
この頃アメリカの鉄道王ハリマンが、満州を共同経営しないかと持ちかけてきたが、日本政府はむろんこの申し出を一蹴した。受け容れていればのちのアメリカの排日感情はそれほど高まらず、従って太平洋戦争も起こらなかったかもしれないという話もあるが、これまた後知恵というものであろう。
以来20年あまり、満州は日本の開拓によりかなり発展していた。治安も行き届いていた。
そうなると、軍閥乱立状態で混戦に陥っていた中国内地から、続々と難民が押し寄せてきた。
──満州へ行けば食える!
内地で食い詰め、行き場を失った流民たちは、ものすごい勢いで満州に流入した。その規模は年間百万人単位であったとも言う。
これに対し、日本からの植民は、政府によって計画的におこなわれたこともあり、せいぜい年間一万人がいいところであった。とても太刀打ちできるわけがない。
現在でも、日本に不法滞在する中国人を裏で支配している蛇頭などチャイニーズ・マフィアの存在が問題になっているが、この時代も同じような連中がいた。その親玉が張作霖などであったわけである。今日の日本でさえ手を焼いているのだから、規模において比較にならない当時の満州(現在の不法入国の数百倍の規模と考えればよい)では、もはや手がつけられない状態になってしまったことは言うまでもない。
──日本は張作霖を、満州における傀儡政権の主にしようとした。が、初めは日本に協力的だった張作霖も、次第に自らの野心を抱くようになった。日本を駆逐して、自分が真の意味での満州のトップになろうというのである。言うことを聞かなくなった張作霖を邪魔に思った日本軍は、彼の乗った列車を爆破して殺した──
これもまた、ほぼ定説にされている筋書きだが、私はどうかなと思う。張作霖のような得体の知れない男を、日本が傀儡政権の主として祭り上げようとしたとはどうも思えないのである。激増する中国人盲流に手を焼いていた日本側が、当初は彼らを実質的に支配しうる張作霖──つまり、チャイニーズ・マフィアのドン──に任せていた、つまりお目こぼししていたのが、次第に張作霖の態度がでかくなり、このままではとんでもないことになりそうだというので爆殺したというのが真相ではあるまいか。ただこれは私の想像であり、説として強く主張するつもりはない。
ともあれ1927年に張作霖が日本軍の手によって殺されたことは事実であり、その息子の張学良は蒋介石と結んで復仇を狙った。満州もまた戦乱の渦に巻き込まれつつあったわけである。
ひとつには、満州の帰属がはっきりしていないという問題があったのかもしれない。満州鉄道(いわゆる満鉄)の沿線については日本の統治が認められていたが、それ以外の広大な部分は、依然として「Noman's
land」であるというのが国際認識であった。
中国はこの時点で、はっきり言って国家の態をなしていない。一応中華民国政府がその代表ということになっていたが、その威令は全然行き届いていない。隋の煬帝が死んだ後、まだ唐の高祖が全国統一を果たしていないような状態、あるいは五代十国時代のような状態になっていたと言ってよい。
こうなれば、満州の地に、しっかりした国家をあらたに建設するしか打開の道はないと考えるのは、特に天才的な洞察を必要としない、自然な成り行きである。
満州国の建設というプランは、こうして現実味を帯びてきた。日本政府は、そんな明らかに「日本の傀儡」視されるに決まっている国の建設など認めなかったが、現地で治安維持に当たっている関東軍にとってはもはや切実な問題になっていた。
関東軍にとって、棚ボタのような事態が持ち上がった。
1930年、いわゆる統帥権干犯問題が表面化したのである。
明治憲法を字義通りに受け取れば、軍隊は内閣の掣肘を受けないことになっていた。
誰もそんなこととは思ってもみなかったようだ。憲法を制定した伊藤博文らも、まさかそんなことが問題になるとは予想もしていなかっただろう。日清・日露戦争も、北清事変も、日本軍は内閣の指導のもとに戦ってきたのである。
が、実は、それは正確に言うと内閣の指導ではなく、維新の元老たちの権威による指導でしかなかったのだった。それに気づかず、憲法制定者たちは、軍隊が内閣の統帥権に従うという条項をうっかり入れ忘れてしまっていたのだ。
ところが、維新の元老たちは次々と死に絶え、この当時残っていたのは西園寺公望ただひとりであった。もはや権威を持って軍を抑えられる人間はいない。そしてこの期に及んで、政府の対外的弱腰に業を煮やした軍幹部が、憲法の不備を衝いて問題にしたのである。
軍は天皇のみに直属する機関であり、統帥権を持たない内閣の指示に従わなくてもよい。内閣が軍に口を出すのは、天皇のみの持つ統帥権の干犯である──というわけだ。
そんな無茶な話はあるわけがないので、不備に気づいた時点で憲法を改正すればそれで済んだのだが、あいにく明治憲法も、現在の憲法と同じく、改正などとんでもない「不磨の大典」と考えられていた。かくて、軍の暴走が始まったのである。
関東軍首脳たちは、さらにこれを拡大解釈した。軍の上層部が内閣に従わないのなら、前線の部隊も軍の上層部に従わなくてもよさそうなものだ。
かくして、一挙に「満州国建設」プロジェクトが具体化した。
その統治者は誰がよいのか。張作霖のごとき、どこの馬の骨とも知れぬ男では、誰も納得すまい。
ここで、プロジェクト推進の総元締めとも言える関東軍の石原莞爾は、溥儀の存在に思い当たった。
かつて満洲族の皇帝であった愛新覚羅溥儀。彼なら、新生「満州国」の元首として、申し分のない正統性を持っているではないか。しかも、日本に対して深い信頼を寄せている。
溥儀であれば、満州の人々に対して高い権威を持って君臨しつつ、大変親日的に振る舞ってくれることが期待できるのである。
7年間、飼い殺しのような状態で天津に寓居していた溥儀が、再び歴史の表舞台に立つ時がやってきたのだ。
片方の手だけでは、音は鳴らない。
関東軍がいくら陰謀を巡らそうと、溥儀の側にその気がなければ、こんなプロジェクトは成功したわけがないのである。
東陵の盗掘事件で、溥儀は中華民国に忠誠を尽くす義理を感じなくなっていた。父祖の地に戻って自立したいと思っていたとしても不思議ではない。
だが、自立するための強大な軍事力が、彼にはなかった。清朝の遺臣は、のちに満州国国務総理となった鄭孝胥(ていこうしょ)をはじめとして、徐々に彼の周囲に集まりつつあったが、彼らだけでは行動を起こすことはできない。
そんな時に、関東軍からの誘いがあったのである。彼らの望んでいた強力無比の軍事力が、向こうから転がり込んできたのだ。
歴史を顧みるに、微弱な力しかない皇帝が異民族の力を借りて帝位を保持したという例は、決して少なくない。後漢の献帝は、洛陽に逃げ帰るにあたって、匈奴(きょうど)に保護されている。あの堂々たる唐朝でも、龍k(ほうくん──最初の時は実際にはマダレがつく)の乱の時に突厥(とっけつ)に頼っている。後晋の高祖が契丹に助力を頼んだため長い恨みを残したのはよく知られている。皇帝ではなかったが、かの呉三桂も李自成を倒すべく満洲族と手を結んだ。
要するに、古来中国においては、異民族と組むかどうかは、その時々の情勢により、選択肢のひとつとして普通に考えられていたことであって、何も売国奴とか民族の裏切り者とか、そんな大層な話ではなかったのだ。中国的離合集散の一形態であるに過ぎない。
満洲族の皇帝であった溥儀だが、そのメンタリティはとっくに漢化していたと思われる。父祖の地で再び旗を揚げるにつき、日本軍を傭兵として利用することに、別に後ろめたさはなかったであろう。ましてや「中国」とは無関係な、満洲族の父祖の地で自立するだけのことなのだ。
関東軍が溥儀を利用しようとしていたことは疑いない。だが、同じくらい溥儀も関東軍を利用しようとしていたのではないかという議論は、これまで不思議とあまり問われて来なかったように思う。溥儀個人とは言わなくても、彼を中心とした中華皇帝としてのシステムがそれを望んだとは全く考えられないことだろうか。
関東軍の下心を非難するのは容易だ。だがまあ、全くなんの見返りも望まずに、義侠心や同情心だけで人を君主に擁立するなどということは、世界中どこの歴史をひっくり返してもあったためしがない。だから下心の善悪などはここでは問題にはならないと言える。大事なことは、溥儀、少なくとも溥儀周辺が、これは千載一遇のチャンスだと思わなかったはずはないという点であり、そうでなければ満州国など成立すべくもなかった。
1932年、溥儀は奉天に迎えられてひとまず執政の地位に就き、翌々年満州国皇帝を称した。近侍の者たちはひとり残らず涙を流して「万歳」を唱えたという。どれほどこの日を待ち望んでいたことか。
軍事その他多くの権限が関東軍に握られていたことは事実である。実際のところ、帝位には就いたものの、その下で皇帝の手足となって働くべき厖大な官僚機構を満たすだけの人材は、もともと人口の少ない満洲族だけではまかないきれなかった。
満州帝国は、少なくともスローガンとしては、五族協和を謳っている。満蒙日鮮漢、すなわち満洲人・モンゴル人・日本人・朝鮮人・漢民族が全く同等の権利を持ち、差別のない社会を作ろうというわけだ。人種・民族差別の解消というのは、早くから日本の国是となっている。国際聯盟の発足時も、人種差別撤廃条項を入れるように強硬に主張したのが日本代表であったが、欧米列強にあっさり否決されてしまったという史実は、誰でも知っておいた方がよい。五族協和は建前であったかもしれないが、その理想に感動して、本気で平等な世を実現しようと大陸へ渡って行った人々もたくさんいたことを忘れてはならない。
その建前からすると、軍事や政治に関して日本人に任せるというのもまた、正当性を持つ判断であったと言えないこともない。何しろこの時点で、近代国家を運営する経験を持っているのは、五族の中で日本人しかいなかったのだから。
ただし、皇帝権力というものの本質的な性格についても、私はこのシリーズで何度か触れてきたつもりである。
皇帝権力は、その本質として競争者を許さない。単独の家臣が力を持つことを嫌い、その足をひっぱることに腐心する。ある時はその家臣に対する敵対勢力を育て、ある時は罪を着せて処刑してしまう。それは皇帝個人の人格とはなんの関係もない。
また後漢の献帝の名を出すが、献帝は大恩あるはずの曹操に対し、二度までもクーデターを企てた。献帝が恩知らずだったのではない。曹操が強くなりすぎたのだ。強くなりすぎた臣下は叩くというのが、皇帝権力というものの本能なのである。
皇位継承の目がなかった皇族を皇帝に擁立するという大功をたてた家臣が、無惨にも当の皇帝に処刑されたという例も枚挙にいとまがない。史書にはよく、家臣が擁立の功を鼻に掛けてでかい態度をとったからだと記されている。確かにそんな家臣もいたかもしれないが、毎度毎度そうだったとは思えない。事実は、「恩義がある家臣が生きているだけで、皇帝権力にとっては目障り」だったのだ。もう一度言うが、それぞれの皇帝が個人として不義の人だったわけではない。皇帝権力というのは本質的にそういうものなのだ。
ここを押さえた上で、最後の場面に飛びたい。
満州帝国の建設は、しかしやはりまずかった。
国際的な根廻しを一切していなかったというのが最大の失敗だ。
明治時代の日本は、臆病なほど国際的な評判を気にした。北清事変の時の一糸乱れぬ見事な行動も、欧米に対して、日本という国がいかに規律を守る安全な国であるかということを見せつけんがためであった。日露戦争の時も、実に慎重に国際世論を味方につけるべく策動を重ねている。
韓国の人にとってはいまいましいことだろうが、日韓併合の際も、日本政府は、そこまでやらなくてもいいんではないかと思われかねないほど慎重に諸外国の意向を訊ね廻ったのだ。訊ねたすべての国が、
──現状では韓国は日本と合併するのが望ましいと思われる。
と答えたので、ようやく併合に踏み切ったという経緯がある。
これほどに根廻しや国際的な評判を気にしていた日本が、昭和に入るとガラッと変化してしまうのは怖ろしいほどである。
もちろん、明治時代はそういうことを「政治家」がやっていたのに、昭和には「軍人」がやり始めたからである。軍人にはそんな微妙な外交工作はわからない。行動あるのみである。
満州帝国を造るなら造るで、列強のうち少なくとも3つや4つの国の内諾くらいはとっておくべきだったのに、そういう手続きを怠った時点で、失敗は目に見えていた。はたして国際聯盟は満州国を承認せず、日本は孤立無援に陥って聯盟を脱退するに至る。
隠微な根廻しを必要とする国際的な駆け引きは、今でも日本人は苦手である。またそういう面で暗躍する政治家や外交官をうさんくさく思い、「寝業師」などと呼んで忌み嫌うところがある。だが、そうした直情径行なメンタリティこそ、戦前の日本を孤立化に追いやった軍人たちのそれと同質なものであることを知るべきだろう。
満州帝国の建国自体の善悪は問題ではない。こういう蜃気楼のような国家が成立しうるさまざまな条件が、全く偶然にもある時点で揃ったというだけのことである。
だが、建国のための手続きを怠ったのは、これは犯罪的と言ってもよい失策だった。
この失策によって、日本は友好国をただのひとつも持たなくなってしまったのである。当の満州帝国だけは友好国と言ってよかったが、この時点ではちっとも頼りにならない。
中華民国政府ははっきりと日本を敵国とした。これに対して関東軍の若手将校は、今度は中国内地に傀儡政権を造ろうと暴走し始めた。
──それは全く話が違う。馬鹿なことはよせ。
満州国建設のプロジェクトメーカーであった石原莞爾はそう叱りつけたが、若手将校たちにとっては説得力がなかった。そもそも石原さんが満州でやったことではないか、という点をつっこまれると、石原もあまり強くは言えなくなってしまったようだ。結局、内閣の言うことを聞かなくなった軍、軍上層部の言うことを聞かずに暴走した関東軍、その関東軍上層部の制止も聞かなくなった若手将校、という具合に、連鎖反応的に下部組織が暴走し始め、収拾のつかないことになってしまったのである。下剋上というのはひとたび起こると、下へ下へととめどなく波及してゆくのは歴史の教えるところだ。石原は陸軍きっての切れ者と言われた男だが、その点に思い至らず、若手将校たちに痛烈なしっぺ返しを受けたあたり、やはり所詮は一軍事官僚であるに過ぎなかったと言えよう。
かくて中国との全面戦争となった。
この頃、中華民国の国民党に圧迫されていた共産党軍は、国民党軍と日本軍というふたつの強敵を咬み合わせて漁夫の利を得る戦法を立てた。日中戦争の事実上の発端となった廬溝橋事件は、共産党軍の陰謀によるものであることが最近は定説化している。
泥沼の戦いになった。
だが、この間、満州帝国の国内はごく平穏だったのである。
1945年、ソ連軍が進撃してくるまでは。
日中戦争の泥沼にからめとられながらアメリカとの戦争まで始めてしまった日本は、日ソ不可侵条約をほとんど唯一の心の支えにして、満州をほぼ空にして軍隊を捻出していたのだ。残った部隊も、敗色濃厚になってくると、本土防衛のために次々と内地へ呼び戻された。
だが、日本の敗北が必至になったことを見て取ったスターリンは、予告もせずに一方的に条約を破棄、大軍をもって満州になだれ込んだのである。
軍事的空白状態になっていた満州は、圧倒的なソ連軍の侵攻に抗すべくもなかった。
すさまじい殺戮と暴行と掠奪がおこなわれた。そういえば北清事変で出動した八ヶ国連合軍のなかで、ロシア兵の狼藉はもっとも甚だしかったと言われる。
多くの民間人が命を落とし、生き延びた人々も一家離散の憂き目を見た。その結果が、後年の中国残留孤児問題となって尾を引いたわけである。しかし、満州の人々が、日本人の子供をかくまい、生活が苦しい中を養育してくれたのは、住民個々人としては決して日本人に反感を持っていたりしたわけではないことが偲ばれ、わずかな救いが感じられる。日本人は彼ら旧満州人(「中国人」ではない)に対して、深い感謝を捧げなければならないだろう。
ともあれスターリンの電撃作戦で、皇帝たる溥儀さえも泡を食って逃げ出さざるを得なかった。彼は家族と共に日本に渡ろうとしたが、奉天飛行場でソ連軍に捕らえられてしまった。
かくて、うたかたの満州帝国は、建国わずか14年で亡びた。それでも五代の国々の平均寿命を超えてはいる。
あとのことは、よく知られている。
東京裁判に証人として出頭した溥儀は、
──自分は「中国人」として失地の回復を図ったのである。
──日本は満州国内で、神道を強制した。
──妻は日本軍の手により毒殺された。
などと証言した。しかしこれらの証言はあまりに穴がありすぎ、アメリカ人弁護士によって徹底的に反証された。
──なんという忘恩の輩だ!
と怒髪天を衝いた日本人がこの時たくさんいた。
だが、怒り狂った者も、溥儀の証言を鵜呑みにして日本を罵る者も、どちらも中華皇帝のなんたるかを理解していないのである。
皇帝は無謬でなければならない。皇帝が失敗した時は、誰かが代わって罪をかぶらなければならないのだ。
名君と言われた前漢の景帝にして、呉楚七国の乱が起こると、黽錯(ちょうそ──最初の文字は実際には「旦」の下に黽)を犠牲にして身の安全を図っている。黽錯は景帝自身の意を呈して、各地の王国の取り潰しを実行していたのだ。彼にとってみればまったく理不尽な話だったろうが、こういうトカゲの尻尾切りみたいなことは多かれ少なかれどの王朝でもあったわけで、そうなった時にじたばたせずに犠牲になるのが忠臣というものであった。
このたびは、そのように切り捨てられるのが日本人であっただけの話である。溥儀個人の道義心とはなんの関係もないのだ。
ましてや日本軍は溥儀を満州国皇帝に擁立した「功臣」、つまりいずれは叩かなければならない存在だった。繰り返し述べてきたように、皇帝権力にとって、恩義ある功臣ほど邪魔なものはない。
溥儀がここで日本をいわば「売り渡した」のは、中華皇帝として当然の行動だったのだ。
忘恩の徒だなどと怒り狂うのは、大陸的政治というものを全く理解していない無邪気な人々であり、一方その言葉を鵜呑みにするのも、思考の停止した痴愚的な状態と言わざるを得ない。日本は権謀術数に敗れた、ただそれだけのことなのだ。
溥儀はその後中華人民共和国に身柄を引き渡され、洗脳機関の疑いを持たれている撫順収容所、それからハルビン収容所に廻され、1956年の瀋陽(シェンヤン)での日本戦犯裁判にも出頭して、満州国が全く日本の傀儡国家であったことを証言した。これまた、怒る人も信じる人も、どちらも愚かであると思う。
1959年、特赦によって収容所を出て、その後二度目の結婚もしている。1964年には第4回全国政治協商会議全国委員会の委員となったが、その3年後、文化大革命の嵐が吹き荒れ始めた時期に病没、その数奇な生涯を閉じた。
彼の本心がどうであったか、もはや知るすべはない。中国政府の監視下で書かれた自伝「我が前半生」があまりあてにならないことは前回述べた。
ただその行動から見る限り、やはり彼は「偉大なる中華皇帝」以外の何者でもなかったように思われてならないのである。
(2000.5.27.)
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